2015年12月31日木曜日

人外句境 30 [高山れおな] / 佐藤りえ



初夢に踊り狂へり火星人  高山れおな

「初夢」が正月の大晦日から新年三日ぐらいのあいだに見る特別な、運勢を占う夢としてひろまったのは江戸時代ごろというが、起源ははっきりしていない。一富士二鷹三茄子、は家康の好物である、などという俗説も巷間には唱えられているようだがそれも定かなものではないようだ。さらに言えば、「宝船の絵を枕の下に敷くといい夢が見られる」ことは初夢とは別に発達(?)した風習なのだという。いろいろな思惑が組み合わさり、睦月二日の夜から三日の朝にかけてよい夢を見て、一年の幸運を得るために、宝船の絵を枕の下に秘す、というのが現在のスタンダードなまじないの一連だろうか。

掲句では、火星人が踊り狂っているのだという、初夢で。これはいったいどんな卦が読み取れる夢なのか。踊り狂う、と表されるその踊りは、ゴーゴーダンスのようなものだろうか。火星人のビジュアルはやはり『マーズ・アタック』に登場するような(というよりはほぼH・G・ウェルズ『宇宙戦争』のせいと言うべきか)おなじみのタコ型なのだろうか。地球人の夢が地球の事象に限定される謂われはない。なのに我々は現実空間に縛られすぎている。それにしても、これは途中で飛び起きてしまいそうな夢である。

句集『ウルトラ』には他にもラジカルな夢にまつわる俳句が登場する。「チチョリーナ」は世界初のハードコアポルノ女優出身の国会議員として90年代当時何度もニュースに登場した人物である(ググってみたら御年64歳とのこと)。

 昼寝せば額に釘打たるる恐れ 
 白鳥の首つかみ振り回はす夢 
 大根の畑を夢で拡げけり 
 チチョリーナの夢に見られて沖膾 
 早馬が夢の花野を過りけり

句集題『ウルトラ』は文字通りの「超」の意味はもとより、フランス王政復古期の極右反動の一派「超王党派」を意識しての命名である、とあとがきにある。超王党派の“天晴れな現実無視と時代錯誤の精神”とは、現代俳句そのものをある側面からまったく等身大に言い表しているように思えてならない。

〈『ウルトラ』沖積舎/1998所収〉

2015年12月24日木曜日

人外句境 29 [竹久夢二] / 佐藤りえ



チルチルもミチルも帰れクリスマス  竹久夢二

メーテルリンクの戯曲「青い鳥」は童話として親しまれているが、主人公のこどもふたりが青い鳥を探して巡るのは「記憶の国」「夜の宮殿」「墓の国」「森の国」といった暗示的なところで、冒険譚というよりは、もうはっきり哲学的な設定が色濃い。

掲出句では夢二本人がそれら国の住人となり、ふたりのこどもに帰宅を促しているようにも見える。「どこまで行っても幸福はないから帰れ」なのか…とは、物語の「鳥」を幸福のメタファとして限定しすぎた解釈になろう。進取の気性に富んだ夢二にして、そのようなオチをつけるのは違う気がする。自らのアメリカ進出の失敗を重ね合わせて…などと言っていくと、より道をはずれていきそうだ。ここは、クリスマスなんだから、家でお菓子を食べなさい、と言っているぐらいに取っておきたい。

「夢二句集」は竹久夢二伊香保記念館が発行した、夢二の全句をほぼ編年体で収録した一冊。掲出句は結核を患い入所した、富士見高原療養所での最晩年の作になる。

 押へれば花はなせば胡蝶かな 
 淋しさは牛乳壜のおきどころ 
 パレットに蛭のおちきて染りけり 
 今は昔星と菫があつたとさ 
 ふりあげし袂このまゝ羽根となれ 
 来て見れば拙(まづ)い男よ富士の山 
 梅の木はどこから見ても漢字なり

「押へれば花はなせば胡蝶かな」女性のことを詠ったと思われる作。「今は昔星と菫があつたとさ」は明星派への皮肉のようにも受け取れる。「来て見れば拙(まづ)い男よ富士の山」は「黒船屋」発表後の充実期、富士登山の折に詠んだもの。詩情ただようものからこうしたおどけた調子のものまで、多様な句を残している。

〈『夢二句集』竹久夢二伊香保記念館/1994所収〉

2015年12月20日日曜日

ノートは横書きのままで。3[武藤紀子] /  宮﨑莉々香



 
魚はみな素顔で泳ぐチェホフ忌  武藤紀子

 チェホフ忌といえば、中村草田男の「燭の灯を煙草火としつチエホフ忌」を思う。『俳句入門』(1971年角川学芸出版)で秋元不死男はこの句に対し、季感について考察している。「作者がこれらの句では季感表出を意図しようとしたのではなく、寓意と象徴をそれぞれ表出しようとしたからである。」

 掲句。アントン・チェーホフは有名なロシア文学の作家の一人であるが、文豪としての顔を持つ一方で複数の女性と関係を持つなどし、紳士的でない人間臭い一面も見られたとされている。人間らしく自分に素直に生きた、チェーホフの一面に、魚に対するしみじみとした発見を重ねあわせている。

<「圓座」2015年10月号所収>

2015年12月17日木曜日

人外句境 28 [小川軽舟] / 佐藤りえ



夕闇に冷蔵庫待つ帰宅かな  小川軽舟

一人暮らしの部屋にひとりで帰る。留守宅で待っていてくれる家財道具のうち、冷蔵庫はもっとも頼もしい存在と見なしてよいと思われる。一人暮らし用ではさほど巨大ではないかもしれない(2ドア、140センチほどの製品もあるし)が、通電して食品を冷やしていてくれること、人並みの大きさと存在感を有していること、扉を開ければ庫内灯がともることなど、実に頼りがいのあるものである。ここでの「冷蔵庫」は擬人化とみなすより、そのものが待っている、と受け取りたい。人には無理だが、冷蔵庫ならビールを冷やしていてくれる。腹の中で。

『掌をかざす』はふらんす堂のホームページ上に掲載された俳句日記をまとめた句集である。この日記は一日一句ずつ、きっちり365日更新されていくもので、2007年の東直子氏の短歌日記を皮切りに、年替わりで歌人・俳人が担当している。

句集の構成はホームページ掲載当時のままに、ページごとに一句とその日の短い日記が綴られている。こうした構成により、小川軽舟氏が当時単身赴任の独居であったこともわかった。句集からもう少し句を引く。

 爆竹を痛がる地べた春近し 
 梅散つてこの世のどこか軽くなる 
 白梅や死んでから来る誕生日 
 暗闇は光を憎みほととぎす 
 虫しぐれスターバクスの人魚照る 
 人間が人形に見ゆ冬の雨

「爆竹を痛がる地べた春近し」は春節の日の句。「白梅や死んでから来る誕生日」は虚子忌に詠まれた句である。「人間が人形に見ゆ冬の雨」は四谷シモン展を訪ねた日の一句。日記の記述と俳句との距離感もさまざまである。ページ一句組みの句集とはまた違った、歩調をゆるやかに読むことができる本である。

インターネットが一般に普及した、その開始時期をいつからと考えるか、定説といっていいほどに時期が定まっているとは思えないが、常時接続が広まった2000年代はじめ頃から、と考えたとしても、すでに10年以上の月日が流れている。通信速度の高速化、大容量化は進んだが、それによって詩歌の表現や伝播方法が大きく変質したのかというと、そうでもないのではないか、と、実感に照らし合わせて考える。

情報量が増えたとはいえるが、詩歌の見せ方そのものはインターネット黎明期と大きく違ってはいないのではないか。特に新しい技術を要しているわけではない、短歌日記、俳句日記といったコンテンツが今成り立ち、紙の本へとゆるやかにつながりを見せているのは、毎日更新する、という書き手と編集側の地道な努力によって培われているものである。
何ができるか、どうするか―と、「何を見たいか」が如何に噛み合うか、なのだろうか。短歌日記、俳句日記には即時性と一貫性の綾があると思う。

〈『掌をかざす』ふらんす堂/2015所収〉

2015年12月13日日曜日

ノートは横書きのままで。2  [藺草慶子] /  宮﨑莉々香




夏めくや何でも映すにはたづみ  藺草慶子


 この冬に、藺草慶子氏の第四句集がふらんす堂から刊行された。「いづこへもいのちつらなる冬泉」の一句が本の帯に大きく印刷してある。季節は「冬」だが、夏の俳句をひとつ。

 「にはたづみ」は雨が降って、にわかに地上にあふれ流れる水のことであり、枕詞でもある。要するに水溜りのことであるが、にはたづみに対する「何でも映す」が実に清々しい。最近気になっていることは、別誌文章にも書いた通り、副詞の使い方である。「何でも」は「映す」という動詞に対してプラスの方向性に掛かっている。夏のはじまりの晴れ晴れとした景色に「何でも」が呼応していくのである。

<『櫻翳』2015年ふらんす堂所収>

2015年12月10日木曜日

人外句境 27 [藺草慶子] / 佐藤りえ



たましひも入りたさうな巣箱かな  藺草慶子

何年か前の夏、短い避暑として清里高原を訪ねた。清泉寮に泊り、翌朝は周囲の自然歩道を散策した。歩道から見える森の中だけでなく、施設の近辺にもリスや野鳥のための巣箱がちょいちょい設置されていた。8月なかばでも標高1300mの朝夕はかなり涼しい。掲句を見て思い出したのは、高原の森のかたすみに設えられた巣箱だった。

いつか自分のたましいが入ろうというのか、そのへんにただようたましいが入ってしまいそうに居心地のよさそうなものなのか。たましいの「容れ物」としての巣箱は静かな空間を思わせる。鳥のなかには以前の住人(住鳥か)の巣材が残っているところには巣作りをしないものもいる。空き家が増加し続けるかつてのニュータウンに住む身からすると、人間の「巣」は地上の愚かな残骸だよなあ、という思いがする。

掲句の収録されている 『櫻翳』は今年刊行された著者の第4句集。静かな視線が投げかけられ、五感の用いられ方がじわっと後からきいてくる印象がある。句集からもう少しひいてみる。

 十人の僧立ち上がる牡丹かな 
 わが身より狐火が立ちのぼるとは 
 納めたる雛ほど遠き人のあり 
 火の映る胸の釦やクリスマス 
 額づけば海の匂へる踏絵かな 
 白靴や奈落といふは風の音

「わが身より狐火が立ちのぼるとは」あまり驚いていないように見えるところが愉しい。何かが出そうで、出たと思ったら狐火だった、まあ、ぐらいの肝の据わった感がある。「納めたる雛ほど遠き人のあり」、憧憬、距離感の喩として年に一度取り出す「雛」が用いられている。ここでの「雛」は不滅の存在でもあるように思う。

〈『櫻翳』ふらんす堂/2015所収〉

2015年12月6日日曜日

ノートは横書きのままで。1 [石田郷子] /  宮﨑莉々香



 かへりみて冷たき空のありにけり  石田郷子


 「空」を詠んだ俳句はたくさんある。青空、大空、季節の空。なんども同じことを詠んで、そのなかで一番いいものが生み出せたらそれでいいよう思って、今日も空がわたしの前にあるなあ、と思って、俳句ノートをひらく。

 わたしたちは「冬空」として空を認識することはなく、おそらく「空」として空自体を見る。 振り返り一瞬で冬空を感じることはない。ただゆっくりと、奥まで澄みきった「空」を認識し、それから「冬空」としての「空」をたしかめていく。「冷たき」は「空」を修飾しているので、もちろん空が寒々としていると見ることができる。一方で、作品の主体自身も「つめたさ」をからだに感じていて、身体的な寒さを追うようにして空がひらける。自身の感覚を通して「空」を「冬空」と捉えているようにも考えられる。

 振り返る行為はあらためるニュアンスを含む。いつも目にしている空だが、あらためて見ると違って見えた。それはただの「空」でなく「冷たい空」だったのだ。


<『草の王』2015年ふらんす堂所収>

2015年12月3日木曜日

人外句境 26 [髙橋睦郎] / 佐藤りえ


大凧の魂入るは絲切れてのち  髙橋睦郎

畳一畳、とまでいかなくとも、大ぶりの凧を上手に揚げるには力とコツが要る。紙であるのに、上手にあがった姿はおのずから自由に動いているふうにも見える、凧は単純にして愉しい遊びである。
おのずから動いているふうに見える、けれども、凧の魂が呼び覚まされるのは、糸が切れ、人間の力の及ばぬところとなった後だという。重力にしたがってあとは落ちるばかり、そこに凧の自由?がある。落ちるばかりなどというのは、人間の側の小賢しい見方であって、凧揚げなどというものは、そもそも人間側は「揚げさせていただいている」のかもしれない。空に行かねばならぬ、という、凧の意思に操られているのはこちらの側ではないのか。

『稽古飲食』は前半部分が句集『稽古』、後半部分が歌集『飲食』となっている句歌集である。飲食にまつわる短歌のみの歌集『飲食』を上梓しようとしたところ、安東次男氏のすすめにより句集と対にする仕儀となったことが巻末の「佯狂始末」に綴られている。
句集部は八百万の神を引き合いに出すまでもなく、あらゆるものの声が、昼夜も明暗もいとわず、そこかしこから聞こえてくるような、季感と人事の間隙をすくいとったような句が並ぶ。「何」とも名の知れぬ、この世のものかどうかもわからない何者かの気配が、読み進む合間にすっ、と感じられる。

黴の秀の靡きに二百十日來る 
山梔子のくたるるもなほ奢りかな 
ななくさや落ちて暗渠の水のこゑ 
世阿弥忌のこの波がしらいづくより 
大甕に湛へて後の無月かな 
早乙女が足もてさぐる泥の臍

一方、歌集部は悉くデモーニッシュな世界がつらぬかれ、濃味についついページがすすむ。

うちつけに割つてさばしる血のすぢを鳥占とせむ春立つ卵
食慾も性慾も過ぎずは浄し然言へ過ぐるゆゑ慾とこそ
飲食の入り來る道の反(かへ)りをば出で行くなれば腥し言葉
蓮食ひのうからならねどこの頃や穴(あ)開きしごと繁(しじ)に忘るる

一冊の書物の、前半と後半のコントラストの妙を味わう、などという生易しい惹句が跳ね返されてしまいかねない、しかし何か癖になる、中毒性のある本である。

〈『稽古飲食』不識書院/1988〉

2015年11月25日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 26[高橋淡路女]/ 依光陽子




掃きとるや落葉にまじる石の音   高橋淡路女


落葉を掃いている人がいる。作者か他の誰か。静かに耳を澄ませて句を読んでみる。箒の先が地面を軽く引掻く音、乾びた落葉と落葉がぶつかりながら立てる音、それらの軽い音の中にカツンと硬い石の音。

落葉を掃いていて石が混じっているというモチーフは珍しくない。山ほどある。しかし「掃きとるや」の上五が書けそうで書けない。「掃く」と「掃きとる」は全く違う。塵取りにザッとのった一瞬の音の混在を作者は書分けているのだ。音だけではない。石は重く落葉の下に隠れて、掃きとっている人の目には映らない。視覚的には落葉が見えているだけだが、音でその下に石があるのだとわかる。落葉の一つ一つの在り様まで見えてくる。

他にも、
冬ざれやものを言ひしは籠の鳥>籠の鳥の声がした前後に何も音のない空間。心の中にまで及ぶ「冬ざれ」という季題の効果。<白菊のまさしくかをる月夜かな>この「まさしく」が白菊の凛とした白と芳香をこれ以上ない程に表している。<渋柿のつれなき色にみのりけり>「つれなき色」などという言葉、どこから出て来るのだろう。心底驚かされる。

高橋淡路女は明治23年神戸に生まれたが12歳ごろ東京佃島に転居。大正2年に結婚したものの翌年夫と死別している。本格的な作句は大正5年から。「ホトトギス」を経て、大正14年に飯田蛇笏に師事。「雲母」「駒草」(阿部みどり女主宰)に拠る。掲句を含む第一句集『梶の葉』は明治45年から昭和11年までの作品のうち蛇笏選870句を収録する。「○○女」という俳号は月並で、名前からのインパクトが薄いという点で淡路女は損をしていると思う。870句の打率は決して低くない。蛇笏にして「その実作に於ける芸術価値といふものが、幾多彼女等の追随をゆるさぬ、独自な輝きを示すところがある」(『梶の葉』序)と言わしめただけの内容である。

序文における蛇笏の力の入れようを、もう少し引いておこう。
蛇笏は故人女流俳家二三者として千代女、園女、多代女の句を引用した後にこう続ける。

要するに彼女等の諸作が持つ薄手のクラシカルな芸術味に比し、これを咀嚼し、而してこれを滲透し、より高踏的に、若干の近代味をもつてコンデンスされた俳句精神の顕揚が、著しく淡路女君のそれを高所におくことを瞭かにすると思ふのである。 
(句集『梶の葉』序 飯田蛇笏)

また、同世代の女流に対しても、たとえ天稟の才能があっても時に地に足が着かない憾みを感じていたという蛇笏が、淡路女については、その自覚的矜持を深く秘めながら女性的常識を失うことなく「実に生命的な、うつくしくして厳かなるものであることを反復せなければならない」と賛辞している。

淡路女の句は一読、平明淡白だが、読むほどに情感の豊かさ、言葉の抽斗の多さと的確さ、素材の掴み方に目を瞠る。彼女の巧みな言葉遣いにかかるとなんでもない景に光が与えられる。
俳句とは何かと考えるとき、淡路女の句に学ぶところは多い。


春寒しかたへの人の立ち去れば 
花曇り別るる人と歩きけり 
かんばせのあはれに若し古雛 
まはりやむ色ほどけつつ風車 
居ながらに雲雀野を見る住ひかな 
炎天を一人悲しく歩きけり 
風鈴に何処へも行かず暮しけり 
ふくよかに屍の麗はしき金魚かな 
むかし業平といふ男ありけり燕子花 
家出れば家を忘れぬ秋の風 
うきことを身一つに泣く砧かな 
紫陽花の色に咲きける花火かな 
草市やついて来りし男の子 
ぽつとりと浮く日輪や冬の水 
冬の蠅追へばものうく飛びにけり


(『梶の葉』昭和12年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年11月13日金曜日

黄金をたたく27  [西東三鬼]  / 北川美美



水枕ガバリと寒い海がある  西東三鬼

 出世作、そして三鬼が俳句に開眼した有名句である。読むほどに大胆。三鬼句の魅力は直観の鋭さと予測できない大雑把な感覚表現にあると思う。

 「水枕」と「寒い海」の取り合わせが相当衝撃な上、「ガバリ」が飛びぬけて唐突だ。水が大きな音をたてる擬声音、突然物事が起きる擬態音のどちらにもとれ、どれがどちらでも佳いことのように豪快で大袈裟な感覚が残る。加えてカタカナ表記が蛍光点滅して見えてくる。(初出の京大俳句投句時は「がばり」である。)
  
  リアリズムとはなんぞ葡萄酸つぱけれ (全句集・拾遺)

 三鬼ひいては新興俳句が文学上のリアルについて意欲的に考察した。外来語を多用した三鬼だが、副詞的用法のカタカナ表記が生き生きと臨場感ある表現として効いている句は後世にもまだ掲句のみかもしれない。

三鬼が積極的に関わった「新興俳句運動」は モダニズム、ダダイズム、ニヒリズムとも合流し反伝統を旗印にし、時を越え、蛙が飛び込む水の音さえ「ガバリ」と聞えてくる。

 ウルトラ怪獣として命名されたダダ、ブルトンは三鬼句には登場して来ないにしても掲句はバルタン星人の作句と思える衝撃が今もある。

以上 面115号(2013年4月)から加筆転載
<昭和11 年作の句 『旗』所収 西東三鬼全句集 沖積舎>

2015年11月11日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 25[中尾白雨]/ 依光陽子




ふる雪にみなちがふことおもひゐる    中尾白雨


雪が降っている。次々と現れては目の前を落ちてゆく雪片。まっすぐ落ち、風に撓り、枝に懸る。大きな雪片。小さな雪片。光。翳。

掲句は「療養所の人々」と前書がある。療養所の箱の中の、更に一つ部屋の中の人々。四角い窓の外に雪片の絶え間ない運動が見えているだろう。窓辺に立って見ている人はガウンのようなものを羽織っているだろうか。重ね着とはいえ痩せた身体は寒々としているだろう。ベッドに横たわって天井を見つめている人もいるだろう。瞼を閉じている人もいるだろう。世界は白く、ベッドのパイプも白く、人々の着衣も白く、後姿も白いことだろう。

雪が降っている。
その日、その時の雪を見ている人。その誰もが違うことを思っているだろう。それはそうだ。人それぞれ違うのだから。だが療養所に入っている人の想いは、決して明るいものとは限るまい。雪のひとひらに命を重ねただろうか。雪の美しさに永遠を思っただろうか。しかし掲句は単にその事実を述べているだけではない。療養所の人々の「おもひ」に引きつけながら、彼等の姿を突きつけてくる。雪の降るある日の白々とした空間と静寂を。命ある者らは動かず、命なき雪のみが動き続ける、静と動の、生と死の逆転を。


中尾白雨は明治44年生まれ。明治学院中学部卒業後、教員となるが病のため昭和5年に退職。昭和7年より作句開始。わずか2年後に第三回馬酔木賞を受賞。昭和11年11月26日喀血により死去した。享年25歳。掲句所収の『中尾白雨句集』は昭和8年から昭和11年までの三年間の作品と推測され(『現代俳句大系』解説に拠る)、白雨没後に刊行された。序文はなく、一句目の「妹に日夜のみとりを感謝しつつ」という前書のある<汝が吊りし蚊帳のみどりにふれにけり>に始まる184句全て病床俳句と思われる。


