2016年2月29日月曜日

またたくきざはし 10 [関悦史] 竹岡一郎



人類に空爆のある雑煮かな   関悦史

金、暴力、この二つは古来から「この世の君」即ち悪魔の王国を支える双柱であると、若い頃は思っていた。しかし、つまるところは一本である。本来、金が悪いわけではない。それが暴力という色彩を帯びるとき、人間を容赦なく卑しめる。歴史を繙けば明らかではないか。そして、古代から今に至るまでの政治を見ても明らかではないか。

先の大戦以来、この地上に一日たりとて戦争のない日は無かった。空爆が無かった日は多少あったかもしれないが、地上戦が無かったときはない。絶えずどこかで紛争という名の戦争は起こっている。そして、戦争こそは最大の暴力であり、空爆こそは戦争が続いていることが誰の目にも明らかな証である。勿論、天から俯瞰する時、なお一層明らかであろう。

そして、「雑煮」という、誰の目にもめでたい、しかし極めて庶民的な正月の料理を「空爆」に取り合わせることにより、如何なるめでたさも、本来、この地上には存在し得ない事を冷徹に告げているのだ。

(これが仮に、正月の他の料理ではどうか。例えば、伊勢海老や数の子ではどうか。それらは贅沢に過ぎる。雑煮は贅沢ではない。主成分は餅という炭水化物である。雑煮に存する贅沢は、正月の淑気のみである。そのささやかな、雰囲気でしかない贅沢さえも、空爆という地獄の前では、途方もない贅沢に見えるところに、この季語の必然性がある。)

雑煮を食う場所である茶の間のテレビが、空爆のニュースを映し出している必要はない。テレビは吉本新喜劇を映し出していても良い。或いは振袖姿の若い娘たちが嬉々としている初詣を中継していても良い。或いは穏やかな能舞台を映し出していても良い。だが、テレビが何を映し出していようと、たとえテレビが消えていて、正月特有の静かな雰囲気の中に家も町も浸っていようとも、この地平の遙かどこかで空爆は続いている。殊に湾岸戦争以来、空爆はずっと続いている。米国の盟友である日本では、安保協定に守られて雑煮を食えるが、一方で、米国による空爆は中東の無辜の人々を吹き飛ばし、それこそ雑煮の中に散らした具のように肉片や骨を砂漠に撒き散らし続けている。

我々の意識するとしないとに拘らず空爆は続き、そして、我々日本人が一番それを意識したくない時、言い換えれば、無関心でありたい時があるとすれば、例えば正月、淑気に満ちた景の中で穏やかに雑煮を喰い、暖かに腹を満たしている時だろう。

現代の我々は、いつ如何なるめでたさの只中においても、現実には暴力の上に存在し、放射能を日々気付かずに呼吸するかのように暴力を呼吸し、暴力の上に平和を謳歌している。
尤も、それは現代に、或いは日本に限った事ではない。人間が、本来、そういう性質の生き物なのだ。「人の痛みは百年でも我慢できる」という言葉がある。動物は他者の痛みを百年でも我慢しているのだろうか。動物は口を利けないので、わからない。少なくとも、人間はそうである。これは如何に人間の在り方が不良品かということを端的に示している。

ここで掲句が「人間」ではなく、「人類」という語を用いている事には理由がある。鳥類、爬虫類などのように、人類といえば、或る生物の種を指す。つまり、ヒト類ヒト科ということだ。ここで「人類」という語を用いることにより、掲句に人類の側からの視点ではなく、他の生物も含めて人類を公平に見る如き、俯瞰的な視点が暗示される。末尾に「かな」を置くのも、同様の視点ゆえであろう。激すべきところを敢えて、諦観とも取れるような冷静さを漂わせるべく、「かな」で流している。

だから、これは人類という生物には常に暴力が付きまとうという地獄の事実を、正月の普遍的な食事という、最もその事実を突き付けられたくない状況において突きつけているのだ。
(「暴力」と言ってしまえば、概念になる。空爆といえば、これは具体的な、且つ最も一方的な、且つ最も容赦のない、無差別の暴力である。)

さて、この事実を突き付けられて、我々はまだ雑煮を食えるか。食えるのである。食う、とは生物が生き延びるための基本だからだ。極端なことを言えば、頭上で空爆があり、