水原秋櫻子の跋文を引く。

妹さんの見舞の手紙を受け、その返事として詠んだといふ前書のある、 
紫陽花に手鏡おもく病むと知れよ 

といふ句は僕の特に感心してゐる句だが、この手鏡は無聊さに折々顔を見る用をしてゐるのだらうと思つてゐた。ところがある日訪ねて見ると、白雨君はその手鏡を持つてゐて、それを顔の上にかざし、庭の景色をながめてゐるのであつた。仰臥ばかりつづけてゐる人の哀しい発明で、僕はつくづく気の毒に思つたことがあつた。
 
(『中尾白雨句集』跋文「白雨君のこと」水原秋櫻子)

庭のものを見るために身体を起こすのではなく手鏡を使う。なんという創作熱だろう。跋文によると、白雨は相談相手もなく独り作句し、その度に熱を出し苦しんでいたという。彼の作品は多くの病床俳句の作者たちの尊敬を集めた。そしてそれはさぞや大きな励ましとなったことであろう。石田波郷は白雨に手向け、次の言葉を残している。「僕の心に俳句の住まふ限り、而してこの国に俳句の滅びざる限り静謐なる精神の華の不易なるすがたをのこすであらう。僕は僕なりに、莞爾として、中尾白雨氏の壮絶の死を送るものである」(「馬酔木」昭和12年2月号)

てのひらにのせるとうち透けてゆく雪片のような透明な詩魂だと思った。

手花火の香のきこえたるふしどかな 
朝顔はひといろなれどよく咲きぬ 
この冬を花菜さくてう君が居は (病友H君へ) 
病み耐へてをさなごころや金魚飼ふ 
朝顔の鉢のかづあるついりかな 
紫陽花に胸冷しつつわれは生く 
寒燈下脈奔流のごとく搏ちぬ 
薔薇培り詩をつくりみな若きひとよ 
荒園に落葉とぶ日ぞ病みおもる 
ひややかなひとたまゆらを菊に佇つ

(『中尾白雨句集』昭和12年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年11月5日木曜日

人外句境 25 [岡田幸生] / 佐藤りえ


春の簞笥の口あけている  岡田幸生

春になったら更衣だ。かさばる冬物たちが取り出され、 簞笥の引き出しは束の間空洞化を許される。

あるいは、単に慌てた主人が閉じ忘れた引き出しなのかもしれない。

またあるいは、引越の際、引き出しを外して先に運び、最後の大物として担ぎ出されるのを待っている、 簞笥本体の姿を描写しているのかもしれない。

春の簞笥が「口」をあけているのは、そういうことなのではないか。

主に不動の、壁の一部ともいえる、いつでもそこにいてくれる家具としての簞笥への安心感が意識されずとも我々にはある、と思う。

だからなのか、この簞笥はねむっている、とも思う。束の間の午睡。人気のない春の部屋で、 簞笥が眠っていてくれる。

 春雲の詰まったような簞笥より妻の下着を探しておりぬ  吉川宏志『海雨』

春と簞笥、という二つのキーワードから思い出した短歌を添える。こちらは手術、入院した妻の着替えを探す夫の歌。「春雲の詰まったような」とは、はにかみと戸惑いをなんとも上品に表している。「妻の下着」という不可解が、 簞笥のなかにひねもすのたり、と詰まっていたのである。

「 簞笥」と春がかように響きあう存在であることを、ふたつの詩歌が教えてくれる。

〈『無伴奏』ずっと三時/2015〉

2015年11月4日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 24[松藤夏山]/ 依光陽子




水鳥の水尾引き捨てて飛びにけり 松藤夏山


水鳥は冬、水上にいる鳥の総称。北方から越冬のために渡って来た鳥だ。春になって生殖地である北方へ再び帰るまでの一冬を水の上で躰を休める。大抵は頸を背の羽根に埋めて浮き寝しているが、あたたかな日には水面に線を描きながら泳いだり、時には鳥同士の小競り合いも。そんな冬の光の中に繰り広げられる鳥たちの世界は見ていて飽きることはない。

掲句は、水から別の水へ飛び移るところだろうか。一旦水を離れて空へ移る。空を飛ぶという鳥の本分を掲句は改めて読者に確認させる。水鳥を観て和むのは人間の勝手で、水鳥は野生の厳しさを忘れているわけではない。「引き捨てて」の措辞に現されている。射貫くほどにモノを見て摑んだ言葉だ。

松藤夏山は明治23年生まれ。大正5年ごろに俳句を始め、昭和7年「ホトトギス」同人となる。虚子提唱の花鳥諷詠の忠実な使徒でありつつ、虚子が携わった歳時記の編集にあたり手足となって働いたという。手元にある改造社版『俳諧歳時記 春之部』を開いてみたところ、解説に当った者のリスト33名の中に夏山の名も確かにあった。

君は命がけで俳句を作つた。俳句は君にとつては、決して趣味や道楽ではなかつた。句会に出ても、制限の句数だけはとにかく耳を揃へるなどといふ遊戯的なやり方は、絶対に君の採らざるところであつた。苟も君が発表するほどのものは、悉く君の肺腑から絞られる、生き血の垂れるやうなもののみであつたといつていい。
(『夏山句集』序文より 富安風生)

『夏山句集』は著者32歳から病没する45歳までの13年間の588句を収録、作者の死後上梓された。虚子は次の弔句をしたためている。<この寒さにくみもせずに逝かれけん 虚子>。「寡黙ではあつたけれども、その頬辺には、いつも柔かく温かい微笑をたたへてゐた。(富安風生)」という夏山の人柄が偲ばれる一句だ。夏山の句は一読、派手さからは遠く静かな句ばかりだが、読み込むほどにじわじわと沁みてくる。何物もをいとおしむような包容力、十七音の中のたっぷりとした“間”、衒いのない言葉遣い。

花鳥諷詠句でも詠み手の姿が見えてくるのが俳句。そんなことを考えた句集だった。

霧雨の雫重たや桜草
傾きて蠟燭高き燈籠かな
草刈女帰るや蓮を手折り持ち
洗ひ障子赤のまんまに置きにけり
初冬やここに移して椅子に倚る
封切れば溢れんとするカルタかな
鶸の群小鳥の網をそれにけり
案内図に衝羽根の実を添へてくれし
大漁の鯨によごれ銚子町
足どりに春を惜しめる情(こころ)あり
立葵声をしぼりて軍鶏啼きぬ
暖かき日となりにける炬燵かな
同じ日が毎日来る柿の花
風邪の子に着せも着せたる紐の数
蛆虫のちむまちむまと急ぐかな

(『夏山句集』昭和12年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)


2015年11月1日日曜日

黄金をたたく26  [矢上新八]  / 北川美美



行秋やこないなとこに人の家  矢上新八

過ぎ去って行く秋の景に、人家をみつけた。「こないなとこ」の大阪・京都あたりの関西弁が面白い。はんなりとした響きがある。しかし、繰り返し読み続けると、移り変わる季節、その次に世の中の殺伐とした全体の景が浮かび、その風景の中にいる「こないな」を使う人が貴族的階級の人なのではないか、という想像が働く。河原、人里離れた山奥、船着き場の片隅、はたまた工事現場、ゴミ置き場や不法地帯、ビル屋上、地下の秘密基地、ツリーハウス、テントなどもそれにあたるだろう。もしかしたら格差社会の底辺かもしれない人たちの様子に驚き、生きることのたくましさに感心し、同じ暮らしは出来ない、と腹をくくっているようにも読める。

句集のところどころに話し言葉ともいえる大阪弁が駆使されている。NHK時代劇「銀二貫」朝ドラ「マッサン」で久々に大阪弁を身近に感じられたばかりだったが、作者は大阪弁での句を30年以上も作っておられ、生れも大阪北区の商家のお生まれである。

身一つがどないもならん秋の暮
なんやはじまる山懐の笛太鼓
行く夏に捨るもんほって昼寝かな

「どないもならん」「なんや」「ほるもん」「むさんこ」「よおさん」・・・やわらかいだけでなく、どこか女性的な響きがある。調べると、大阪弁の中には船場言葉といわれる商人の言葉があり、京都の女言葉が交じり、商いや取引で必要な丁寧・上品さがあるといわれている。 助詞の「が」「を」が省略され、例えば「目が痛い」は、「目エ痛い」となる。句のイントネーションは、もしかして「秋の暮」が「アレ」になるべきなのか考えた。いや違う、「身一つ」の句は、船場言葉では「身イひとつ」で五音となるべきだろうが「が」が入り「身一つが」として「どないもならん」に重きがかかっている。他では代用が効かない大阪言葉を観念として駆使するのは簡単にはいかないだろう。認知度の高い大阪弁、それもある程度の階級意識が高いといわれている船場言葉だからこその世界を創り出している。 

ちなみにインターネットの質問箱検索で大阪弁の「こない」を検索してみると、現在、四十代以下は使用していないという回答が多く寄せられていた。「こないなとこ」は、もはや消えてゆく方言に分類され、むしろ、古典表現になるのかもしれない。


掲句は住む世界が異なれば言葉も異なった大阪弁により不思議な物語を紡ぎ出す。


( 作者は巻末に「方言の索引」として「大阪ことば辞典」他を参照に解説をつけていらっしゃる。何処にも船場言葉とは記載していない。)


<「浪華」2015書肆麒麟所収>

2015年10月29日木曜日

人外句境 24 [林望] / 佐藤りえ


回送電車軽々と行く秋の夜半  林望

すべての乗客が降りた後、車庫にしまわれるべく「回送」の表示を掲げ、ホームを出て行く電車。さっきまでのすし詰めが嘘のように、向こう側の座席や窓がよく見える、がらんと見通しのいい車両はいかにも軽そうだ。

「軽々と」の措辞が、ほんとうに軽い、重さからやっと解放された…といった趣を感じさせて、実は「質量のないひと」がびっしり乗ってるんじゃないか、という深読みを抱いてしまった。

酔っ払いや、騒々しい学生や、おしゃべりの堪えない女子や、駆け込み乗車をするものや、傍若無人な人間たちが跋扈する、混み合う車両を避けて、物理的に重量を持たない方たちが、ヤレヤレ、と乗っていくのが回送電車の車列なのかもしれない、なんてことを思うのは、秋の夜長の妄想に過ぎない。

〈『しのびねしふ』祥伝社/2015〉

2015年10月24日土曜日

黄金をたたく25  [宮崎斗士]  / 北川美美



スプーン並べる間隔いつのまにか秋 宮崎斗士


英語のスプーン(spoon)はオランダ語(spaaon)、ドイツ語(span)と同じく木の切れ端、もしくは木の裂いたものという意味が語源だそうだ。ちなみにフランス語のスプーンにあたるものは、キュイエール(cuiller)で、ラテン語の貝(cochleare)が語源。

西洋では「銀のスプーン」を出産祝に贈る習慣があり、「一生食べ物に困らない。」「一生お金に困らない 」...の願いが込められる。

この句のスプーンも、テーブルウエアのカトラリーとして使うスプーンだろう。「スプーン並べる」とあるのは、これから使用するかもしれないスプーン、あるいはオブジェとしてのスプーンを延々と並べている風景が想像できる。日本にシチュエーションを合わせるとホテルの宴会場やカフェで黒服のお兄さんがセッティングしている姿が想像できる。 スープ、あるいは、食後のコーヒーか、デザートでのスプーンあたりかと予想する。用途によって形や大きさが異なれどスプーンは「食」を連想させる。 ゴルフの三番ウッドもスプーンという別名があるが、これも食器のスプーンから来ている。

スプーンだけを並べている黒服のお兄さん(ギャルソンあるいは執事)は何を考えるのか、その間隔を正確に配置することが仕事なのだから、スプーンとスプーンの間隔に集中しているはずだ。 並べるという単調な作業に慣れて来ると、このスプーンを使うお客様、あるいはご主人が何を召し上げるか、誰とそれを召し上がるのか、どんな時間を過ごされるのか、、…などなど他人様の生活を想像して、それがギャルソンあるいは執事としての一瞬の業務上の愉しみであり、次の行動をとるためのヒントにもなる。黒服のギャルソンまたは執事は想像力が豊かでなければならない。

昼メロ風に場面を考えみる。フランス風カフェの道側の席にふと、美しいマダムが座る、ご婦人に黒服のギャルソンは、「奥様、何か御用でしょうか?」と尋ねる。 「珈琲を二つ」それから「タルトタタン(フランス風の焼き林檎のタルト)をひとつ」 連れのお客様がすぐに来るらしい。 今まで並べていたスプーンから、珈琲用のスプーンを二つとデザート用のスプーンをひとつ取る。 今まで並べてたスプーンがそこから無くなり、当然、今まであったスプーンが確保していた領域分の空間がそこに生まれる。

ここでは等間隔かの詳細がわからないが、今まで積み重ねて作って来たスプーンとスプーンの間隔に生まれていた安定性が、並べたスプーンが無くなる度に当然不安定になる。スプーンを並べる行為は、その間隔に何が起こるのかを考えていく作業である。間隔に緊張感が生まれて美しい配置となるのである。 トランプが並べられて美しいのと同じで、西洋様式のものは間隔の規則制をもって美しさの黄金律がある。 間隔を考えて並べている行為は馬鹿馬鹿しくもあり哲学的、美学的ともいえる。

「ニュートンのゆりかご」がカチカチと音をさせているような気にもなる。 そんなことを考えているうちに秋になった、ということだろうか。物思いにふけるには秋が最適だ。なので「いつのまにか」なのである。 

人生における真剣さと可笑しさが入り混じっている。知的なミスタービーン風。 いわば、俗と雅とを渡っている、まさしくそれは俳句の美味しいところなのではないかと思う。

<『そんな青』六花書林2014年所収>

2015年10月22日木曜日

人外句境 23 [車谷長吉] / 佐藤りえ


草餅を邪神に供へ杵洗ふ  車谷長吉

邪神に草餅を供える。どのようなよこしまな神かわからないが、供えるものとして草餅、はどこか素朴で愛らしい。真摯な願いなら白い餅でよいのではないか。悪鬼が相手なら生贄として生き物やら生血やらが喜ばれそうなものでもある。

しかもその餅は杵と臼で手つきされたものらしい。念が入っているのか、真剣なのか、巫山戯ているのか。杵を洗う男の背中はゆるぎなく、笑っていいのか怖れていいのか戸惑う。

農村においては草餅は年中行事などに関わりなく、よく作られる。食事を神仏に供えるように、もらい物や初物をまずはほとけさんに、という時に、異形の邪神がひっそりその端にいるような、微妙に歪な日常感がにじんでいる。

  中年やメロンの味に胸騒ぎ

同句集にはこのような句もあり、やはり男の胸中はわからないなと思う。

〈『車谷長吉句集』沖積舎/2003〉

2015年10月16日金曜日

黄金をたたく24  [飯田冬眞]  / 北川美美



時効なき父の昭和よ凍てし鶴  飯田冬眞


作者の父上にとっての「昭和」、それも「時効がない」。無期限の探し物あるいは喪失感、何か背負っているものが終らない気配がある。昭和を生きた父上の世代。おそらく戦前のお生まれで戦中、戦後を生き抜いてこられた世代だろう。何があっても身じろぎたじろぎをしない一本足で立つ凍鶴が父上の姿の象徴となって作者に映っているのだ。「父」が暗喩ではなく、実際の肉親、血族である「父」でことが伺える。

昭和という年号は、平成になり早四半世紀が過ぎているが、不思議と過ぎ去った感覚にならず終わりが見えない。時代に何を想うかは、生年による差もあるだろう。三橋敏雄の「昭和衰え馬の音する夕かな」、この作成時、昭和は確かに終わってはいなかったが、不穏とも思える「馬の音」が、いつまでも不気味な恐怖となって迫りくる予言ともいえる作品だと筆者は思っている。作者の父上はおそらく敏雄と同世代あるいは大きな歳の差は無いように思われる。作者の父上も敏雄も同時代を生きた「昭和」、そして作者と筆者もその「昭和」に生を受けた。簡単には言い尽くせない「昭和」。「昭和」は歴史上で長くそしてあらゆる事象を包括する激動の時代だった。「時効がない」というのは、過去形ではなく、今もその時効がないことが続いている、そしてこれからも続くのだ。「時効なき」ということにより、一層「昭和」に終わりがないことが伝わってくる。

ここで【時効】の意味を辞書で確認してみると、

ある事実状態が一定の期間継続した場合に,権利の取得・喪失という法律効果を認める制度。 「 -が成立する」 → 取得時効 ・ 消滅時効 
一般に,あることの効力が一定の時間を経過したために無効となること。 「もうあの約束は-だ」
<三省堂 大辞林>

法律上の用語として使われることが多い「時効」という言葉。句集のところどころに、社会というあるシステムの中で、生きることに懸命な作者に遭遇しなんともドラマチックである。

赤とんぼわすれたきことばかり増ゆ 
母の日に苗字の違ふ名を添えて 
がんばれといわれたくなし茄子の花 
捨てた名と捨てた町あり秋暑し 
始まりも終わりも素足失楽園


掲句から、親が背負ってきたものが子に引き継がれる累々とした血の脈略を感じる。作者自らその時効のない何らかの喪失を引き受ける姿勢が伺える。その遺失を探す態度が今後も俳句に反映すると予感する句である。 

<「時効」ふらんす堂2015所収>

2015年10月15日木曜日

人外句境 22 [対馬康子] / 佐藤りえ



国の名は大白鳥と答えけり  対馬康子

ひとつめに浮かんだ情景。

空港の入国審査場で、パスポートをみせながら質問に答えている。ふつう、出身国を問われることはないと思うが、なにかを聞き間違え「ハイ、大白鳥からきました」ときっぱり答えるひとり。入国審査官の目に、おびえともあこがれともつかない色が浮かぶ。

ふたつめに浮かんだ情景。

小学校の教室で、地理の授業が行われている。机も椅子も丈が低い。低学年の教室のようだ。黒板には見たことの無い世界地図が磁石で貼られている。大きな大陸は七つを超え、細々とした島々は天の川のように北東から南西へ向けて流れている。教師が一つの島を指示棒で指し、この島の名は何でしょう、と問いかける。ハイハイ、と次々手が挙がる。名前を呼ばれたひとりの女生徒が、「ハイ、大白鳥です」とひといきに言う。指示棒のさきの島は、白鳥が翼を広げ今しも飛び立とうとしているかのような形だった。

〈『純情』本阿弥書店/1993〉

2015年10月14日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 23[中村草田男]/ 依光陽子


秋の航一大紺円盤の中 中村草田男


印度洋を航行して居る時もときどき頭をもたげて来るのは   秋の航一大紺円盤の中  草田男  といふ句でありました 虚子    (中村草田男『長子』序)

句集『長子』に寄せられた高濱虚子の序文だ。印度洋航行という豪快な気分は残念ながら共有できないが、仮に伊豆七島を航行する東海汽船の船上であっても掲句の爽快感は十分味わえる。誰もが一読、胸がすくような爽快感と開放感を覚え、澄みきった空の下、真っ青な海原を進む船と丸みを帯びた水平線がイメージされるだろう。草田男の句の中で特に好きな句だ。

しかしそれだけの句だろうか、と立ち止まる。

私は二つの海を思い出していた。
一つは映画『永遠の語らい』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2003)の海。
もう一つは映画『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督1972)の海。

前者はポルトガル人の母娘が歴史的遺跡を辿りながら夫の待つボンベイへ船旅を続ける。ただ優雅に見えるその船旅は、実は人々が何千年も前から戦争に明け暮れ、収奪と喪失を繰り返していた歴史を辿る凝縮された時間の旅と重なっている。最後は新しい悪の形であるテロの問題が提起されるのだが、人類の愚かさに対する海の美しさが重く心に残り続ける。

後者は海と霧に覆われた惑星ソラリスへ探索へ行った心理学者の眼にした海が、知性を持った「思考する海」として描かれる。心理学者はソラリスを前に自問する。「人は失いやすいものに愛を注ぐ。自分自身、女性、祖国…。だが人類や地球までは愛の対象としない。人類はたかだか数十億人、わずかな数だ。もしかすると我々は人類愛を実感するため、ここにいるのかも」

勝手な連想だ。だが、この句の前後に航海の句はなく、虚子の船旅に際し贈った句かどうか前書もないのだから鑑賞は自由だろう。草田男が哲学、わけてもニーチェに傾倒していたこと、求道的な句が散見される事を鑑みるに、掲句はニーチェの「遠人愛」的視点とも受け取れるし、人類の背負った運命を一つの航海に重ね描いたオリヴェイラの問いかけへ想が飛ぶ。また、タルコフスキーがソラリスの海に表わそうとした「人類愛」とも結びつくのだった。「一大紺円盤」の海。掲句が夏の航ではなく、秋の航ゆえに地球上の一存在としての自己を強く意識する。

併せて句集『長子』の跋文の次の言葉も引いておこう。

<私は、所謂「昨日の伝統」に眠れる者でもなければ、所謂「今日の新興」に乱るる者でもない。縦に、時間的・歴史的に働きつづけてきた「必然(ことはり)」即ち俳句の伝統的特質を理解し責務として之を負ふ。斯くて自然の啓示に親近する。横に、空間的・社会的に働きつづけてゐる「必然」と共力して、為すべき本務に邁む。即ち、時代の個性・生活の煩苦に直面し、あらゆる文芸と交流することに依つて、俳句を、文芸価値のより高き段階に向上せしめようとするのである>
草田男が虚子に師事したのは27歳。当時としては決して若いスタートとは言えない。第一句集『長子』で俳句作者として生きる決意をした後、草田男の句がどのように展開していったのか、以前とは別の角度から読めそうな気がしている。


つばくらめ斯くまで竝ぶことのあり
おん顔の三十路人なる寝釈迦かな
負はれたる子供が高し星祭
蟾蜍長子家去る由もなし
夜深し机上の花に蛾の載りて
手の薔薇に蜂来れば我王の如し
六月の氷菓一盞の別れかな
蜻蛉行くうしろ姿の大きさよ
貌見えてきて行違ふ秋の暮
山深きところのさまに菊人形
冬の水一枝の影も欺かず
あたたかき十一月もすみにけり
降る雪や明治は遠くなりにけり

(『長子』昭和11年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)



~およ日劇場~  youtubeより



Um Filme Falado (2003)
映画『永遠の語らい』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督 2003)




 

映画『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督1972) 予告編
http://www.imageforum.co.jp/tarkovsky/wksslr.html



2015年10月9日金曜日

黄金をたたく23 [杉山久子]  / 北川美美



秋天やポテトチップス涙味  杉山久子

ポテトチップスは身近な乾き物(といってよいのか)である、口淋しいときにポテトチップスが小腹を満たしてくれる。こだわりのある作者であれば、ポテトチップスの新作味は相当試されているのではないかとすら想像できる。男梅味、夏塩風味、BBQ、コンソメパンチ、のりしお…etc. 最近は地域限定やら、季節限定やらで、日本のポテトチップス浸透も相当なもので国民的乾き物の地位を獲得している。

因みに筆者は、英国好みゆえに、ソルト&ビネガー(カルビーでは、フレンチサラダとなっているが酢が効いている味。あるいは“スッパムーチョ”でも代替えが効く。)が無性に恋しくなる。形状では、高級志向の厚切りポテトチップスはどうも好かない。パッケージデザインで買ってしまうポテチもある。フラ印のポテトチップスである。こんな感じです。(http://matome.naver.jp/odai/2139312140924061501


作者も筆者同様、きっとどんなときにもポテトチップス、通称ポテチが欠かせない存在で、コンビニに行って買う気もないのに手に取って買ってしまうのではないか、その境遇に共感するのである。ポテトチップスは、この国ならではの通称:ポテチに成長したのだ。

さて作者はこれを、秋天にポテトチップスを口にして、それを涙味としている。どんな時も小腹が減るのである。喜びに似た飲食という行為が一転して涙の味を感じるというのが人間の心理の複雑性を孕んでいるかのうようである。失恋かもしれない涙、もしかしたら昔の恋を思い出している涙なのかとも想像できるのだが、それをポテトチップスの味に仕立てているのが爽やかである。


<「泉」ふらんす堂2015所収>

2015年10月8日木曜日

人外句境 21 [和田誠] / 佐藤りえ



人形も腹話術師も春の風邪  和田誠

腹話術師の男が手にした人形に語りかけている。どうしたんだい、きみ、何やら声が風邪っぽいじゃないか。そういうあんたこそ、鼻がつまっているんじゃないか。

簡単にいってしまえば、あたりまえのことである。腹話術師が風邪っぴきだから、人形の声も風邪声になる。

一人のひとの春風邪が、人形とひとの会話という空間で見せられる。話者がほんとうはひとりであることを知りながら見る、腹話術の空間はモノローグとダイアローグの中間のようなものだと思う。
さかのぼると、腹話術は神託、呪術といったものと縁深いことがわかる。声の拠り所として人形が使われるようになったのは、腹話術の歴史においては最近のことであるらしい。

掲句では、人形と腹話術師が列挙されているからか、彼らが等しい存在のようにも見える。友人同士、兄弟同士が同時に熱を出す、みたいな雰囲気がある。

〈『白い嘘』梧葉出版/2002〉

2015年10月5日月曜日

またたくきざはし4  [大井恒行] / 竹岡一郎




夕べ泪朝歓声のナミアゲハ     大井恒行



一読、「朝に紅顔夕べに白骨」を思わせる。和漢朗詠集によっても蓮如上人の白骨の御文章によっても有名であり、平家物語の冒頭、「祇園精舎の鐘の音」にも通じる。

掲句が平家を連想させるのは、ナミアゲハにもよる。平家の一般的な家門は、並揚羽を図案化した揚羽紋だからだ。

仮に上五中七が「朝紅顔夕べ白骨」なら、面白くもなんともない。もう一ひねりして、傍観する如く人生の虚しさを観ずる心情を詠って、「朝歓声夕べ泪」としても、まあ普通の感慨である。

掲句の眼目は、先ず夕べの感慨を出し、次に朝の高まりを掲げたところにある。諸行無常など判り切っているのである。戦いは破れ、正義は滅び、昂揚は失われ、人は衰える。心静まる夕べには、涙する事もあろう。だが、朝になれば、日の昇るごとく再び歓声を上げる。無常は充分承知の上で、歓声を上げる。つまり、「朝紅顔夕べ白骨」或いは「朝歓声夕べ泪」なら、良く言えば客観、悪く言えば傍観者の感慨であるが、「夕べ泪朝歓声」は、当事者の主観である感慨であり、無常に抗して立たんとする気概である。

平家物語が遂に負ける戦いへ進んでゆく平家一門への鎮魂歌である事を思い、並揚羽が日本のどこにでもいる普通の揚羽ゆえに「並」がついていることを考え、更に作者が団塊の世代であり全共闘世代でもある事を鑑みるなら、あの日本中を席巻した全共闘の戦いは最初から負けるに決まっていたのである。

全国遍くどんなに頭数を揃えようと、普通の学生が、時の権力に勝てる訳がなく、ましてや海の彼方の不敗の軍事大国に勝てる訳がない。それでも自分たちの為し得るあらゆる手段を模索した。そして夕べのたびに自らに疑問を抱き、虚しさを感じて密かに涙した。朝になれば、性懲りもなく、歓声を上げた。それはひとえに若さという生命力のなせる業であった。生命力それ自体が、正義を、自由を盲目的に求めるのだった。

掲句は、先ず上五において沈潜し、次に中七において昂揚し、下五に至って普遍性を、ナミアゲハのごとく普通に遍く存する事を求めるのである。これは全体主義の枷にではなく、個人主義の自尊に期する姿勢である。そして全共闘の敗因も恐らく、その個人尊重の姿勢にあったのであろう。だが、それゆえにその精神はサブカルチャーの核の一つとして、現在広く融け込んでいる。ナミアゲハの如く、日本全国どこにでも各々の個人性の中を、普通にあまねく自由に舞っているのである。

<角川「俳句」2015年7月号「無題抄」より。>

2015年9月28日月曜日

処女林をめぐる 8 [古沢太穂]  / 大塚凱


飛雪のホーム軍手という語なお生きいる  古沢太穂
軍手はそもそも戦時中に海軍が使用していたものであった、と聞いたことがある。もはや我々には「聞いたことがある」と伝聞的に述べる他にないことが切ないが、太穂は既に前の戦争を経て「軍手」という言葉が残った''あはれ''を感じていた。飛雪とは違う、薄汚れた白さの軍手。その存在は時を経ても、雪に紛れることはないのかもしれない。

出典:古沢太穂『三十代』
昭和25年
神奈川県職場俳句協議会刊

2015年9月27日日曜日

今日のクロイワ 30 [杉山久子]  / 黒岩徳将



手が伸びて昼寝の子らをうらがへす  杉山久子

日焼童子洗ふやうらがへしうらがへし 橋本多佳子 を思い出した。


手が伸びて という措辞からは、あたかも自分の意志ではない動作だということを思い出させる。多佳子句と比べて、複数の子を「うらがえす」という書き方が異なっていることが興味深い。久子は「ら」と「うらがえす」で、上五の非人為的表現と相俟って淡々としており、「隣の家のお母さんがママ友と旅行に行く間、小さい子どもを預かる」などといった状況を想像させるが、多佳子の「うらがへし」をリフレインさせて主観性を打ち出した姿は、明らかに「カーチャン」である。

もちろん、久子の「うらがへす」は横転であり、多佳子の「うらがへしうらがへし」は回転である。

2015年9月23日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 22[渡辺水巴]/ 依光陽子




天渺々笑ひたくなりし花野かな   渡辺水巴



安保法案可決の翌日、句帳を持って花野に立った。まさに天渺々、どこまでも晴れた一日で、芒も萩も女郎花も彼岸花も蓼も虎杖も咲き誇り、翅あるものは飛び交い、草草の光が交差し合っていた。それは、ここのところずっと立憲主義とは何かを考えながらメディアを注視し続けてきた目に、まるで初めて見るような異質な光景に映った。現実から遠く、しかし確かに現実であり、句帳を手に対象に向っている自分は明らかに異物だった。

山本健吉みたいだ。『現代俳句』の中で健吉は、掲句については珍しく自身の体験、感情に引きつけて鑑賞している。水巴の訃報をきいた時、健吉は京都洛西宇多野の花野にいた。そしてふと思い出したのが、他のどの名句でもなく掲句だったという。健吉は自己分析する。敗戦後のやり切れないようなみじめさを思い切って虚空に哄笑を発散させてみたいという鬱積した気持ちが、晴れ渡った花野の景色に触れて掲句を引き出してきたのだろう、と。

掲句の背景には関東大震災がある。掲句は水巴が震災であらゆるものを失った直後の句なのである。しかし句の背景を知らずともこの「笑ひ」が明るく楽しい笑いだと受け取る者はいないだろう。何故なら季題が「花野」だからだ。そして私が健吉と受け止め方が少しだけ違うのは、健吉は掲句から水巴の特徴のある高笑いを聞き取っていること。「どうやら人間の笑いとは思えない高い乾いた声が虚空のどこからか聞こえてくるような気持に引きずりこまれるのだ」(『現代俳句』山本健吉)

私は掲句からベルクソンの言う笑いの背後にある「悲観論の兆し」を見てとった。

「もっと自発的でない苦々しいなにか、笑う者が自分の笑いを考えれば考えるほどますますはっきりしてくるなんともいえない悲観論の兆しを直ぐに判別できるはずだ。」 
「生に無関心な傍観者として臨んで見給え。数多くの劇的事件は喜劇と化してしまうだろう。」
(『笑い』アンリ・ベルクソン)

「笑ひたくなりし」と「花野かな」の間に「笑うことはできなかった」姿が見える。「僕笑っちゃいます」的なトホホな笑い以上の痛切な想いがここには確かにあって、この不条理を笑えるのならばいっそ笑って喜劇化してしまえたら、といった空しい願望も感じる。あっけらかんとした物言いが逆に道化師の笑いのように悲観的な心情を滲ませる。実際、生命の最後の饗宴である花野の圧倒的な景を眼前にしてどうして笑うことができようか。

大空にすがりたし木の芽さかんなる><家々の灯るあはれや雪達磨>のような句からも水巴のものの見方の偏向が見てとれる。大空を仰ぎ心を解き放つでなく「すがりたし」と思い、雪達磨のある家の灯には家族の団欒を見るではなく「あはれ」を見てしまう目。

さて、掲句を含む句集『白日』は水巴の第五句集であり、明治33年から昭和11年までの36年間の定本句集である。水巴の句は、殊に繊細な句が人口に膾炙しているが、蛇笏、鬼城り、普羅、石鼎等と「ホトトギス」の第一全盛期を築いただけの骨太さがある。そして季題への着地地点が独自だ。今読んでも唸らされる句が多い。

「十年も経てば大抵の作品は色が褪せてしまふ。廿年も経てば大抵の作品は色が失せてしまふ。それは現に此の句集が明確に語つてゐる。(中略) 此の句集とて、畢竟は、それだけの存在でしかありえない。」 
(『白日』あとがき) 

炯眼である。


水蜜桃や夜気にじみあふ葉を重ね

秋風や眼を張つて啼く油蝉

菊人形たましひのなき匂かな

紙鳶あげし手の傷つきて暮天かな

一つ籠になきがら照らす螢かな

会釈したき夜明の人よ夏柳

どれもどれも寂しう光る小蕪かな

向日葵もなべて影もつ月夜かな

幼な貌の我と歩きたき落葉かな

手をうたばくづれん花や夜の門

伽藍閉ぢて夜気になりゆく若葉かな

牡丹見せて障子しめたる火桶かな

樹に倚れば落葉せんばかり夜寒かな

家移らばいつ来る町や柳散る


(『白日』昭和11年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年9月21日月曜日

処女林をめぐる 7 [古沢太穂]  / 大塚凱



ロシヤ映画みてきて冬のにんじん太し 古沢太穂
太穂は東京外国語学校でロシア語を学んだ学生であった。それだけに、ロシア映画を観る機会も度々あったのだろう。

「太し」の背景にはロシア映画に映るにんじんの「細さ」がある。まだ貧しかった日本。その冬に負けじと、我が国のにんじんの太さが象徴的に立ち上がってくる。それは太穂の心象風景であったと言えよう。「冬の」という措辞は無駄ではない。遠い北方を想像する太穂のこころにとって、眼前のにんじんが「冬」のにんじんであることが切なさを感じさせる。

出典:古沢太穂『三十代』
昭和25年
神奈川県職場俳句協議会刊

2015年9月14日月曜日

処女林をめぐる 6 [古沢太穂]  / 大塚凱



胸ふかく呼吸せよ欅みな太し  古沢太穂

無季俳句だが、僕には欅の瑞々しい緑色が瞳にあふれてくる。夏の活力が肺の隅々にまでゆきわたるかのようだ。呼吸を繰り返す胸の隆さは、太々とした欅と重なり合う。われわれ動物の呼吸と、欅の光合成。太穂の作品はそのテーマ性ゆえに第一句集においても冬の印象が強いが、この句は夏の清冽さに満ちている。そのプロレタリア的傾向はイデオロギーではなく、生の讃歌としてあふれるのだ。

出典:古沢太穂『三十代』
昭和25年
神奈川県職場俳句協議会刊

2015年9月9日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 21[松本たかし]/ 依光陽子




たまに居る小公園の秋の人     松本たかし


妙な句である。なんとなく妙だ。内容も、こんなことを句にする作者も妙だ。


そこらへんにある、これといって特徴のない公園。通常「小」などと入れると失敗するのがお決まりであるのだが、「小」と念押しするくらい余程たいしたことない公園なのだろう。住宅街に申し訳程度にある公園だ。毎日の通い路か、家から見えるのか、普段は特に気にしていないが、ふと見るとたまに人が居る。説明はなくとも大人で一人だとわかる。その人物は同じ人なのか、はたまた違う人なのか。兎も角「秋の人」なのである。「秋の人」としか表現しようのない存在としてそこに居るのだ。

本を読んでいる青年、ただぼんやりと遊んでいる子ども達を眺めている男性、犬を連れてベンチに座っている女性。同じ人であれば、その人物の心象が外見に顕れたような「秋」を感じるし、同じような人というのであれば、「秋の」という全体的な季感が一層強く感じられてくる。結局、この人物はどんな人でもいいのだ。作者はただ、眼前のシーンを切り取っただけだ。ぶらんこも砂場も滑り台も木々もそこに居る人も、一と色に溶けているシーン。

そこで再び句に戻って見ると、この「小」と「秋」が動かしがたく置かれていることに気付く。やわらかな秋の日差しの中にうっすらとした哀感がある。存外、この「秋の人」は作者自身かも知れぬ。

川端茅舎に「芸術上の貴公子」と言われた松本たかしは、能の宝生流十六世家元の高弟でシテ方宝生流の能役者松本長の子として生まれ、本来であれば能役者の道を進むべき運命であったが、肺尖カタルなどの胸部疾患に併せて神経症が痼疾となり能役者の道を断念し俳句道を進むことになった。幼い頃より重ねた能の鍛錬が、枯淡な句姿として表れている。

たかしの短文に<間髪――俳句の表情は一瞬間で決まる――>というものがある。一部分を引く。

だから俳句の表現は、時に、一貫した意味のある叙述といふより、何かの合図か、気合の声にすぎないと思はれることがある。気合をかけられ、ハツとした読者の眼にあるひらめきが映り、かすかに精神が伝はつてゆく――――。

経験、把握、表現という複雑な総工程がほとんど無意識に近い状態で間髪を入れずに一挙に行われ、そんな工合に結晶した作品は「一粒の白露が、ぽろりと掌の中にこぼれてくるやうなものでもあらうか」とたかしは書く。

気合いの声によって掌の中にこぼれた白露。そんな句が散りばめられているのが、第一句集『松本たかし句集』である。端正で且つ清冽、一方、どこか舞台劇のような趣の句も多く、掲句もその一つだ。しかし何故か心に残る。たかしの精神がかすかに伝わってくるということだろう。松本たかしは昭和31年5月心臓麻痺のため長逝。享年50歳であった。

すこし待てばこの春雨はあがるべし
いつしかに失せゆく針の供養かな
仕る手に笛もなし古雛
恋猫やからくれなゐの紐をひき
たんぽぽや一天玉の如くなり
羅をゆるやかに著て崩れざる
一夏の緑あせにし簾かな
柄を立てて吹飛んで来る団扇かな
金魚大鱗夕焼の空の如きあり
月光の走れる杖をはこびけり
秋扇や生れながらに能役者
とつぷりと後ろ暮れゐし焚火かな
水仙や古鏡の如く花をかかぐ
赤く見え青くも見ゆる枯木かな
枯菊と言捨てんには情あり

(『松本たかし句集』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年9月8日火曜日

人外句境 20 [竹岡一郎] / 佐藤りえ


白皙の給仕に桜憑きにけり  竹岡一郎

 人心を惑わせる植物として、桜はしばしば引き合いに出されるもののひとつである。
 掲句では「桜」は白皙の給仕に「憑いて」いる。桜の実景がそこにあるかどうかは、わからない。樹木でなく、人から「桜」を感じたのだ、というふうに読むと、かえって花の気配が強まって感ぜられる。桜の化身、桜の精、などという言い方でなく、「狐憑き」ならぬ「桜憑き」として、桜が擬人化されず人のなかに気配として在る、そんな「在り方」が暗示されているからだろうか。

 この給仕は人間なのだろうか。音もなく現れ、静かな所作で盆のものをテーブルに移す、給仕の姿が目に浮かぶ。

 そこが桜の下であろうとなかろうと、この人物は「桜憑き」なのだと感ぜられる。透き通るという表現もあてはまらぬほど、図抜けて白い皮膚を持つ給仕が佇む。たとえば淹れ立ての紅茶を置かれたとしよう。テーブルの上に白い茶器が美しく配置されている。かすかに湯気をたてる紅茶。美味しそうだな、と感じると同時に、これは一体何なのか、と手が止まる。自分の知っていた「紅茶」とはこういうものだったか?

「桜憑き」が饗するものとはどんなものだろう。口にしてみたい気もするし、そもそも怖くて触れられないのかもしれない。永遠に時間が止まってしまったような構図に、魅入られてしまった。

〈「蜂の巣マシンガン」ふらんす堂/2011〉

2015年9月7日月曜日

処女林をめぐる 5 [古沢太穂]  / 大塚凱


税重し寒の雨降る轍あと  古沢太穂
今や、国の借金が1000兆円を超えたらしい。僕が幼い頃は800兆だか900兆だかだったような気がするのだが、いつのまにか増えている。僕らは生まれた頃から1人あたりウン百万円の借金を背負っている、という言説があるが、僕らの世代にある閉塞感はその背中の重たさなのだろうか。重たい背中は、自然と視線を俯かせる。

太穂が生きた時代には、こんな重たさはのしかかってはいなかっただろう。それはもっと直接的で、実体のある税の重たさだったはずだ。轍あとーー太穂の詠んだ貧しさは、どこか律令制のもとで取り立てられた税をも想像させる。古代、太穂の時代、そして我々の時代へと轍は繋がっているのだ。
出典:古沢太穂『三十代』
昭和25年
神奈川県職場俳句協議会刊

2015年9月1日火曜日

人外句境 19 [飯田有子] / 佐藤りえ


夏近し火星探査機自撮りせよ  飯田有子

 NASAの無人探査機「ニューホライズンズ」が冥王星に最接近し、撮影された高解像度画像が公開された。氷の山脈があるとか、正確な直径が観測されたとか、日々新発見がニュースとして報じられている。

 もし無人探査機に人工知能が搭載されたとしたら。そんな発想はSFの界隈ですでにしつくされているだろうけれど、「自撮り棒」はどうか。小型化されたスマートフォンが高機能のカメラを搭載していて、長く伸ばした棒の先にそれをくっつけ、自分を撮影するのが流行する―などという予想はある程度なされていたのだろうか。

 小惑星「イトカワ」から帰還、大気圏で燃え尽きた「はやぶさ」に涙した人々は、無人探査機に人工知能が搭載され、自撮り写真が公開されたりしようものなら「カワイイ~」と色めきたつに違いない。

 動物にしろ、無機物にしろ、人間に似た所作をするものを人は「カワイイ」と評しがちである。それがどんなスケールのものでも、どんな距離感のものでも「そう」なるものなのだろうか。かつて「ナイトライダー」という海外ドラマに「ナイト2000」という「しゃべる自動車」が登場した。スペースシャトルが「てへぺろ」でもカワイイのだろうか。

 宇宙空間のなかで、火星と自分が最も美しく映える画角を探し、自撮り棒をウィンウィンと操作する探査機。なぜだろう、私にとっては考えただけで泣けてくる絵だ。「自撮り」の側面である孤独がこれほどまでに際立つシチュエーションも他になかろう。太陽だけが探査機をまばゆく照らしている。
〈「別腹」8号/2015〉

2015年8月26日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 20[石橋辰之助]/ 依光陽子



汗ばみし掌の散弾を菊にうつ  石橋辰之助


「心象風景」と題された連作の中の一句。散弾を握る手が汗ばんできて掌をひらく。ぬめりを帯びた幾つかの散弾がある。再び握りしめたそれを眼前の菊にうつ。銃に込めることなく、擲つ。うたれた散弾は菊を打ち、あるいは掠め、あるいは掠めもせずに地面に落ちるだろう。

菊は日本の象徴ともいえる花である。皇室の表紋、国会議員の議員バッジ、パスポートの表紙の十六弁一重表菊紋、自民党の党章、靖国神社の門扉の装飾。

掲句の書かれた昭和9年の前年、日本は国際連盟から脱退、昭和12年日中戦争、昭和13年国民総動員法制定、昭和14年第二次世界大戦と、時代は日常とは別のところで戦争へと着々と歩を進めており、その気配を感じることのできる者のみが言いようのない漠然とした怖れを抱いていたのではなかったか。

石橋辰之助は水原秋櫻子に従い「ホトトギス」を離れ「馬酔木」に拠ったのち、昭和12年「馬酔木」を離れ「京大俳句」に参加、新興俳句弾圧事件で検挙され、40歳という若さでこの世を去った。その事を鑑みると、掲句の「汗ばみし掌の散弾」の鈍い光が私を打つ。

掲句所収の句集『山行』は辰之助の第一句集。昭和6年から昭和10年までの句から成る。集中のほとんどが山行の中で作られた俳句であり、この句集が山岳俳句を切り拓いた句集であったことは紛れもない。その中にあって掲句を含む「心象風景」の連作は異質だ。やがて秋櫻子と袂を分かった辰之助の姿がここに見て取れる。

さて、上述のとおり句集『山行』には山岳俳句の嚆矢と称された<朝焼の雲海尾根を溢れ落つ>をはじめ“垂直散歩者”石橋辰之助の産んだ珠玉の山岳俳句が詰まっている。しかし高屋窓秋、石田波郷、西東三鬼ら才人の傍にいて山へ身を向けざるを得なかった心情を慮ると、単なる馬酔木調の山岳俳句とは言いきれぬ厳しさと哀しさが澱のように残るのであった。

岩魚釣歯朶の葉揺れに沈み去る
白樺の葉漏れの月に径を得ぬ
吹雪く夜の雷鳥小屋の灯に啼くか
岩燕霧の温泉壺を搏ちて去る
藁干すや来そめし雪の明るさに
霧ふかき積石(ケルン)に触るるさびしさよ
吹雪来て眼路なる岩のかきけさる
凍る身のおとろへ支ふ眼をみはる
雲海に人のわれらにときめぐり
山恋ひて術なく暑き夜を寝ねず
穂草持ちほそりし秋の野川とぶ
蒼穹に雪崩れし谿のなほひびく
風鳴れば樹氷日を追ひ日をこぼす
除雪夫の眼光ただに炉火まもり

(『山行』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年8月25日火曜日

人外句境 18 [北大路翼] / 佐藤りえ



骨壺を抱いてゐさうな日傘かな  北大路翼

 日傘は「専ら女性がさすもの」と書かれた歳時記がある。ここでも女性のさしている傘と思いたい。
古日傘われからひとを捨てしかな  稲垣きくの
という句があり、

まへをゆく日傘のをんな羨しかりあをき蛍のくびすぢをして  辰巳泰子

 という短歌もある。ひとを捨てる決然とした女、女に羨ましがられる女。日傘を手にした女はなにかを増幅させるものなのか。

「骨壺を抱いて」そうな、は骨壺のように見えるものを持っているのではなく、それが似合う、またはそういう雰囲気である、という比喩だろう。簡潔にいえば未亡人ぽい、ということになろうか。

 勿論世の未亡人が骨壺を抱いて歩いているわけではない。現実には存在しないけれどフィクショナルなものとして浸透している、にっかつロマン風な意味での「未亡人」イメージが「骨壺を抱いてゐさうな」から導き出される。

 声をかけてみたいところだが、くるりと振り返った途端、なにか思わぬことが起こってしまう(たとえば持っていた骨壺が割れるとか)(比喩はどうした)ような気もして、迂闊には近寄りがたい。
「骨壺」の白さと「日傘」の白さがハレーションを起こし、白日夢のなか、いつしか女は消えていってしまいそうだ。

〈「天使の涎」邑書林/2015〉

2015年8月20日木曜日

またたくきざはし3  [関悦史] / 竹岡一郎




誰よりの電話か滝の音のみす    関悦史  

電話が鳴ったので、取ったのだが、声がない。もしもしと問いかけても返事がない。ただ滝の音だけが延々と聞こえてくるのである。これが4分33秒続けば、ジョン・ケージの最良の曲となろう。

滝が電話を掛ける訳はないので、向こうには誰かいる筈なのだが、どうも滝自体が電話を掛けてきたような気もする。滝は霊的な場であって、そもそもは誰にでも見える神の具現だ。

夏の滝は香り立つ。正確には、滝の飛沫が神気となって、あたりの緑を香らせるのである。尤も、絶えず流れる水は色々な霊的不浄を引き寄せたりもする。逆に、行者は浄められんとして滝に打たれる。滝行は注意しないと自我が極端に強くなることがある。行者によっては足元に蛇が蟠っているのが見えるという。蛇は行者の自我の具現化である。意識下に潜んでいたエゴが視覚化されるのであろう。

滝とは、神でもあり、山の涼気でもあり、浄められんとする執念でもあり、引き寄せられる不浄を黙って受け入れる場所でもある。、滝は、此の世とあの世、執着と放擲、浄と不浄の見事な渾沌である。そういう渾沌が、途絶えぬ音として作者に語りかける。

滝の音は何を伝えたいのだろうか。多分、渾沌を観つづけよと言いたいのだろう。こういう情景を句にしている作者は、当然、渾沌を見ている筈で、ならば作者に電話を掛けて来た者は、あるいは作者のドッペルゲンガーか。およそ人間が、誰、と問いかけて、最も判然としないのは、実は常に自分自身ではなかろうか。

受話器を握っている作者の周りには、恐らく日常の雑然さが広がっているであろう。だが、滝の音に耳傾ける内に、それらの雑然さは徐々に、滝の音に呑み込まれてしまう。作者にとっては己の全てが耳だけとなり、眼を閉じて聴きいる内に、明るいとも暗いともつかぬ、茫漠としつつ閉じられてもいる空間が広がるのである。それが滝の世界であり、受話器の向こうから、滝を背に電話を掛けている者がもしも自身であるならば、作者は自らの内面に耳傾けている事となる。

「世界Aの報告書」(ふらんす堂通信134号、2012年10月)より。

2015年8月18日火曜日

人外句境 17 [中山奈々] / 佐藤りえ



防湿のパンドラの匣百日紅  中山奈々

 そもそも、プロメテウスが火を盗まなければ、パンドラの箱とパンドラはエピメテウスの元に差し使われることもなかったのか。そんなこともなかろう、と思う。嫉妬深く、「いらんことしい」のゼウスのことである。そうでなくとも何か別の機会に、なんかかんかの理由をつけて、パンドラの箱を地上に送りこんだに違いない。
 パンドラの箱の中味は「厄災」であるという説と「祝福」であるという説がある(ついでにいえば箱か壺か、という説もある)。いずれにしろ持ち重りのするやっかいきわまりない中味だ。完全に道具としてしか見られていない感のある「匣」の側にも言い分があれば、もっと違うものを入れてもらいたいんじゃないか。いい匂いのする果物とか種とか、宝物とか。箱を開けさせたのは箱そのものの意思ってことはないのだろうか。「こんなの入れておくの嫌です」と電波的なものを出したとか。
 パンドラの箱が防湿だったら、地上はもう少しさらっとした世の中だったろうか。蓋をあけ、中をのぞき込んだところで「むあっ」とするのが多少軽減されただろうか。箱から飛び出した諸々は、もう少し軽やかに飛散していっただろうか。
 掲句の「パンドラの匣」は、どうにも自宅にしまってあるふうに思える。ウチのは防湿で、まだ開けていないんですよ。百日紅の繁茂する陰で、ひっそりしまわれた匣がじわじわ恐ろしい。

〈「セレネッラ」第四号/2015〉

2015年8月11日火曜日

人外句境 16 [松本てふこ] / 佐藤りえ



雪女ヘテロの国を凍らせて  松本てふこ

「わたしの雪女」と題された連作からの一句。タイトルおよび〈女による女のための雪女〉〈きみはいつも男のもので雪女〉といった句から、女性同士の恋愛をベースとした作品世界が見えてくる。評者は日本(しかも昭和後期から平成にかけての)にしか暮らしたことがないが、この国にいて息をするように自然に想定される恋愛のカタチ、といえばそれはヘテロセクシャルのことであり、なんなら「ふたり」「つれあい」といっただけで、男女の組み合わせ、または男女の片方を指す、ぐらいにしぶとく浸透しているものである。
 雪女といえば、正体がばれてしまったら「私がその雪女だよ!」と自らカミングアウトしてその場を立ち去らなければならない(且つ、正体を見破った相手の命を奪ってしまうケースもあるらしい)伝承もあるような存在である。そういう存在の不自由さに、LGBTとしての不自由さが掛け合わせとなったら、どれほど困難となるのか。そりゃあ国ごと凍らせたくもなるよねぇ、と雪女の肩の一つも叩きたくなる。
 そのうえでこの一句がせつない読後感を残すのは、二重の意味での共存不可能性がみえるからだ。雪女とそれ以外。ヘテロセクシャルとそれ以外。「て」留めの結句が、しんしんと冷たく降り積もる。
〈「別腹」8号/2015〉

2015年8月5日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 19[軽部烏頭子]/ 依光陽子




みとりゐの蚊帳つられあり白き蚊帳  軽部烏頭子


「みとり」と題された連作の中の一句目。連作を総括した次のような前書きがある。

託されたるみどりごのいのちあやふければとて或夜修道院に聘かれける

修道院に託された嬰児。この子は、この世に生まれた祝福も受けず、愛情の日溜まりの中で微笑むこともなく、今その短い命を終えようと蚊帳の中で小さなからだを横たえている。作者の目に映ったものは、ただ白い蚊帳だ。ここには医師としての目はない。ただ俳人としての眼があるばかりだ。客観写生の、なんという厳しい事実描写だろう。

全句引く。

みとりゐの蚊帳つられあり白き蚊帳 
かかげ給ふ蚊帳も十字架(クルス)もゆらめける 
蚊帳せばく合掌の人たちならぶ 
白き蛾のきて合掌の瞳をうばふ 
白き蛾にささやかれしは伊太利亜語 
合掌のもすそに白き蛾を見たり

蚊帳の白と引き合う蛾の白を俳人の眼は捉える。蠟燭の灯に来た蛾は暴れ飛び、合掌する人々の瞳まで奪う。聴こえてくるのはイタリア語。カトリック総本山、バチカン市国をいただくイタリア語の響きが天国へと導く音楽のように囁かれ、蚊帳も十字架も揺らめく。先ほどまで荒れ狂っていた蛾は、魂が肉体を離れる時を知るかのごとく、蚊帳と一体となってその裳裾にひたと留まっている。

この「みとり」6句の連作を、烏頭子にとっては旧友であり、また彼が兄事した水原秋櫻子は「これを読まずして連作を語るべからず」と書いた。連作俳句を手段として新興俳句運動が発展していた時期である。中学から東大医学部まで同期であり、特に一高時代は寄宿寮の同室で二年間を共にした秋櫻子と烏頭子。秋櫻子に従い「ホトトギス」を離れ「馬酔木」に拠った烏頭子は終生主宰誌を持たず、「沈黙の指導者」と称されたという。

掲句を含む軽部烏頭子の第一句集『樝子の花』の跋文の中で秋櫻子は、感情の純なる美しさ、表現の正確さ、調べの巧みさを挙げ、「これほど美しい俳句には無論現代に於て比肩するものはない。過去の文献をさがしてもたしかに類を絶してゐる」と賛辞を送っている。この美しさは耽美さではない。俳句でしか言い得ないことを、過不足なく正確な言葉で、しずかな心の眼で書きとめる。全てに抑制が効き単純化された美しさ、それが烏頭子の魅力だ。
(ちなみに『樝子の花』は石田波郷に依る編輯である)


日曜の庭にひとりや春の雷 
まつはりし草の乾ける跣足かな 
触れてゐる草ひとすぢや誘蛾燈 
蓮の中あやつりなやむ棹見ゆる 
とんぼうや水輪の中に置く水輪 
鳴きいでて遠くもあらず鉦たたき 
片頬なる日のやはらかに晩稲刈 
返り花まばゆき方にありにけり 
夕立のはれゆく浮葉うかみけり 
後れたる友山吹をかざしくる 
いなづまに白しと思ふ合歓の花 
舟ぞこに鳴りて過ぎしは枯真菰 
をかまきり贄となる手をさしのぶる

(『樝子の花』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年8月2日日曜日

今日のクロイワ 29 [山口昭男]  / 黒岩徳将



波音の虞美人草でありにけり 山口昭男

「鍛錬会二句」という前書きで、「竹林の今日しづかなる早苗かな」と共に掲載されている。シンプルかつ挑戦している文体だ。「波音の」とあることから、虞美人草がまるで波音がないと存在しないかのような気がしている。あの茎の頼りなさからも、波音に凭れ掛かっているともとれる。

見なければ、書けない句がきっとある。しかし、見なかったからこそ書けた句もあるのかもしれないと思った。

「秋草」7月号より。裏表紙の句会案内を見ると、7月25日の欄に10−12時、12:45−14:15、14:30−16:00に全く同じ場所で句会をするそうだ。なんて熱いんだろう。

2015年7月26日日曜日

今日のクロイワ 28 [曾根 毅]  / 黒岩徳将



万緑や行方不明の帽子たち  曾根 毅


実は私も、数ヶ月ほど前、買ったばかりの帽子を失くした。それは極めて個人的な体験なのだが、掲句は森か林の中で帽子を失くしてしまったのだろう。そこで、「私のように帽子を失った人がこの世界には…」と考えている。個人的な事象から全体の問題へとスムーズに話題を移行させている。この帽子は、黃ばんだ色か、茶色か、もしくは緑の帽子だと思いたい。

帽子は、人間の装身具の中で一番不安定なものではないだろうか。帽子は肉体になろうとしても、なりきれない。ネックレスや腕輪、イヤリングよりも頼りない。帽子と人間が手を取り合う、いや頭を取り合う日は来るのだろうか。もう来ているのだろうか。


<「花修」深夜叢書社2015年7月所収>

2015年7月24日金曜日

黄金をたたく22 [池田澄子]  / 北川美美


プルヌス・フロリドラ・ミヨシに間に合いし  池田澄子


些か時期的に遅い掲出になってしまったが、豈57号で気になっていた句である。知識が無い上で鑑賞してみると、この「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」が謎である上、眼目である。何故これが気になるのか…、それは、語感、音感なのだと思う。

何のソラミミなんだろうか考えていたところ、本家「俳句新空間」で語られている筑紫×福田書簡のバルトにあった。ロラン・バルトの書に、『サド・フーリエ・ロヨラ』(みすず書房)がある。哲学を語るつもりは無いが、「サド・フーリエ・ロヨラ」と「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」と語感が(若干無理矢理)似ている。ラテン語から来る響きがそう思わせるのだと思う。「サド・フーリエ・ロヨラ」(正確には中黒ではなく点を使用 「サド、フーリエ、ロヨラ」)のAmazonでのブックデータが以下。

呪われた作家サド、稀有のユートピア思想家フーリエ、イエズス会の聖人ロヨラ、背徳と幻視と霊性を象徴する、この三人の“近代人”の共有するものは何か。著者バルトは、言語学、記号学の方法によってのみならず、これに社会学、人類学、精神分析等の知見を加えて、彼らが、同じエクリチュール(書き方)をもつロゴテート(言語設立者)であることを明らかにする。ロゴテートとは、既存の言語体系に基礎をおきながら、これを超えた新しい言語宇宙の創設者をいう。この宇宙は、音声、記述言語によるだけでなく、さらに、行為としての言語(サド)、イメージとしての映像言語(ロヨラ)を含んでおり、ここにはバルトの現代的言語観が反映されている。本書の特色は、三人のもつ思想の内容にではなく、各人の表現形式に焦点をおき、分析を展開している点である。

具体的にどういうソラミミなのかというと、「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」が三人の登場人物に思えるからだ。まさに背徳と幻視と霊性を象徴する三人に逢った気がして更に「間に合った」のだから尚さら良いことだろうと想像が膨らむ。行為としての言語(プルヌス)、イメージとしての映像言語(フロリドラ)、そして実際に生きていた近代人の名称(ミヨシ)が新しい言語宇宙を繰り広げるのである。

いずれにしてもラテン語の三語がある宇宙感を作り出す。これを俳句に持ってくるにはロマンが感じられる語でないと効かないのだろうなと思う。

おそらく、言葉の並びから「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」が学名であることに気が付く読者もいるだろう。謎解きすると、「プルヌス・フロリドラ・ミヨシ」は中将姫誓願桜(ちゅうじょうひめせいがんざくら)という岐阜県岐阜市大洞の願成寺境内にある世界に一本だけある桜の学名だそうだ。

因みに、このミヨシは命名者名、三好学(みよしまなぶ)のこと。(1862年1月4日(文久元年12月5日) - 1939年(昭和14年)5月11日)、明治・大正・昭和時代の植物学者、理学博士である。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人。特に桜と菖蒲の研究に関しての第一人者であった。Miyoshiは、植物の学名で命名者を示す場合に三好学を示すのに使われる。並びでいえば、属名+種小名+発見者名,ということになる。桜と同じ岐阜出身のプラントハンターだ。

植物学(あるいは植物画)は忠実な事実の写生の記録である。芸術は写生から始まる。この句の言葉から触発され、言葉が宇宙を創り出していく。俳句実作者は、バルト風に言えば、ロゴテート(言語設立者)、ということになる。




<俳句空間「豈」57号2015年4月所収>

2015年7月23日木曜日

処女林をめぐる 4  [森澄雄]  / 大塚凱


かんがへのまとまらぬゆゑ雪をまつ   森澄雄

僕がかんがえている。いったいなにをかんがえているのか。なにをかんがえるべきなのだろうか。

そもそも、なにをかんがえていたんだっけ。かんがえるということは、しばしば、かんがえるということをかんがえさせてしまう。そうしているうちに、かんがえはふかまっていくようであるし、輪をえがいてどうどうめぐりしているような気もするし、宇宙のかなたにとんでいってしまうみたいでおそろしくもなる。かんがえは僕を勇気づけてくれるが、僕を傷つけるときもある。そんなときは、せめてかんがえないようにすることをかんがえる。消しては書き、消しては、書き、そうやってふえていった消しかすのかたまりがほんとうの「かんがえ」なんじゃないかなあってかんがえたりするのです。

僕はなにをかんがえていたのでしょうか。なにかをかんがえていたのです。いつになったら、かんがえはまとまってゆくのでしょうか。雪がふるまで、かんがえているのです。あなたいま、雪のことをかんがえたでしょう?

(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)

2015年7月22日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 18[楠目橙黄子]/ 依光陽子




本をよむ水夫に低き日覆かな 楠目橙黄子


本と水夫いえば誰もが次の句を思い浮かべるだろう。


かもめ来よ天金の書をひらくたび 三橋敏雄



三橋敏雄は戦中は横須賀海兵団に所属、戦後は運輸省所属の練習船事務長として船に勤務していた。この句が<天金のこぼるゝ冬日に翔ぶかもめ 南雲二峰>のオマージュであるにせよ、ロマンティシズムに徹した青春性の迸り出る敏雄の句が他の二句を遥かに上回っていることは改めて書くまでもない。

掲句は本と水夫という組み合わせは魅力的だ。さりげないが水夫の人物像がくっきりと見えて来て、絵としても美しい。船上と捉えるもよし、また港の風景と捉えてもいい。読んでいると異国のような気もしてきて、イメージする国によってこの水夫を取り巻く空気感が様々に変わって味わえる。

色は白。水夫の制服も、夏の日差も、日覆の下の明るい陰の中で開いた本のページも。日差の強さから日覆自体の色は消え、遠目にはただの白光となって目に映るだろう。船体もまた白いに違いない。

「低き」の措辞も効いている。日中の休憩時間だからまだ太陽は高い位置にあるが、だんだん光線が斜めに射し込んでくるので日覆を初めから低く下ろしているのだ。本に没頭している姿から、水夫には似合わぬ痩身で文学青年のような印象や、清潔感や若さも感じる。

掲句を含む句集『橙圃』は大正4年から昭和9年までの20年間で高濱虚子選の作品から抄録した665句から成る楠目橙黄子の第一句集。この間の橙黄子は間組代表取締役で、任地に従い朝鮮・満州、九州、大阪など様々な地を仮住しながらの句作であった。各地を転々としながらも俳句がいわゆる絵葉書俳句に落ちなかったのは、しっかりと地に足がついた句作りをしていたからであろう。花鳥諷詠で一句一句丁寧に作られているが、句数の割に視点も句風も単調で不充足である。作者の俳句への思いを汲み取るには読み手側に辛抱がいるかも知れない。

追従を許さじと扇使ひけり 
僧に尾いて足袋冷え渡る廊下かな 
野に遊ぶ日曜毎の路を又 
枯芦に大阪沈む煙かな 
定かなる蠑螈の姿泥動く 
をかしさや全く枯れし菊に傘 
潮ざゐに遠のく泡や春の雨 
蟷螂の飛び立ちて行くはるかかな 
水中にすがるる草や秋日和 
草刈のしとどぬれたる馬を曳き

(『橙圃』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年7月20日月曜日

またたくきざはし2  [大井恒行] / 竹岡一郎



怒髪は焼け衡は焼けて透ける耳のみ   大井恒行

判らぬながら、美しい夕焼けの如き情景が浮かぶのは、「透ける耳のみ」によると思う。「衡」は何と読むのか。音読みで「コウ」と読むのか、訓読みで「はかり」か「くびき」か、秤によって量られることを頚木と思う憂さがあって、二重の意味を持たせる意図で敢えてルビを付けなかったのか。

「衡」には、別の意味もあって、一つには死を司る北斗七星の柄の部分である。もう一つには、はかり、目方から転じて、標準という意味がある。更には、物事の良し悪しや成否を考えるという意味もある。

怒髪天を衝く、という言葉を思うと、これは天を突き上げるような怒りであろう。時の為政者に対する怒りか、この世のあらゆる不正に対する怒りか。その怒りも、その発露である逆立つ髪も焼け、その怒りを呼び覚ます「くびき」または「はかり」も焼ける。標準という概念も焼け、危うい釣り合いを保っていた何かも焼け、今起こさんとし或いは既に起こした物事の善悪も成否も焼ける。焼けるのは、天の炎によって焼けるのか。或いは遂に炎となった怒りが、髪も、怒りそれ自身も焼き尽くすのか。衡には平らという意味もある。だから、何もかも焼け失せて真っ平らになった地平への連想も生じる。

「焼け」を二度繰り返すのは、反復のリズム効果もあろうが、それよりもむしろ焼ける順序を敢えてつけることにより(衡が焼ける結果として怒髪も焼けるのではなく、まず怒髪が焼け次に衡が焼ける)、怒髪という現象に対する考察にも及ぶ。即ち、怒髪自体がそもそも衡の一種ではないのか。
そして怒髪の燃え滾る刃のような鋭さも、秤の厳しさも頚木の鈍重さも持たぬ、透ける耳のみが残る。耳は何もかも焼けた後の静寂を、澄んだ夕焼けの内に聴くのである。作者には、「木霊降るいちずに夕陽枷となり」の句もある。(「秋の詩」所収)ここでは枷の正体が表されており、また耳が聴くのは木霊である。こちらの方が判りやすい句ではあろうが、私は掲句の怒髪の行き行きて帰らぬ様に胸打たれる。正義を欲し、糾弾を求め、公平な秤に憧れ、不正な頚木を憎み、あるいは戒律たる頚木を待ち望み、燃え上がる髪の如く怒りを突き立て、この怒りは我を焼き我が髪を焼き我が身を火柱と化して天を衝くことを欲し、だが一切は焼け、否、焼けつくしてしまえ、真っ平らな地平だけが残れ、夕焼色に似た静寂だけが残れ、その静寂を聴く清澄な耳だけが残れ、それは怒髪突き上げた者の耳ではなく、柔らかな透ける耳、その内に新しき血の巡りて耀う為に、あまた怒れる者が殉じた耳。

<「秋(トキ)の詩(ウタ)」現代俳句文庫49『大井恒行句集』1999年ふらんす堂所収>


2015年7月16日木曜日

処女林をめぐる 3 [森澄雄]  / 大塚凱


四肢衰へて見る白桃は夢のごとし   森澄雄
澄雄は昭和二十三年三月に結婚し直ちに上京するものの、同年五月に腎を病み、以降一年余りを病床で過ごした。澄雄の病状が最悪のタイミングで妻が出産のため単独入院したことに、〈霜夜待つ丹田に吾子生まるるを〉の句を残している。決して安らかな病床ではなかったようだが、その時間が澄雄のこころを育んだのもまた事実であろう。身体は衰えを隠せないが、彼の内的世界は膨張した。

腎を病んで衰えた自らに、剝かれた白桃が差し出されているのだろうか。澄雄はつややかな白桃を「夢のごとし」と捉えた。確かに、身体の衰えと白桃の豊かさが対比されている構図が中心であり、この生命のモチーフを一種のパターンであると批判する、あるいは「夢のごとし」という表現が俗に使い古されていると批判することもできるだろう。しかし、重要なのはこの句が「白桃が存在し、それを味わうことが夢のようだ」ということではなく「白桃そのものが夢のようだ」と表現されていることだ。病床で長い時を臥せる者にとって、夢は慰みだろうか。僕には想像することしかできないが、もしそうだとするならば、澄雄の戯れた夢の数々が白桃という存在に凝縮されて甘い汁を湛えているような心地がしてならない。眠る度に消費されていく夢を、四肢衰えた澄雄は「見た」のではないだろうか。澄雄の言語世界で白桃の白さは、そんなまぼろしの光を纏っている。

(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)

2015年7月15日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 17 [山口誓子]/ 依光陽子




汗ばみて少年みだりなることを  山口誓子


誓子の冷徹な眼差しの捉えた肉体は、生ぬるい情感を受け付けない。人間の本質を突きながら、物体としての肉感が生々しく、時に揶揄を含み、エロティックでありグロテスクだ。

句集『黄旗』の中でざっと拾ってみると

北風強く水夫の口より声攫ふ 
纏足のゆらゆらと来つつある枯野 
ストーヴや処女の腰に大き掌を 
さむき日も臚頂見え透く冠を 
侯は冬の膚うつくしく籠ります 
しづかに歩める風邪のタイピスト 
玉乗の足に鞭(しもと)や夏祭 
ラグビーの味方も肉を相搏てり

声を攫われた水夫の口の動き、枯野を来る纏足の女の覚束ない脚のゆらめき、処女の腰に置かれた男の手の欲情、冠がなければ威厳も何もない貧相な臚頂、侯爵朴泳孝の男性ながら白く美しい肌、立ち上がってしずかに歩きだしたタイピストのふくらはぎ、鞭打たれ腫れているであろう侏儒の足、肉体を打ち合う音から伝わるラガーたちの熱気と男臭さ。

しかし掲句は上に挙げた句とは違い、どことなく戸惑いを匂わせる。連作「汗とプベリテエト」4句中の3句目。<おとなびし少年の手の汗ばめる><少年の早くも夏は腋にほふ>のあと掲句、<ほのかなる少女のひげの汗ばめる>で完結する。思春期の少年少女の姿を活写したもので、中では4句目が秀逸であろうが、私は掲句に惹かれる。「みだり」にどの字を当てるか。乱り・妄り・濫り・猥り。『雨月物語』の「かれが性(さが)は婬(みだり)なる物にて」の婬も含まれようか。これらは少年の秘めたる性質。しかしむしろ『源氏物語』桐壷の「かきくらすみだりごこちになむ」の「みだり」を読み取る。言い表しようのない心の乱れ。つまり当事者である少年が無自覚なエロスは汗ばんだことで現れ、その姿を見ることによって誰彼の「みだりごこち」を誘うのではないか、といった他者としての視線。同時にそれを見出してしまった自分。

トーマス・マン原作、ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』で主人公のアッシェンバハが美少年タージオに向けた眼が「みだり」であり、彼の苦悩は「みだりごこち」であった。

掲句所収の句集『黄旗』は山口誓子の第2句集。詩精神と現実主義の上に立った句材の幅の広さ、個々の句に独立性を持たせた編集法による連作俳句と、それらを大表題の下に置き一大連作を成すという構成から、従来の俳句の固定観念を打ち破り感性を解放した新興俳句の金字塔といわれる句集である。


玄海の冬浪を大(だい)と見て寝ねき 
渤海を大き枯野とともに見たり 
枯野来て帝王の階わが登る 
陵さむく日月(じつげつ)空に照らしあふ 
笛さむく汽車ゆく汽車の上をゆく 
掌に枯野の低き日を愛づる 
駅寒く下りて十歩をあゆまざる 
映画見て毛皮脱ぐことなき人等 
夏草に汽罐車の車輪来て止る 
春潮やわが総身に船の汽笛(ふえ) 
籐椅子や海の傾き壁をなす 
檣燈を夏の夜空にすすめつつ


(『黄旗』昭和10年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)



2015年7月13日月曜日

またたくきざはし 1 [大井恒行]   / 竹岡一郎



椀に降る牢獄(ひとや)ながらの世は初雪   大井恒行
「世の」ではなく、「世は」であることが眼目であろう。この助詞のずらし方により、この世と初雪の位置が重なり、下五において句が飛躍的に広がる。牢獄のような濁世の儚さを端的に喩えているのであるが、同時に、作者にとっては未だに初雪の如く初々しく見える世をも称えてもいる。

椀とは何だろう。山頭火の「鉄鉢の中へも霰」を思う。「碗」ではなく、木製の「椀」であるから、これはたとえ霰が落ちても大して響かない。ましてや初雪である。初雪に喩えられる此の世は音を吸い、自らも静かなのである。或いはかくあれかしと作者は希うのだろうか。「牢獄」なる語から、囚われの身に出される貧しい食をも思う。椀に降るのは雪でもあるが此の世全体でもあるのだから、これは相当大きい椀であろう。世の果てまで広がる伸縮自在の碗とも考えられる。そう考えた時、そのように喩えられるものはたった一つしかない。人間の心である。だから、この椀は作者自身の象徴であろう。作者が此の世を越えてはみ出したいと思っているように見えてならぬ。何の為にそこまで広がりたいかといえば、それは初雪を受けるが如く、この世を静かに受け止めたいからだ。「秋(トキ)の詩(ウタ)」
<現代俳句文庫49『大井恒行句集』1999年ふらんす堂所収>

2015年7月9日木曜日

処女林をめぐる 2 [森澄雄]  / 大塚凱


鬼やらひけふ横雲のばら色に    森澄雄
鬼はなぜ赤いのだろう。もちろん、「泣いた赤鬼」には思慮深くて切ない青鬼が登場するし、緑鬼もいるらしい。けれど、やっぱり鬼と言ったら赤鬼である。なまはげや天狗も赤い。赤鬼と彼らは兄弟みたいなものだろう。人間界でも、矢沢永吉のYAZAWAタオルは赤い。アントニオ猪木が新宿駅前で街頭演説をしているのを見たことがあるが、そのときも赤いマフラーをしていた(しかし、あれは果たしてマフラーなのか?)。赤鬼と彼らも従兄弟みたいなものだろう。やはり赤という色は、物の怪のちからの象徴である。天地のちからが漲っているのだ。

「横雲のばら色」にはそんなエネルギーを感じるし、節分の時期の清澄な空気、その冷えた日暮れの季節感がある。冬薔薇の気品すら感じる天地である。これから日が落ちれば、それぞれの家から豆撒きの声が漏れてくることだろう。その前の静かな夕暮れのひととき。

(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)

処女林をめぐる 3 [森澄雄]  / 大塚凱
四肢衰へて見る白桃は夢のごとし 森澄雄
澄雄は昭和二十三年三月に結婚し直ちに上京するものの、同年五月に腎を病み、以降一年余りを病床で過ごした。澄雄の病状が最悪のタイミングで妻が出産のため単独入院したことに、〈霜夜待つ丹田に吾子生まるるを〉の句を残している。決して安らかな病床ではなかったようだが、その時間が澄雄のこころを育んだのもまた事実であろう。身体は衰えを隠せないが、彼の内的世界は膨張した。
腎を病んで衰えた自らに、剝かれた白桃が差し出されているのだろうか。澄雄はつややかな白桃を「夢のごとし」と捉えた。確かに、身体の衰えと白桃の豊かさが対比されている構図が中心であり、この生命のモチーフを一種のパターンであると批判する、あるいは「夢のごとし」という表現が俗に使い古されていると批判することもできるだろう。しかし、重要なのはこの句が「白桃が存在し、それを味わうことが夢のようだ」ということではなく「白桃そのものが夢のようだ」と表現されていることだ。病床で長い時を臥せる者にとって、夢は慰みだろうか。僕には想像することしかできないが、もしそうだとするならば、澄雄の戯れた夢の数々が白桃という存在に凝縮されて甘い汁を湛えているような心地がしてならない。眠る度に消費されていく夢を、四肢衰えた澄雄は「見た」のではないだろうか。澄雄の言語世界で白桃の白さは、そんなまぼろしの光を纏っている。
(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)

2015年7月6日月曜日

今日の小川軽舟 52 / 竹岡一郎



巴里祭翅もつものは翅に倦み      「手帖」   

巴里祭は季語であるが、日本の7月14日に何か特別なことがあるわけではない。フランスの建国記念日であり、バスチーユ監獄の襲撃を記念する日でもある。実際には、バスチーユ監獄には革命家など収容されておらず、普通の犯罪者が7名囚われていただけだった。襲撃の実際の目的は、不当に囚われた革命家の解放ではなく、監獄の武器弾薬庫であったという。この日に、今なおフランスで行われるのは、国内最大の軍事パレードであり、エッフェル塔の花火である。皮肉な言い方をするなら、戦後の日本人が「革命」や「解放」や「自由」という字面から想像するようなものは何一つない。フランスの軍事力が如何に素晴らしいかを国内外に華やかに見せつけるパレードの日である。更に付記するなら、軍事力の頂点である核兵器を、フランスは350個保有している。米露に次いで、世界三位である。

「巴里祭」は日本だけの呼び方だ。日本人の間に「巴里祭」なる言葉が広まったのは、1932年に制作されたルネ・クレールの映画を翌年(昭和8年、満州事変の翌々年)日本で公開する際に、「巴里祭」と邦題を付けたのがヒットしたのがきっかけである。何ということはない、愛らしい初恋の映画であるが、パリの街並や風俗が、戦前の日本人には新鮮で、手の届かない上等舶来の夢だった。
パリは芸術の都というが、ウィーンだってフィレンツェだって芸術の都である。しかし、パリだけは同時に花の都であって、ウィーンのように仄昏くもなく、フィレンツェのように過剰でもない、日本人にはちょうど良いくらいの華やぎが季語として定着した理由の一つであろう。「ふらんすへ行きたしと思へども/ふらんすはあまりに遠し」と萩原朔太郎が『純情小曲集』中の「旅上」で歌ったのは、大正14年(1925年)。戦後でいうなら、「憧れのハワイ航路」みたいなものだ。

「巴里祭」という季語は、戦前の当時、多くの日本人は一生目にすることはなかったであろう、ヨーロッパの華やかな都への憧れを、夏の明るい光に託しているのだ。だから、この季語は実体のない、幻の美しさへの憧れ、そうであればいいなあという夢見る雰囲気であろう。もっと言うなら、戦後七十年経った今、我々が使う場合は、「巴里祭」というモノクロ映画に胸ときめかせパリに憧れた頃の日本人を偲び、その古き良き切なき心情を回顧する意味合いをも含んでいる。
(仮に、フランスの五月革命(1968年5月10日)を季語にするなら、「革命」「自由」「解放」の雰囲気は出るであろうし、世界中の学生運動に衝撃を与えた、このゼネラル・ストライキは団塊の世代が共感しやすいであろう。しかし、未だに「五月革命」という季語はない。)

さて、巴里祭が、戦前の日本人が憧れた「夏の蜃気楼」のようなものである事、そもそも映画の邦題であってフランス人には無意味な呼び名である事、現実の巴里祭の日にフランスで行われるのは専ら軍事パレードである事を踏まえて、掲句を読む時、「翅もつものは翅に倦み」が、如何に皮肉と哀しさを湛えているかは了解できると思う。飛ぶことに倦んでいるのだ。幻に、雰囲気に向かって飛ぶことに。羽ではなく、翅であるから、昆虫の類であって、鳥のように高く飛べる訳はない。

蝶々なら詩的に物凄く頑張って、韃靼海峡を渡れるかどうかであろう。或いは、露を金剛と観ずる眼にあれば、杏咲く頃に、びびと響いて受胎告知を知らせるくらいはできるかも知れぬ。だが、羽ではなく、翅しか持たぬものは、幻に、理想に、雰囲気に、憧れという実体の無いものに向かって飛ぶ事しか出来ぬだろうか。それならば、「倦む」とは、一つの救いの始まりかもしれぬ。現実を凝視する事によってしか、道は始まらぬからだ。平成15年作。

2015年7月2日木曜日

処女林をめぐる 1 [森澄雄]  / 大塚凱



家に時計なければ雪はとめどなし    森澄雄

第一句集『雪櫟』は学生時代を中心に、応召・野戦時代を空けて帰還以後の作によって編まれた。結婚・上京後に住んだ武蔵野の櫟林に囲まれた自宅を詠んだ一作が掲句である。

時計、つまり「時間感覚」と「雪」との連想をめぐる俳句はしばしば詠まれている。草田男の〈降る雪や明治は遠くなりにけり〉や波郷の〈雪降れり時間の束の降るごとく〉は言わずもがな、子規の〈いくたびも雪の深さをたづねけり〉にも、そこには確かな静けさを湛えた時間が流れている。そう考えていくと、「雪」と「時間」の連想というよりは、きっと「雪」そのものに「時間」が包摂されている。

僕も時計のない家にひとり、暮らしている。得体のしれぬ喪失感や満たされなさを抱えているうちに、時は過ぎ去ってゆく。時計の針が時間を教えてくれることもない。とめどない雪が、そして茫々たる時間が、僕のからだにふりかかる。時計がなければ、瞳は時を捉えきれない。そんなちいさな家に、雪がふりかかる。澄雄の住んだ家は、戦後の窮乏のなか妻子四人と暮らしたちいさな家であった。

(『雪櫟』昭和二十九年・書肆ユリイカ刊所収)





2015年7月1日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 16 [川端茅舎]/ 依光陽子




伽羅蕗の滅法辛き御寺かな  川端茅舎


句意は読んで字の如し。この寺は、出してくれる伽羅蕗がとんでもなく辛い寺なのだよ、ということ。

ではこの句、どこが面白いか。それは文字である。
「伽羅」「滅法」「御寺」どれも仏教に因んだ言葉だ。

香木である沈香の中で最も質の良いものが伽羅。インドでは仏を供養する荘厳のために香を焚き、身体に香粉を塗った。さらに出家者の戒律を定めた『四分律』にも、身体に塗る薬剤の一つとして伽羅があり、高級な線香の材料にもなる。東大寺正倉院に収蔵されている蘭奢待(らじゃだい)も伽羅だ。煮つけると黒く伽羅色になるところから伽羅蕗という言葉は来ている。

滅法はそもそも、因果関係に支配される世界を超越して、絶対に生滅変化することのないもの、真如や涅槃のことである。滅法界はこの世のものではない所。よって滅法とは、この世のものとは思われないほどという意味になる。

これだけの言葉が盛られれば普通なら相当抹香臭くなるところ。だが茅舎の天才を以ってすれば、この仰々しさも俳諧味と言えよう。

川端茅舎は明治30年生まれ。医師を目指していたが受験に失敗。志望を変更して洋画家を志し、武者小路実篤の「新しき村」の会員となり、その縁で岸田劉生に師事。異母兄に日本画家の川端龍子がいる。句作は18歳の頃から。画業の気分転換として始めた。朝日文庫の『現代俳句の世界・川端茅舎集』の三橋敏雄の解説によると〝茅舎〟の号は、姓〝川端〟と合わせて、旧約聖書のモーセがイスラエルの人々の祖先が曠野にさまよった〝遊牧の民〟の生活を記念するために、ヨルダン川のほとりに「結茅節(かりほずまいのいはい)」を定めたことに基づくそうである。

大正4年「ホトトギス」初入選。画業に専念しつつ「渋柿」「雲母」などにも投句していた。関東大震災後、京都東福寺の正覚院に寄宿。昭和5年頃より病がちとなり、画業から遠ざかった。同年「ホトトギス」巻頭を占めたことをきっかけに「ホトトギス」一本に投句を絞る。居は池上本門寺裏の青露庵。茅舎は脊椎カリエス、結核性の病に侵されながら珠玉の作品を数々遺し、昭和16年、44歳で鬼籍に入った。戒名は青露院茅舎居士。露を好み、露の名句を数々遺したことから、露の茅舎と呼ばれた。

露の茅舎も、『川端茅舎句集』の夏の露の句としては<迎火や露の草葉に燃え移り>の一句を認めるのみである。茅舎の句は最晩年へ向かうほど凄みを増してくるのだが、まだ第一句集であるこの句集では清新に登場した新人という趣である。

中学生で聖書を精読、キリスト教の影響を受けながら、仏教に近くいた茅舎の句群には、双方の要素が混在している。これも特徴の一つ。掲句の他にも<金輪際わりこむ婆や迎鐘>など、仏教用語を飄逸に使用した句も散見され、茅舎の本来的な茶目っ気を垣間見ることができる。

以上を踏まえた上で、再び掲句に戻ろう。この寺の伽羅蕗の桁外れの辛さは不変不動、この世のものとも思えないほど辛いと言うのである。有無を言わせぬ辛さのである。未来永劫絶対に変わらぬ辛さなのである。なんともとんでもない御寺に茅舎は厄介になってしまったものだ。一言でも辛いと口に出そうものなら「辛いと思うから辛いのじゃ」という御僧の喝が飛んできそうな、実に味わい深い一句である。


金剛の露ひとつぶや石の上
露の玉蟻たぢたぢとなりにけり
新涼や白きてのひらあしのうら
御空より発止と鵙や菊日和
蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ
放屁虫かなしき刹那々々かな
芋腹をたたいて歓喜童子かな
舷のごとくに濡れし芭蕉かな
しぐるるや目鼻もわかず火吹竹
一枚の餅のごとくに雪残る
眉描いて来し白犬や仏生会
蛙の目越えて漣又さざなみ
蟻地獄見て光陰をすごしけり

(『川端茅舎句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年6月29日月曜日

今日の小川軽舟 51 / 竹岡一郎



森出でてなほ林ある鹿の子かな     「手帖」  


森の道をゆくうちに前方の視界が開けて来て、明るくなる推移を詠っている。林には光も風も透る。森という半ば閉ざされた空間が嫌なわけではないが、少し視界が開けてほっとした。だが、木々の香りはまだ名残惜しい。その名残をいたわるように林というまばらな木々が広がっている。そんな心情である。

「なほ」が利いている。「林ありける」だと、森と林は分断されてしまう。「鹿の子」が眼目だ。物に怯えやすく、だが好奇心旺盛な小鹿が頼りなくゆっくりと歩いてゆく。小鹿はやはり森を出て林の中を歩いているのであろう。ここで作者は小鹿と歩みをともにしているというよりは、小鹿の心情に寄り添って景を見ている。

漸く歩けるようになり、世界の何もかもが新鮮に見えている小鹿の、その感覚で、森が林へとよどみなく移行してゆく様、視界が開け、森よりは風や光が大きくなってゆく様を享受する。緑の匂いを感じる濡れた鼻先、敏感に辺りの音を捉えて立つ耳、大きな瞳や細い四肢、小鹿の全身は、その五感で以て、森から林へと移り変わる様を敏感に受け取る。その喜びが作者の歩みと重なるのである。平成14年作。

2015年6月26日金曜日

黄金をたたく21 [松岡貞子]  / 北川美美



風に吹かれて蜘蛛来るあなたの耳もくる  松岡貞子

耳は詩になる身体部分なのだろう。私の耳は貝の殻…のあの一節を思い、そう思う。

Mon oreille est un coquillage
Qui aime le bruit de la mer 
( Jean Cocteau, Cannes V )

私の耳は 貝の殻
海の響を懐かしむ
( 堀口大學 訳 )



掲句、恋人同士の待ち合わせのように思え、おしゃべりな作者と聞き役の彼を想像した。しかし、まだここは、「くる」としているのでまだ来ていない。もしかしたら死んでしまった、あるいは別れた恋人に話を聞いてほしくて懐かしんでいるのかもしれない。更にこの「あなた」、今、この句を見ている読者のことを指しているとも読め、夜の静けさの中に、ふっと心地よい風が吹き、作者に誘われ暗示にかけられている気になる。少々怖い句でもある。 

初めに作者が期待するのは「蜘蛛」で、風に吹かれて本当に「蜘蛛来る」のかの疑問は残るが、蜘蛛が意思を持ってやってくるように思える。「来る」と「くる」が重なるので作品として味がある。

まだ蜘蛛もあなたも来ていない、風も吹いていないかもしれない、しかし作者が室外ににひとりで立っている情景がわかる。そして、淋しいとは感じていないことが伝わる。それは作者にとっての「あなた」という存在があるからなのだろう。しかし、待っているものが来なかったらどうなるのだろう。やはり怖い句である。


掲句は、かの「俳句評論」同人誌から見つけた。各同人への短い作品評を三橋敏雄が書いている。敏雄は逢瀬と捉えている。

手元の字引で「媾曳」(筆者注:あいびき)を見たら、「男女の密会」とあってびっくりした。密会はどぎつい。仏蘭西語ならランデヴーだが、いい日本語訳はないものか。このような句のために。
同人作品評:三橋敏雄


<「俳句評論90号」昭和44年(第83・84号 同人作品評より)>

2015年6月25日木曜日

今日の小川軽舟 50 / 竹岡一郎



曾根崎の水照らす灯や蚊喰鳥

 曾根崎は大阪・梅田の繁華街。近松門左衛門の「曾根崎心中」で有名な「お初天神」がある。お初天神は、正式には露天神社(つゆのてんじんしゃ)といい、上古は大阪湾に浮かぶ小島(曾根崎のあたりはもともと海であり、河口の砂が堆積して陸となった)に「住吉須牟地曾根ノ神」を祀ったのが初め。現在の祭神は、少名彦大神、大己貴大神、天照皇大神、豊受姫大神及び天神様即ち菅原公であって、お初と徳兵衛は祭神でも何でもない。二人は、天神の森で心中したのである。ところが、今では専ら縁結びの神社と化しているところが面白い。同じ近松の「心中天網島」に出てくる小春は、曾根崎新地の遊女である。江戸の頃は、淀川河口の瘦せた土地であった。明治以降、大阪駅が出来たのをきっかけに、繁華街として栄えた。

私にとっては子供の頃から馴染みの地域だが、曾根崎のあたりは不思議なところである。曾根崎警察署の傍からお初天神商店街に入ると、かなり広い道なのだが、なにもかも共存しているのだ。ゲームセンターがあり、薬屋があり、普通の飲食店や商店があり、キャバクラがあり、バーと一杯飲み屋があり、大人のおもちゃ屋があり、ペットショップがある。その果てにお初天神がある。曾根崎の向こうは、新御堂筋を隔ててラブホテル街があり、老松町の骨董街があり、更に裁判所がある。その向こうは堂島川と中之島だ。大阪の中心地は昔から何もかもごちゃごちゃで、職業や店種によって区分されていない。渾沌の中で、店も人も本音をさらけ出して生きている。

「曾根崎の水」とあるが、江戸の頃はいざ知らず、今、あのあたりに池や川があるわけではない。一番近い堂島川からも相当速足で歩いて二十分はかかるだろう。だから、掲句の水は単なる水ではなく、水に象徴される濁世の様々な事象である。

「曾根崎の水」といわれれば、大阪の誰でも思いつくのは、水商売の「水」である。ここで、中国の占術において水を表わす「坎」の象意に照らせば、水とは、低きに流れ、窪みに溜り、地の底を這い、流れを生じ、他の流れと交わりを結び、艱難辛苦の果に、遂には大海と化す。従って、「坎」の象意は、流動であり、浸透であり、溶解であり、更には遊蕩、煩悶、情交、秘密、疑惑、憂愁、暗黒、奸智、隠匿、敗北、放浪、零落などを表わす。人物では、智者、悪人、淫婦、遊女、病人、死者、服喪者など。人体では、陰部、子宮、尿道、血液、汗、涙、精液、眼球、傷痕など。職業では、船舶業、醸造業等、水に関わる全般から始まり、更に酒屋、水商売、風俗業など。動物ならば、豚、馬、狐、モグラ、水鳥、生魚類、螢、水に関係する生物一切、更に面白いことに蝙蝠も「坎」に属する生き物である。

掲句では、蝙蝠と言わず、「蚊喰鳥」を使っている。その方が、江戸時代の上方情緒が匂うからであろう。(蚊は水に生まれ、血液を吸って生きるから、これもまた「坎」に属する。)そして、曾根崎は上古、海であった。即ち、「坎」の終着である。掲句は「坎」の象意の集合を、灯が照らしているのである。

曾根崎のあたりで蝙蝠が飛ぶところといえば、歓楽街の中心でありながら広い境内を持つ「お初天神」以外考えられぬから、掲句は当然、曾根崎心中を意識している。曾根崎心中に語られる遊蕩、遊女、情交、秘密、煩悶、奸智、零落、これらは全て水の象意であり、従って掲句の水を照らす灯とは、今も盛んなる水商売の灯であり、同時にお初天神の献灯でもあり、曾根崎心中という物語を照らす灯でもある。この灯は、水商売の町に掲げられ、奸智と秘密と情交と煩悶が火蛾の如く群れ集う灯であると同時に、神に掲げられ、神を照らす灯でもある。醤油屋(醸造業であり、坎の象意)の手代・徳兵衛と遊女・お初の心中の物語、これは金銭と恋情の絡みが、坎の極み、死へと至り、死を超える恋が数百年を経て、神を照らす灯へと昇華したのである。大阪は水の都といわれる。水の象意に満ちた大阪の、その物語を照らす灯に、作者は大阪の哀しみを照らさんとする。

平成十五年作。

2015年6月24日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 15[西山泊雲]/ 依光陽子




切籠左に廻りつくせば又右に    西山泊雲


切籠は秋の季題だが、季題別に編まれた『泊雲句集』で掲句は夏の部に収められている。西山泊雲は丹波竹田村(現在の兵庫県丹波市市島町)の出なので盂蘭盆会は旧盆で行われたと思うが、この句集の千句余りの季題選別はさほど厳密ではない。

この句の切籠はどんな形だろう。即座に思い浮かんだのは廻り燈籠で、岐阜提灯や絵燈籠、走馬灯の類。燈籠が灯っていて中の影絵が廻っているもの。だが仮にそうであれば一定方向に廻り続けているはずで「廻りつくせば又右に」という部分がどうもしっくりこない。そもそもそれらを切籠と言わないのではと大歳時記を調べたががはっきりせず、山本健吉の『基本季語五○○選』に当ったところ、「燈籠の枠の角を落として切子形に作り、燈籠の下に長い白紙をさげたものを、切子燈籠、略して切子と言う。」として<雨車軸をながすが如く切子かな 万太郎><しだり尾の切子さげ来し萩の中 碧童>などの例句を挙げている。

『泊雲句集』には切籠の句は一句のみ。<燈籠提げて人や穂草を泳ぎ来る><雨だれのしぶき明かに燈籠かな>のあとに掲句が続くのだが、先に挙げた万太郎と碧童の句とモチーフが似ている。この燈籠は切子燈籠のことか。

切籠といえば折口信夫の説も興味深い。一部分を引く。

面白いのは、彼の盂蘭盆の切籠燈籠である。其名称の起りに就ては様々な説はあるが、切籠はやはり単に切り籠で、籠の最(もつとも)想化せられたものといふべく、其幾何学的の構造は、決して偶然の思ひつきではあるまい。盂蘭盆供燈や目籠の習慣を参酌して見て、其処に始めて其起原の暗示を捉へ得る。 (中略)
 要するに、切籠の枠は髯籠の目を表し、垂れた紙は、其髯の符号化した物である。切籠・折掛・高燈籠を立てた上に、門火を焚くのは、真に蛇足の感はあるが、地方によつては魂送りの節、三昧まで切籠共々、精霊を誘ひ出して、これを墓前に懸けて戻る風もある。かのお露の乳母が提げて来た牡丹燈籠もこれなのだ。「畦道や切籠燈籠に行き逢ひぬ」といふ古句は、かうした場合を言うたものであらう。

(折口信夫『盆踊りと祭屋台と』より)

なるほど切籠とは、諸説はあるが角を落とした幾何学的な構造をしていて、紙を垂らした燈籠であり、門口に掛けられてあるものや、魂迎のときに手に提げていくものも含めるようだ。何れにしても精霊の依代であり、燈籠の中の絵が回っているという解釈は見当違いだった。むしろ切籠そのものが廻っているのだ。

西山泊雲は高濱虚子の説く客観写生の忠実な信奉者であった。四Sが登場するまでの大正期、幾度も「ホトトギス」の巻頭を独占し「泊雲時代」と称される時期があった「ホトトギス」前期の代表的な作家である。

掲句を含む七句で泊雲は大正八年九月号の「ホトトギス」の巻頭を取っている。全てが盂蘭盆の句ではなく梅雨の句があったり鳳仙花の句があったりいろいろなのだが、<雨だれのしぶき明かに燈籠かな>と並んでいることを鑑みれば、この切籠を廻しているのはかなり激しい風雨とも考えられる。前句と関わりなしとすれば、或いは切籠を手に提げている人、例えば子どもが魂迎の道々戯れにくるくると廻しているとも読める。いずれにしても、左に廻りつくせば又右に、右に廻りつくせば今度は左に、その規則的な動きをただ客観写生しただけの掲句に、読むほどに惹きつけられていくのは誠に不思議である。精霊の力か。はたまた言霊の力か。


梅雨の蔓人々踏みて通りけり
燈籠や瀬杭にとまりとまり流る
手に足に逆まく水や簗つくる
蚊帳裾を色はみ出たる夏布団
花入れて数にも見ゆる金魚かな
朝顔の大輪や葉に狭められ
胡麻花を破りて蜂の臀(ゐしき)かな
蟷螂壁に白日濁る野分かな
露の径行きすぎし人呼びとむる
芋虫の糞の太さや朝の雨
空深く消え入る梢や雪月夜
焚火の輪解けて大工と左官かな
見て居れば石が千鳥となりてとぶ

(『泊雲句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年6月22日月曜日

今日の小川軽舟 49 / 竹岡一郎




大工ヨゼフ忌日知られず百合の花


勿論、この大工ヨゼフは、聖母マリアの夫ヨゼフである。このヨゼフの行動は、福音書にはほとんど出て来ない。マリアの受胎の後、夢を見た事(マタイ1・18-25)、身重のマリアを連れて、住民登録の為にベツレヘムへ行った事(ルカ2・4-5)、ヘロデ王を避けて聖母子と共にエジプトへ遁れた事(マタイ2・13-15)、ヘロデ王の死後、イスラエルに戻り、ナザレに住んだ事(マタイ2・19-23)、過越の祭に聖母子をエルサレムに連れて行った事(ルカ2・41-51)。そのくらいであって、忌日どころか、ある時点から忽然と聖書から消えてしまう。

しかし、イエス生誕の前に、ヨゼフは最も重要な働きをしている。この働きなければ、イエスは恐らく世に生まれていない。

『イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を生みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。』
(マタイ1・18-25)

当時の律法では、姦通は石打ちの刑であったという。実質、死刑に等しい。処女懐胎が奇跡である以上、世間はヨゼフの子でなければ姦通の結果と見なすだろう。世間は奇跡を信じないものだ。即ち、もしヨゼフが、面子を潰されたと事を荒立てるような男であれば、マリアは婚約中に不貞を働いたとして石で打たれる。だから、事を公にしようと思わなかっただけでも、ヨゼフは相当に偉い人であるが、更にマリアと婚姻し、イエスを自分の子として育てた。これは天使の夢のお告げが無くとも、ヨゼフはいずれ、そう決断したような気がする。なぜなら、姦通の罪を厳しく糾弾されるような社会にあって、おぼこ娘で気の利いた言訳など何もできないようなマリアが実家に帰され、大きくなってゆくお腹を抱えて、穏やかに暮らせるわけがない。ヨゼフが黙って婚姻する以外、マリアが出産までを平穏に暮せるはずがないのだ。

だから、ヨゼフの形容として記される「正しい人」なる言葉は、誠に重い。如何に自らを空しくして、恋人を護るか。夢に現れた天使は、ヨゼフの良心の具現、義の顕現と重なるのではないか。人の為に律法があるのであって、律法の為に人があるのではない、そう分かってはいても、律法が支配する社会にあって、「律法を超える正しさ」を密かに貫くのは大変な意志力だ。それは律法よりも強靭な優しさであり、恋の極みであり、慈しみの極みである。ヨゼフを漢の鑑といっても良い。
ヨゼフは、ごく普通の人であったろう。何も奇跡を起こさず、その臨終の様も忌日さえも伝えられなかったが、恐らく福音書中、最も偉大な一人であろう。ヨゼフの無私の決断なくして、マリアのその後の人生は無く、イエスの生誕も無かったからだ。そして、ヨゼフは終生、自らの偉大さを全く意識しなかっただろう。彼が聖人に列せられたのは、ずいぶん遅かったらしい。労働者の守護聖人であって、シンボルは大工道具と、そして百合の花である。

掲句の上五中七は、市井の慎ましい労働者であったヨゼフの生涯を示している。下五「百合の花」は聖性を示している。そして、上五中七と下五は、等価である。だから、この句は、ヨゼフに託して、ごく普通の市井人に突然花開く聖性を、高らかに讃えているのだ。
「鷹」平成24年9月号。

2015年6月20日土曜日

今日のクロイワ 27 [中島斌雄]  / 黒岩徳将


鐡橋に蟹に五月の雨が降る   中島斌雄

隣に「犬も梅雨瓦礫の中に徑がある」とあり、言うまでもなく掲句も梅雨の句。

初めに大きな景→小さな蟹の横歩き、という演出がニクい。そして、蟹へのそこはかとない親しみも感じる。

第二句集「光炎」から引いた。

甘い措辞が少し俳句的ではないのだろうか、いや、この少し甘すぎる感じが作家性なのでは、と思わせてくれる句集だ。自分と同じくらいの年代の俳人に読ませて感想を聞いてみたい。


2015年6月18日木曜日

今日の小川軽舟 48 / 竹岡一郎




そのあたり夜のごとくに百合白し


百合の神秘性を詠った句。百合以外はあり得ないだろう。百合はそのフォルム勁く、立姿凛然と、濃密な芳香を放つ。何よりもキリスト教世界で、白い百合は、マドンナリリーと呼ばれるように、聖母マリアの花であり、純潔の象徴である。受胎告知の天使ガブリエルは、白い百合を持った天使として描かれる。

「夜のごとく」とあるから、実際には夜ではないのだろう。百合があまりに白いので、百合の周囲は夜のように感じた、という事である。百合は単にその白さのみで、あたりを暗く思わせているだけではない。その純潔さ、その高貴さ、その芳香に比べると、あたり一帯はくすんで見えるのである。だから、この百合は単に植物の百合ではない。聖性を具現化した百合だ。眼ある者は見るが良い。此の世にはあり得ない百合である。

「ジャン二十二世が、最後の審判の前にはどこにも、天国にさえも、曇りのない幸福はありえないと主張するにいたったのも、地上のこの暗さのためではなかったろうか。実際そのとおりである。この地上が暗澹とした混迷にとざされているのをよそに、どこかに今から神の栄光に照らされている顔があって、天使によりかかり、神を観じるつきない喜びに渇きをいやされていることを想像するには、いかに頑固さと片意地とが必要であったろう。」
(リルケ「マルテの手記」望月市恵訳、岩波文庫、223頁)

 これは比喩の句であり、象徴の句なのであるが、この句の優れた技法は、普通なら句の焦点である百合の花を「ごとく」で喩える処を、百合を取り巻く環境が、百合によってどのように変化するかを「ごとく」で喩えたところだろう。また、その喩えも「夜」という茫漠な喩えであり、喩えられる周囲も「そのあたり」という、何ら具体性の無い環境である。

わざわざ抽象の極みのような環境に、更に茫洋たる喩えを用いることによって、掲句の示す世界には、もはや百合以外存在しておらず、その百合も、形容としては、「白し」と誠に素っ気なく、即物的に詠っているのみである。その即物性が、時も場所もわからぬ茫漠たる周囲と相俟って、百合の聖性を強く引き出している。

「鷹」平成24年9月号。

2015年6月15日月曜日

今日の小川軽舟 47 / 竹岡一郎




冷蔵庫闇にひらきて光抱く        

「闇にひらきて」とあるから、深夜、家族が寝静まった後に、喉が渇いたか小腹が空いたかして、開けたのだろう。或いは一人者なのかもしれぬ。日常の些細な事なのに、妙に切実な思いが滲むのは、下五の「抱く」による。作者自ら光に対して働き掛ける動詞を出したことにより、光への想いが出るのだ。

夜中に冷蔵庫を開けて、ぼんやりすると安心する、という人がいる。中にはある程度、食糧が詰まっていた方が良いそうだ。冷蔵庫の温度が上がって、ピーピー音が鳴り出すと、名残惜しく閉めるのだそうで、友人にも何人かいた。私などはドライな人間なので、そんなことは先ずしない。この行為は子宮回帰願望であって必要なのだ、と主張する友もいて、そうであれば中々切ない話である。食べ物が詰まっているのを見て、無意識に安心するのだとも考えられる。それならば本能の変形であって、また悲しい。

季語は作者自身であるとは、作者のかねてからの主張である。掲句は作者と季語が重なって読める例だろう。言葉通りに読めば、冷蔵庫を開いたのは作者である。冷蔵庫の光を抱いたのも作者だ。だが、冷蔵庫が作者の手に応じて、或る意志を以て開いた、と読む事も出来る。今の冷蔵庫はマグネットで閉じているだけなので、内側からも簡単に開く。満杯に物を容れていれば、何もしなくとも勝手に開くことがある。

光を抱くのは、作者であると同時に冷蔵庫でもある。冷蔵庫は完全に閉じてしまえば、中は闇だ。扉を閉じるぎりぎりにして、観察してみると、ふっと光が消えるのが判る。扉をゆっくりと開き始めると、中の物が横から見えるか見えないかの処で、明かりがともる。冷蔵庫は、外界の闇に囲まれて、密閉された闇を抱いているのだが、そこに人間の手が加わって、外界と通じさせた途端に、光が生じる。

食べ物が腐らないための工夫を凝らした箱の内が灯る、これは一時的にせよ安心感を与える。かつて三種の神器と言われただけの事はある。食糧を備蓄できるがゆえに餓えないという安心、そして闇の中でも開けば灯るという安心、やっぱり子宮回帰願望にどこか通ずる安心感なのだろうか。

「鷹」平成26年10月号。

2015年6月14日日曜日

今日のクロイワ 26 [岡田一実]  / 黒岩徳将



虹立ちて虹の消えざる来世は嫌   岡田一実

句の方向性としては希望を疑わず、現在の世界の輝きを望んでいるのだが、虹が立っているときに消える想像をしてしまうというネガティブさに共感を覚える。下五の「来世は嫌」を軽く流すか、重く受け止めるか、その二つで読みが変わってくる。誰かの落とすぽつりとした呟きにその人の本質的な何かが潜んでいるのかもしれない。 「境界-border-」より。

2015年6月11日木曜日

今日のクロイワ 25 [若杉朋哉]  / 黒岩徳将


毎日の柿の紅葉の懐かしき  若杉朋哉

毎日なのに懐かしいとはこれ如何に、と幼い頃なら思ったかもしれない。
柿の紅葉のなんとも言えない赤さを、いつもの道で思う.先日、電話で友人にこの句を紹介したら、彼は「いいですね!」と何度も繰り返した。その魅力を、人と確かめ合いたくなる句だ。「朋哉句集」より。1ページに1句が基本、というのがこの句集の好きなところだ。

2015年6月10日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 14[前田普羅]/ 依光陽子




空蟬のふんばつて居て壊はれけり   前田普羅


蟬の存在自体儚いのに、その上どうしてウツセミなんて哀しい響の名前をつけたのだろう。

そんな空蟬そのものは意外にしぶとく、羽化するために出た地上で、ここと決めた枝や茎や葉にしがみついた姿のままいくつも季節を送る。分身である蟬が鳴いている間も、それが命尽きて乾び、地上に落ちた翅や銅が吹かれどこかへ紛れてしまったその後も、割れた背中から雨が入ったり、風に吹かれたり、埃まみれになって双眼を濁らせたり、日の光に輝いたり、霜を纏ったりしながらそこに在る。

ふんばって居て壊れたのは空蟬だろうか。散文であればそう捉えるのが普通だろう。だがそもそも踏ん張ったのは蟬の幼虫であって空蟬ではないし、命のないものが自らの動作によって壊れるはずもない。ここには俳句独特の切れという仕掛がある。「空蟬の」の後の軽い切れの後の虚。空蟬の、その踏ん張って見える容に己の気持、あるいは誰かを重ねたのだ。空っぽになって、それでも踏ん張っていたのに壊れてしまった何か、あるいは誰か。

そして、目の前の空蟬が壊れる。ガラガラと、パラパラと落ちる欠片を、不思議と冷静に見ている自分。音のない音をたてて落ちた、透明な、琥珀色のカケラ。


「わが俳句は、俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず」と云へる大正元年頃の考へは、今日なほ心の大部分を占むる考へなり、こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず。 
(『新訂 普羅句集』小伝 より)


第二句集となる『新訂 普羅句集』の小伝で、俳句を手段に過ぎないと述べている前田普羅は、この時すでに職を辞め、東京を離れて北陸に移り、俳句一筋の人生に入っていた。普羅の一徹な生き方に相反して、また『新訂 普羅句集』の集中に於いても、フラジャイルな掲句は異色だ。しかし今読み返してみたとき他のどの句でもなくこの句に立ち止まってしまうのは、今を生きる私たちの多くが、心の奥底にこの空蟬のカケラを拾うことができるからではないか。


春更けて諸鳥啼くや雲の上 
花を見し面を闇に打たせけり 
人殺ろす我かも知らず飛ぶ螢 
新涼や豆腐驚く唐辛 
秋出水乾かんとして花赤し 
しかじかと日を吸ふ柿の静かな 
病む人の足袋白々とはきにけり 
立山のかぶさる町や水を打つ 
湖に夏草を刈り落しけり 
探梅の人が覗きて井は古りぬ

(『新訂 普羅句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年6月8日月曜日

今日の小川軽舟 46 / 竹岡一郎



線切れし黒電話より黴の声    「呼鈴」 


80年代までは、家庭の電話は普通、黒電話だった。私が学生の頃、東京の部屋で黒電話を使っていた。当時の黒電話は、もう一昔前の聳えるようなフォルムではなく、もっと丸っこい形だった。調べてみると、その数は激減したものの、今でも黒電話は使われているらしい。

掲句の黒電話が何処にあるかは記されていない。どこかの古いアパートの空き部屋に座っているのかもしれぬし、戸外に置き捨てられて廃品回収を待っているのかもしれぬ。或いは、掲句が、句集の平成二十三年の部に収められていることを考えるなら、東北の津波の後の惨たらしい景の中に転がっているのかもしれぬと思う。

掲句は黒電話の置かれている景には一切触れず、ただ、線が切れていて、もう使えない黒電話だけを描写している。だから、ここでは、黒電話はいずれの時代とも場所ともわからない虚無の景の中に打ち捨てられているに等しい。

黒電話にはうっすらと黴が生えている。または、目には認められぬが、実際に手に持ってみたら黴臭かったのかも知れぬ。そこにレトロな忘れられた雰囲気を味わうのも、一つの鑑賞だろう。この場合、「声」は、雰囲気、或いは書画を評する時に用いる「におい」を表わしていると取れる。

また、実際に黴のささやく声を聴いたというのも、一つの鑑賞である。黴は生きていて繁殖するのだから、全くの無音ということはない。人間の耳には聞こえないレベルの音というだけだ。その黴の声を、時代に置き捨てられた懐かしさと見るも良し、だが、時代に忘れられた怨みと見る事も有りだ。
黴は一見無害に見えるが、或る種の黒黴は、その胞子が人体に有害であって、例えば、部屋の壁の裏などにびっしりと繁殖した黒黴は、絶えずまき散らすその胞子によって、住人の肺を侵し、死に至らしめる事も有るという。掲句の電話の黒色に、黒黴に託した怨みの有害さを思う事も可能だ。

更に、下五の「声」に注目するなら、電話とは人の声を中継し、会話を取り持つための器械である。何千、何万遍と手に取られ、語りかけらけ、耳を傾けられた黒電話は、膨大な量の声を中継してきたわけで、それは人の膨大な思念を堆積して来たに等しい。

付喪神というのは、九十九年永らえた器物が物の怪と化すのだが、そこまで時を経なくとも置き捨てられた器物は化けるという。電話が化けるとすれば、長年堆積して来た人間の念がその核となる筈で、化けた電話が自らを表現する手段は、ベルを鳴り響かせるか、或いは受話器から慎ましく声を垂らすかであろう。掲句の電話は更に慎ましく、自らの身に繁殖する黴に、己が声を託している。
「黴の声」とは、実際に繁殖する黴の存在表明であり、打ち捨てられている電話という器物の存在表明でもあり、かつてその電話を介した人間の声と思念の存在表明でもある。そうなると、黒電話の色は、繁殖したい黴の思いであったり、化ける他ない器物の思いであったり、人間の過去の声や思念だったりする。そういう堆積の渾沌を、黒という色に観ても良い。

昔流行った電話の怪談といえば、引っ越してきたアパートの一室に黒電話が捨てられていて、線が切れている筈なのに、夜中に鳴ったりする。よせばよいのに、電話に出てしまったりして、受話器から女の恨み言が聞こえたりする。そこから色々バリエーションがあって、早々に部屋を引き払うが、引っ越した先にまた黒電話が転がっている、或いは新居の新しい電話からしつこく幽霊の声がする、自分は引っ越さずに電話を向かいの電柱の下に捨てるが、近所迷惑にも夜中に路上で鳴り響く、あるいは仕事から戻ると、捨てた電話が勝手に部屋に上がり込んでいる、と、まあ、様々な工夫が凝らされるわけだが、この怪談の芯は、置き捨てられ顧みられることの無い思念の、相手構わず縋りたいほどの孤独である。掲句の場合も、その芯となるのは、廃品と化した黒電話の孤独である。その孤独のか細さを、作者は「黴の声」と聴き取る事により、掬い上げたのであろう。

平成二十三年作。

2015年6月4日木曜日

今日の小川軽舟 45 / 竹岡一郎



冷奴庶民感情すぐ妬む

居酒屋の景であろうか。冷奴を肴に飲んでいたりするのである。それで芸能人や金持ちの話題になったりすると、直ぐ妬みが始まる。

華やかなスポットライトや豪奢な暮らしは妬まれるものだ。或いは、妬みの対象は、自分を差し置いて出世した同僚であろうか。

大体において妬みがみっともないのは、物欲しげであるからだ。嵩ずると、餓鬼の如くとなる。幾らでも欲しがるからである。金が欲しい、名誉が欲しい、地位が欲しいとなると、人間、切りがなくなる。で、得られぬ事が明らかになると、妬む。

これが芸能人や金持ちに対する嫉妬なら、酒席における鬱憤晴らしで済む。社会が悪いとなると、やがて煽る者達が現れる。国家の栄光でも良いし、人民の権利でも良いが、色々くっつける大義名分には事欠かない。どんな理由でも煽れるのである。

ここで掲句が、「庶民感情」と言い、「庶民」とは言っていない事に注目するのが肝要である。庶民には一人一人の顔がある。庶民感情には顔が無いし、実体も無い。一つの場の雰囲気であって、無責任な念の流れである。一億総火の玉、とか、造反有理、などのスローガンは、この庶民感情を非常にうまく利用して、贋物の義にまで捏ね上げたものである。

完璧に正しい義なんてものはかつて存在した例がないが、義というものは常に存在する。それが義であるかどうかの判断は、それが自らの正当性や利益のために利用されるものでしかないか、それを奉ずるために殉ずることが出来るか、であろう。

「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」とは、西郷隆盛が山岡鉄舟を評した言葉。妬む者は、先ず命が惜しい、次に金が惜しい、それから地位や名誉が惜しい。要するに、痩我慢しないのである。瘦我慢する者を、もののふ、という。

もののふとは、強制できる性質のものではない。理屈ではなく、一念に属するものである。虚仮の一念といっても良いかもしれぬが、その一念は命の惜しい者には砕けない。一種の天性であって、善悪とは関係ない。無論、右翼左翼とも関係ないし、社会性とも関係ない。もっと言えば、生物の本能とも此の世とも関係ない。だから、もののふに成りたくない者は、別に成らなくて良いのである。
掲句は冷奴が利いている。冷奴は、「庶民感情」という甚だ捉えどころのない、厄介な妬み易さに対峙しつつ、親身に寄り添い、諫めている。これが肉の類なら妬みを煽るだろう。魚でも、その生臭さで以て、妬みに加担するかもしれぬ。野菜なら、ただ寄り添っているだけであり、果実ならその芳香によって妬みには無関心であろう。

冷奴は畑の肉と呼ばれる大豆から作られる、要は只の豆腐だ。主要成分は蛋白質で、筋肉の素となる。コレステロール低く、安価にして美味。形簡素にして色つややかに白く潔し。人にたとえるなら、質実剛健であろう。つまりは、もののふである。正確に言うなら、もののふの血腥さを切り捨て、私心無き高潔さだけを強調したような食べ物と言えようか。

また、豆腐とは、精進料理に使われるように、肉食の出来ない僧の為の主要な蛋白質でもあった。「碧巌録」五則の「英霊底の漢」という言葉を思い起こす。僧の理想が英霊底の漢であるなら、僧とは、非武装の「もののふ」か。

「英霊底の漢」の特色として、以下のように続く。「所以に照用同時、卷舒齊しく唱え。理事不二、権實並び行ふ」(ゆえにしょうようどうじ、けんじょひとしくとなえ。りじふじ、ごんじつならびおこなう)非常に簡単に意訳すれば、次のようになろうか。「相手の性質とその場の心の出方を照らし出すように明らかに観、その出方に応じた言動が即座に取れる。肯定否定の二元論を超えて事の流れを観ることが出来るゆえに、否定と肯定の二元論を自在に使いこなせる。物事の本質と外部に表われる事象を一つの流れとして認識することが出来る。権(かり)の、方便の教え、即ち、日常の出来事に対処する教えと、真実の教え、即ち、生死を超えた真理に迫る教えを、並行して説くことが出来る」これを、噂話や煽動による庶民感情の流れに抗する、自制の心構えとして学んでも良いのである。

冷奴は妬む者に黙して寄り添い、食われることによって、妬みを暗に諫めている。冷えた豆腐であることにより、冷静な判断の象徴を想わせる。掲句の冷奴は、庶民感情に流される者の筋肉となり、更には魂の筋肉になろうとしている。その一人の庶民が、地道な暮らしの中で、その誠実さこそが義であると感じ、日々の平穏さを自らが殉じてでも守るべきと感ずるようになれば、もはやその庶民は「もののふ」であるといえよう。血腥くない、冷奴の如く淡々とした、もののふである。

鷹平成26年8月号。

2015年6月1日月曜日

今日の小川軽舟 44 / 竹岡一郎



生国を沖に捨て来し海月かな



クラゲは目が無いから暗いという意で「暗(くら)げ」とする説がある。実際には傘の周りに感覚器官があり、明暗や方向くらいは判別できるらしい。海の月と書くのは、海中にいる時、月のようだからという。一方、水の母と書くのは、クラゲは目が無いから小蝦を目として用い、蝦はクラゲに従うゆえに、蝦を子に、クラゲを母に見立てての事だという。或いは、クラゲは死ぬと水に還るからだともいう。

生国を捨てて漂っているクラゲは、できれば海の月のように仄かに光っていて欲しい、という思いから、作者は「海月」と表記したのであろう。季語を作者自身と解するなら、流離の孤独が、波に霞みつつ映る月の如く光っているのである。

クラゲは受精卵が海中を漂い、それがやがてプラヌラという幼生となり、さらに海底に付着して、イソギンチャク状のポリプとなる。そのポリプが幾つもの節を持つストロビラという形態になり、節が幾つもの傘を積み重ねたような形になると、その傘が一枚一枚分離して、俗にいうクラゲの形となる。それならクラゲの生国は、一般には海底ということになる。

掲句では沖とあるから、沖の海底となると、これは日本で言えば、根の国、黄泉であろう。スサノオノミコトが総べるのは根の国であるが、スサノオは海神でもあることから、沖にも黄泉を設定するのは古代の神話観の一つである。

(ここで興味深いのは、クラゲの寿命は数か月から長くとも半年であるが、クラゲの元となるポリプは環境が適切な限り、不死に近いという事である。即ち、海底の根の国におけるクラゲのいわば「根」は不死なのだ。)

熊野を隠国(こもりく)、死の国と呼ぶならば、紀伊半島南部から広がる海は浄土へ赴く海路であろう。補陀落渡海も思い出される。

そうなると、掲句に相応しい舞台は熊野から見はるかす太平洋であろうし、掲句の源を作者の師系に探るなら、藤田湘子の「水母より西へ行かむと思ひしのみ」である。西は西方浄土であり、湘子が胸中に試みるのは補陀落渡海であろう。

掲句のクラゲは沖という根の国の生れであって、沖を捨てて月のように漂いつつ、恐らく陸、生者の国を目指すのである。体の成分のほとんどが水であるクラゲの形態は、例えるなら、まだ魂である状態であろうか。となると、掲句は転生の一場面を詠ったものと解する事も出来る。

鷹平成26年9月号。


2015年5月28日木曜日

今日の小川軽舟 43 / 竹岡一郎




咲(わら)ふごとく木耳生えし老木かな



「咲(わら)ふ」を、蕾のひらく様、果実の熟して裂ける様などに使うのは、やはり花や果実を見た時の豊饒の喜びが背後にあるのではないかと思われるが、掲句では木耳に使ったもの。木耳は乾燥している時は硬く灰色や茶褐色だが、雨などに濡れるとほの赤いゼリー状になる。木の耳とは良く言ったものだ。内臓とか腫瘍が木からはみ出しているように生々しく見える時もある。それを「咲(わら)ふ」と表現したなら、笑うとは感情の露呈の一種であるから、木の、隠されていた情念が、何かの拍子に、木肌を突き破って現れたようにも思えてくる。木耳は自然界では倒木や枯れ枝に良く生えるという。栽培する時にも、原木は伐ってから、半年は寝かせて乾燥させるという。木耳が、木の死に体の部分に生えやすいのであるなら、掲句の老いた木はもう寿命が尽きかけているのか。
「生える」ではなく、「生えし」とあるから、木耳は生え切っている。どのくらいの量生えているかはわからぬが、兎も角老木の、木耳を生やせる許容量一杯に生えきっているのである。木の最期の日々に、咲くごとく、笑うごとく生えた木耳であれば、それを老木の思いの丈と解しても良い。老木に人を託して観るなら、木耳は人生の最後に燃焼する生々しい情熱を表わすであろう。判りやすく言えば、恋である。仕事に対するものか、人に対するものか、財産に対するものかは知らぬ。かなしいかな、木耳はどこまでも木耳であって、木ではない。あくまでも木の表面に生える物であり、木の本質ではない。人生における恋もまた然りか。鷹平成26年9月号。


2015年5月27日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 13[清原枴童]/ 依光陽子



ココア啜る夕顔の前の博士かな  清原枴童

夕顔の花は二つに分けられる。一つはウリ科ユウガオ属で実を干瓢とする正真正銘の夕顔の花。もう一つは朝顔と同じヒルガオ科サツマイモ属で正式にはヨルガオ。こちらは明治時代の初め頃に渡来し観賞用として栽培された。なぜかヨルガオではなく白花夕顔などという名称で売られている。今、夕顔の花と言えばこちらを想像する人の方が多いだろう。

前者は瓜の花らしく花弁がくしゃっと皺になっている。後者の花弁は皺なくつるんとしていて莟の時の襞が花にくっきりと残る。どちらも夕刻から緩みはじめ夜に咲く。いずれにしてもその白さは昼間に見るどんな花の白さよりも白い。


さて掲句はどちらの夕顔だろう。いずれにしても行燈仕立てで花を楽しむことができるようになっていると想像する。そういえば白洲正子にこんな随筆があった。夕顔に魅せられた白洲がその花の開く瞬間を見ようと一つの莟を何時間も見続けていたが、結局その莟は開かずに落ちてしまったというもの。掲句の人物もやはり夕顔の花を観ているのだろう。こちらはココアを啜りながら。さらに枴童は、この人物は「博士」だと言い添えている。「ココア啜る」というのんびりした雰囲気から、植物博士が花を観察しているのではなく、何か学術書でも読んでいてちょっと一服といった景だろうか。白洲正子といい『源氏物語』といい、夕顔の花からは女性を想像しがちだが、掲句からは男性の姿が見える。しかも夕顔の花に対しているあたり、なかなか渋い風体。きっと先の撥ねた口髭がある初老の男性で、実の容からうりざね顔だ。そんな風に想像してしまうのも面白い。


清原枴童は高濱虚子の『進むべき俳句の道』にも採り上げられている作者である。虚子は枴童の句<土砂降の夜の梁の燕かな><花深き戸に状受の静か哉><別れ路の水べを寒きとひこたへ><大炉燃えて山中の家城の如し>などの句を挙げ、「技巧の上に格段の長所が認められるばかりでなく、まだ小さく固まってしまわずに如何なる方面にも手足を延ばすことが出来るような自由さを持っている」と評している。

掲句の収められた清原枴童の第一句集『枴童句集』からは「格段の長所」というほどの技巧は感じ取れなかった。むしろ静かな佳句が並んでいると感じた。だが繰り返し読んでいると、人物を描いた句、或いは擬人化を取り入れたような句からじわじわと独特の味が出て来る。手堅い風景描写句だけにとどまらない温かみのある人物描写句の多さ。これが清原枴童のひろやかさだと気付いた。

土砂降の夜の梁の燕かな 
むつかれば梅に抱きゆきてほうらほうら 
夕立の脚車前草をはなれけり 
茄子買うてまた縫ものや祭前 
月ありと見ゆる雲あり湖の上 
燈籠の灯かげの雨のもつれけり 
芋虫のぶつくさと地にころげたる 
兄に怒る鎌や芒を刈り倒し 
夕風の野菊に見えて道遠し 
眉画くや湯ざめここちのほのかにも 
枯菊にあたり来し日をなつかしむ

(『枴童句集』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年5月26日火曜日

1スクロールの詩歌  [波多野爽波 ] / 青山茂根 


  赤と青闘つてゐる夕焼かな    波多野爽波

 いわゆる童心にかえったような、ふと夕空を見上げたときに思い出してほほえんでしまう印象と、「闘う」という言葉に含まれた生存の厳しさを感じる句だが、なかなかどうして、描かれている内容から言葉をさかのぼっていく楽しさに満ちている。

これを、
  夜と昼闘つてゐる夕焼かな
と表現してしまうと、一見新しそうだが、観念的でもあり、意味内容を歪曲されやすく、句の世界は限定されて狭くなってしまう。他には何も語らずに色彩のみに託した空間の広がり、色にまつわる歴史的な背景などを含んだ原句に比べると、俳句としての大きさに欠ける句になることがわかるだろうか。ポエムっぽいという指摘もあるかもしれない。また、俳句表現としては、「夕焼」という季語に「夜と昼」の「闘っている」時間という概念がすでに含まれているので、当たり前な句、といえる(当たり前の事実をわざわざ描く、という俳句の手法もあるが、その場合は観念的表現にはしない)。

 「赤と青」とは、ゾロアスター教における「聖なる色」だという。「西域の民族は、天を青、地を赤で表現した。蒼穹と砂漠の色彩である。人間は天地の間にあって、その生命を永久に伝える存在である。」過酷な日中と砂漠の夜の静寂、そうした地へも夕空はつながっていることに思いを馳せる。
 また、「赤と青」は、フランス革命軍が帽章につけた色でもあり、フランス国旗はそれにブルボン王朝の象徴である白百合の色を足したもの、という説もある。「赤と青」は、一日の労働の後に夕空を見上げる市民の感慨を象徴した色でもあるだろう。

 『ひとつぶの宇宙 俳句と西洋芸術』(毬矢まりえ著 本阿弥書店 2015)では、この句にプルーストの自然描写と通い合うものがあると書かれている。文中から引くと、(プルーストは)

 例えば、夕暮れの空の色合いを登場人物に描写させて、次のように書いている。

(中略)「青といっても、大気の青よりは、とくに花の青に近い青、サイネリアの花の青ですが、おどろきますね、こんな色が空にあるとは。それに、あのばら色の小さな雲、あれもまたカーネーションとかあじさいとかいった花の色あいをもっていませんかね?(中略)夕方、しばらくのあいだ、青とばら色の天上の花束がほころびます。それはたとえようもないほどで、色があせるのにしばしば数時間もかかるのです。また他の花束は、すぐに花弁を散らせます。そしてそのとき、硫黄色やばら色の無数の花弁が四散する空の全体を仰ぐのも、また一段と美しいものです。」
(『ひとつぶの宇宙 俳句と西洋芸術』毬矢まりえ著 より)

 という文章を目にしたあとで、この句を夕空に思い浮かべると、また新たな広がりが感じられて、一日という時間の終わりが馥郁とした豊饒なものに変わっていく。様々な些末な日常茶飯事から開放された、自分ひとりの心の中のことではあるが。言葉の、俳句という魔法ならでは。

先の『ひとつぶの宇宙』にあげられている、色彩を含んだ句をいくつか。


アスパラガスほのむらさきと堀りあげし  小池文子
外套の裏は緋なりき明治の雪       山口青邨
手袋の黒と黒衣とただ黒き        山口誓子
しろたへの鞠のごとくに竈猫       飯田蛇笏
水に入るごとくに蚊帳をくぐりけり    三好達治

2015年5月25日月曜日

今日の関悦史 3 /竹岡一郎




兵の妻らの髪束凍る社かな


土浦の日先(ひのさき)神社社殿には、千羽鶴とともに獣の尾の如きが幾つも垂れ」なる前書がある。この前書が凄まじいが、前書だけでは「獣の尾」が何を指すか分らない。句を読んで初めて、長い髪の束である事が判る。掲句は、句と同じほどの重さを持つ前書と影響し合って、情景の悲痛を抉っているのである。

大戦時、銃後の女性が夫の戦勝、生還を祈って、当時なら己が魂ともいえる髪を奉納したのであろう。髪の束は、少なくとも七十年は経っているか。掲句では、「兵の妻らの」とあるが、妻らだけではなく、母の、或いは姉妹の髪も混ざって垂れているかもしれぬ。それらの髪の主は、未だ存命の者も、とうに鬼籍に入った者もあろう。戦勝を祈願された兵らは、無事生還した者も、白木の箱にて無言の凱旋を遂げた者もあろう。

奉納された髪の主と再会できた兵は、果たして幾人いたであろうか。生き残った者には、戦後の様々な運命があっただろうが、それらの運命から切り離されて、髪の束は社殿に凍てている。
永い時を経て、獣の尾の如く変化した髪束は、あるいは吊られたまま、付喪神の如く、毎夜のたうっているかもしれぬ。戦地へと赴いた兵らの思いも渾然と融けている筈だ。

土浦の日先神社を調べると、近代以降、武運長久の神として信仰を集めたようだ。社に伝わる由来は、要約すれば次の如し。天喜5年(1057年)12月、源頼義、義家父子が奥州征伐の為、軍勢を引き連れて当地に到着。その夜、霊夢あり。義家の枕頭に神現われて「我汝を待つこと久し、今汝に力を添えん、必ず賊を平らげ名を天下に輝かさん」。源父子は、その地に賊徒平定の大祈願祭を厳修し、征奥を果たした。

土浦の日先神社が、平安期、東北地方を征服する契機の一つとなった土地に建つ社であれば、その社に奉納された髪束には、千年の戦の業と、戦に翻弄された女らの千年の悲嘆もまた溶け込むであろうか。

髪というものは非常に強靭で、角度によっては刃物さえも弾くという。そして、地中にあってさえ、なかなか腐らない。土葬の遺体の頭蓋骨に髪が長く残っている例は良くある。また、寺に奉納する釣鐘を引く綱に、髪を編み込む例もある。綱を強靭にする意図もあろうが、それよりも信心の念が籠るのである。

平安期、それから千年を経て昭和の大戦と、戦の因縁がまつわる社に奉げられた髪、戦において常に犠牲となる女たちの髪束が、「獣の尾の如き」であると関悦史が感じたなら、いつか獣は、尾の如き髪束より生ずるやもしれぬ。女らの、夫を、或いは子を、兄弟を奪われた悲嘆は、いつの日か幾つもの髪束の寄り集まりて多尾の霊獣を生ずるが如く、いや、願わくば霊獣と化して、戦争を喰らい尽くさんことを。

「遷移」(詩客2013年3月1日号)より。

2015年5月19日火曜日

今日の小川軽舟 42 / 竹岡一郎



魚僧と化(け)し毒流し諭しけり  


民話を詠ったもの。「坊さんにばけたいわな」という題で、松谷みよ子の「日本の伝説」第4巻(講談社、昭和45年)に収録されている。私は子供の頃、全5巻のこの本ばかり読んでいたから、よく覚えている。丸木位里・丸木俊の暗い彩りの挿絵がなんとも切なく怖ろしく、その美しい恐ろしさに幾度慰められたか分らない。

南会津、水無川の上流に五人の樵がいた。根流しをしようということになり、準備を始める。山椒の木の皮を剝ぎ、焼灰と一緒に鍋で煮る。魚にとっては猛毒で、淵に流すと、皆浮いてくる。毒の煮えたぎる鍋を囲んで、男たちが飯にしようと黍団子を出していると、一人の坊さんが現れる。青く光る眼で、男たちを見据え、根流しは小魚まで根絶やしになるから止めろ、と言う。男たちは坊さんの話を受け入れ、黍団子を差し出す。坊さんは仰向いて、ただ一口に呑み込むのだが、その呑み方が、どうもおかしい。人の常の食い方ではない。坊さんは男たちが聞き分けてくれたことを喜んで去るのだが、男たちは結局、根流しをする。浮いて来る魚を手づかみで取れるだけ取ると、欲の出た男たちは、さらに上流で根流しをする。底無しのような淵に流すと、やはり面白いように魚たちは浮き始め、とうとう大人の背丈ほどもある大きな岩魚が浮き上がる。男たちは喜び勇んで、大岩魚を引き揚げ、さて、その白い腹を裂くと中から黍団子が転がり出る。大岩魚の目が青白く光って男たちを睨み、それがさっきの坊さんの目だと気付いた時には、一人、また一人、気が狂ったようになって息絶える。

同じ話は、「日本の民話 3 福島篇 第一集、第二集」(未来社、昭和49年)にも、「いわなの怪」として収録されている。こちらはもう少し詳しく、会津田島駅から東南の水無川沿い、山あいの角木(すまき)なる村落の話と。男たちの生業は記されておらず、ただ「男たち」とのみ。また、毒流しの材料は、山椒の木皮、樒の実、蓼などをつぶしたもの。僧が食べるのは、黒い黍団子と栗飯。大岩魚は村に持って帰ってから腹を裂いたとあり、死んだのは親分格の顎髭の男。残りの者は気が狂い、その村では長く岩魚を獲らなくなったという。
この民話が福島に伝わることを、作者が意識して作ったとすれば、毒流しは原発事故の暗喩であろうか。

句のリズムは畳み掛けるような、妙な緊迫感がある。次々に三度発せられる「し」が、句の速度を高めているが、「し」を「死」と読むならば、先ず魚たちの死、次にヌシである大岩魚の死、最後に男たちの死だ。「けり」が良く利いているのは、物語の結末を暗示しているからだろうか。「化し」に「け」とルビを振ったのは、変化(へんげ)、化生(けしょう)の意を強調するためもあろうが、下五を〆る「けり」と韻を踏ませるためもある。

大岩魚が坊さんに化けるのは、因果応報をその姿で説いているのだ。民話では山椒の毒流しであったから、当事者たちの死亡だけで済んでいる。

この民話から数百年経って、中川信夫の映画「地獄」(1960年、新東宝)では、こんなやり取りが出てくる。どんな毒を使ったか知らないが、川に毒を流して捕った魚を売りつける男と、養老院「天上園」の院長、そして養老院付きの医者の会話だ。

医者「大丈夫だろうな」 
男「先生、とにかく安いんですから。兎も角、腐っちゃいませんよ」 
医者「集団中毒事件があったら困るからな」 
院長「死んだって知ったこっちゃねえ。どうせあの年寄りたちに食わすんだ。俺たちが食うわけじゃねえんだ」 
男「旦那ぁ。太っ腹ですよぅ」 
(一同、笑い)
その結果、養老院の老人全員、悶死する。

中川信夫の映画から更に五十年経って、原発事故である。ヌシである大岩魚は、いまや誰に向かって仏道を説けば良いのだろう。



「鷹」平成26年9月号。

2015年5月18日月曜日

1スクロールの詩歌  [吉井勇 ] / 青山茂根 



棄てらるる身とも思はず夏羽織    吉井勇

 どちらかといえば文人俳句、とカテゴライズされる吉井勇の句は、単純な描写や取り合わせの手法と見えながら、戯曲的な趣向が垣間見えて何か惹かれるものが多い。今日の句も、人事句によくある心情や箴言との季語の取り合わせの句のひとつ、と一読思ってしまいがちだが、「棄てらるる」の語は、訪問先でさっと脱ぎ捨てられる「羽織」からそれを着た女性の姿をひきだす。恋しい人に逢いに、下ろしたての羽織で出かけていく女性の美しさや心弾むような足取りが、恋が終わればその後に棄てられてしまうだろう相手との関係性を暗示して。「夏羽織」の、薄物の透ける美しさがウスバカゲロウやクサカゲロウをも連想させ、また、夏羽織という、寒暖に絶対必要ではなくお洒落のためにある衣服が、対等な付き合いではない男女関係をもほのめかしている。吉井勇の短歌のニュアンスをほんのりとまとって、哀しい美しさのある句だ。

 十一、二歳から短歌に親しんだ勇は、東京府立第一中学校(同級生に谷崎潤一郎がいた)を経て私立中学に入り、仲間を得て俳句も作るようになったという。十六歳の時の作品、

色褪せし口にまゐらす葡萄かな     (『吉井勇研究』木俣修 番町書房 1978)

も、みずみずしい葡萄と色あせた唇の対比、声にしたときの言葉の滑らかさにうならされる。すでに創作としての世界をもっているようで、深く自省しつつ現代のこの年頃の俳句との相違を感じてしまう。京の街を訪れれば、「かにかくに」の歌碑を一度は見たくなり、冬ならばそのそばの流れに浮く鴛鴦のつがいに反語的にまたその歌人の姿を思う、その残したものが広く知られつつも大衆化に埋没せず今も人々を魅了する不思議。谷崎潤一郎が故人を偲んで、「なつかしい詩人、温雅な旅人、久しく忘れていながら不図想い起こしてその一首か二首を唱えてみたくなる歌人、吉井勇にもそんな味わいがある」と評したというが、以下の句にもそうした世界が広がって、歌に見られるエッセンスが立ち上るのだ。

ゆきずりの恋も浪華の朧かな 
さびしさや汐干の留守の仕立物 
野の果に港ありけりかへる雁 
はからずも焼野に出づと日記かな  
かきわりやおまつりぬけの昨日今日 
球突の球の音遠し釣忍 
極道に生れて河豚のうまさかな 
をしどりやここに年古る池一つ 
華奢(かさ)のはて遊びのはての炬燵かな 
七草や派手な暮しも芝居もの 
かにかくに毛毬に重き袂かな 
片恋の手毬もつかずありにけり 
残雪や悲劇を運ぶ橇の鈴 
若水の酔ざめの水を汲みにけり 
濡髪と云ふ酒の名も秋寒し 
いつとなく更けし獺月夜かな  
 (『吉井勇全集』第八巻 番町書房 s39)

「告別式は十一月三十日建仁寺の僧堂で行なわれた。少し早めにでかけた私は、門を入った所で水谷八重子さんの帰りに会ったが、驚いたことに式場まで数百メートルの両側には喪服の祇園関係の女性がぎっしりと立ち並んでいた。どぎまぎした私は顔を伏せて進んだが」 

   (『吉井勇歌がたみ 京都』 宝文館出版 s41 より臨終にたちあった医師青柳安誠の文)

 (余談ながら「余瓶居に高濱虚子、同年尾、星野立子氏等を迎へたるとき」と前書きのある、「句の父と句の娘ゐて柿の秋」という句もある。)

2015年5月15日金曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 12[山口青邨]/ 依光陽子



どうしても見えぬ雲雀が鳴いてをり  山口青邨


雲雀が鳴いている。離れた場所からもそれとわかる声だ。

どこだろう。空のどこか。鳴き声は続いている。空を仰ぐ。雲の窪み。雲の切れ間。空の穴。もっと高いところ。ずっと高いところ。

一面の空の中の、ただ一点を探すだけ。声はこんなにも澄み切っているのに、どうしても姿が見えない。羽ばたきは止まらないのだろうか。その声はますます強く高らかで、堂々としていてまるで空を支配しているようだ。雲雀より大きい私が声の限りに叫んでも、絶対に雲雀には届かない。けれど私より数十倍も小さな雲雀の声は私を貫き、草をくすぐり、風に乗り、森へ川へ野へ町へ響き渡る。この力強い声の主を見たい。降りて来て姿を見せて欲しい、と思う。

「どうしても見えぬ」は思いつきで書いた言葉ではなかろう。一羽の雲雀に集中し、耳を澄まし、眼を凝らすことで迸り出た言葉だ。抑えきれない心の昂りだ。どうしようもないもどかしさだ。

『雑草園』は山口青邨の第一句集である。昭和22年に<菫濃く雑草園と人はいふ>という句がある。青邨の庭にはいろいろな植物があり、青邨はそれらを愛で自らその庭を「雑草園」と称した。杉並区にあった雑草園は青邨の死後、自宅(三艸書屋)と共に故郷みちのくの岩手県北上市の日本現代詩歌文学館に移築されている。

青邨句の特徴を一言で表すならば融通無碍。根っからの学者肌で好奇心も探求心も強く、本質を摑むまで凝視を止めず、少年のように感動し、その震える心で何にも捉われず自由に詠んだ。時に突拍子もない句も作るので、だんだん玉石混交度が増すのだがその特徴はこの句集ではまだあまり見られない。特に海外詠の先駆者としての秀句は第二句集『雪国』を待つことになる。しかしながら『雑草園』も佳句が多い。久しぶりに手にして、そう改めて感じた。


天近く畑打つ人や奥吉野
維好日牡丹の客の重りぬ
ひもとける金槐集のきららかな
をみなへし又きちかうと折りすすむ
芒振り新宿駅で別れけり
連翹の縄をほどけば八方に
やがてまた木犀の香に遠ざかる
仲秋や花園のものみな高し
枯蔓に残つてゐたる種大事
吸入の妻が口開け阿呆らしや
子供等に夜が来れり遠蛙
河骨を見てゐる顔がうつりけり
はたかれて黴飛んでゆく天気かな
祖母山も傾山も夕立かな
香取より鹿島はさびし木の実落つ
人それぞれ書を読んでゐる良夜かな
本を読む菜の花明り本にあり

(『雑草園』昭和9年刊。『現代俳句大系 第一巻』所収)

2015年5月14日木曜日

今日の小川軽舟 41 / 竹岡一郎



道ばたは道をはげまし立葵        「呼鈴」

                   

言葉の連環に何か違和感があるにせよ、一見、ヒューマニズムの匂いのする句に見える。誰も整備しなくて、だんだん荒れて来た道がある。山道と取るなら、もう人が通らなくなっているのだろう。野の道と取るなら、過疎化が進んでいるのであろう。町の道と取るなら、人心が、或いは行政が荒みつつあるのだろう。立葵が道ばたに生えている。道が道でなくなりつつある、その道の疲労を、道ばたの声を代弁するかのように咲いている立葵が感じているのである。立葵は道ばたという概念の具現化であり、作者の心情の暗喩でもあろう。なぜそのように読めるかというと、中七の終りが「はげます」と切れずに、「はげまし」と、微妙に下五の「立葵」につながるからである。この微妙な繋がりは、上五の「道ばた」が立葵へと変化してゆくような雰囲気を醸し出している。

と、解釈すると、中々良い話だ、と読み手は満足して終わるわけだが、ここで道というものの本質を考えてみよう。

道とは(獣道はここでは除く)、基本的に人がある地点からある地点へと楽に移動する為に作られるものである。人間の利便の為に作られるものであって、自然は別に道を歓迎しているわけではないし、道ばたは道の形成によって、道ばたという位置に追いやられるわけである。即ち、道とは人の営みであり、文明の誇りでもあるわけだが、同時に(大仰な言い方をするなら)、自然破壊の第一歩であり、人間の傲慢さでもあるわけだ。

例えば、殷の時代、中原は森であって象がいたという。今、中原には象などおらず、勿論、象が生息できる森も無かろう。何千年にも渡る絶えざる自然破壊、言い換えるなら、道に道を重ねるという行為が砂漠化を招来したのである。

道に象徴される人間の営みとは、自然にとっては傲慢以外の何ものでもなく、つまり、あらゆる人間は人間である限り、その本質において救い難く傲慢なのである。人間の文明、言語、芸術はその傲慢さの上に培われてきたのであって、そもそも傲慢でなければ、この狭い惑星に他の種を滅ぼしつつ七十億に至るまで繁殖する訳がない。

人間の傲慢さをどこまでも探ってゆくならば、例えば、仏教に謂う「三世の毒」である「貪、瞋、痴」の、痴にその根拠を求めることが出来るだろう。痴は漢訳であって、本来は「暗黒」の意を示すモーハである。モーハとは、生物が他を殺してでも生き残ろうとするような、盲目的な衝動を指すという。従って、傲慢さについて思いを馳せるなら、外界の様々な事象を観察し批判するよりも、先ず自らの内なる暗黒、モーハを観照すべく努めるべきであるか。それは取りも直さず、世界を自らの裡のものとして観照する事へとつながると言えば、幾ばくかの希望はあろうか。

更に、傲慢さというものが防衛本能に由来すると観察すれば、個々の人間の傲慢さの度合いについても考察できるであろう。人の傲慢さとは、その者の無意識に沈殿する恐怖の度合いに比例する。傲慢な者ほど、実は、或る大いなるものに糾弾される恐怖を抱いている。(聖性に満たされているわけでもない世俗の)人が、自らを「道」であり正義であると、傲慢にも称する真の理由は、その者が、人間にはどうにもならぬ大いなる何かに、遂に裁かれるであろう予感を、恐怖として感じているからである。その恐怖を打ち消すために傲慢にならざるを得ない、という切実にして憐れな内面を見る必要はあろう。

さて、掲句において、道という人間の傲慢さによって、道ばたという位置に追いやられた或る面積は、道を励ましている。立葵という道ばたの声は、道を励まし、ならばなぜ、励ますのだろう。

人間以外のあらゆる事物は、永遠の中でやがて衰え滅びゆくという運命を「盲目的に」受け入れ、掲句の場合は、道ばたは「道ばた」という位置に追いやられる運命を、「盲目的に」受け入れるからだろうか。

道が道という運命を全うし、道が道であり続ける意志を「盲目的に」使い切れば、後は(中原が遂に砂漠化するように)、道は簡単に滅び、「道ばた」は悠久の時を掛けて、道でも道ばたでも無いものに戻るからだろうか。

では、道ばたは早々に諦めているのか、或いは長い時を掛けて道が滅び、道ばたという位置から解放されることを期して雌伏しているのか。

なぜこんなにも、この句の解釈に手間取るかというと、冒頭に述べた如く、言葉の連環に違和感を感じるからだ。その捩れに、作者の醒めた眼差しが、巧妙に隠されているように思うからだ。
仮に、こうしてみたら、どうだろう。

道ばたを道は励まし立葵

こう変えた時の、なんとも言えない鼻白む感じは直ぐ分ると思う。「道」という人間の傲慢さが、「道ばた」という侵略され残された自然を励ますという構図の厭らしさ。高度成長期という、いけいけどんどんの時代、例えば光化学スモッグというものが登場し出した時代が孕んでいた無神経さとも通じるものがある。

そして、作者は、「道に励まされる道ばた」と認識したい人間の厭らしさ、人間が自然に対するときの「上から目線」の傲慢さを、(仮に意識下においてであれ)意識しているからこそ、敢えて道ばたに道を励まさせたのではないか。

それは「道」と「道ばた」の立場の逆転である。侵略されるものが侵略するものを励ますという、大いなる皮肉、惑星視点から見た時の人間に対する眼差し、といえば穿ち過ぎだろうか。

そうなると掲句において、最重要の位置にあるのは「立葵」である。立葵は道ばたに生え、道ばたの声を代弁するものであり、同時に季語であるから人間である作者の思いを代弁するものでもある。

立葵は、道ばたと道の、自然と人間とのあいだに有って、或る中立的な姿勢をもって立っている。それをシニカルな立場と言っても良かろうが、見方を変えれば、為す術もなく立ち尽くす姿勢であるともいえよう。ならば、立葵はせめて咲いていなければならぬ。

平成19年作。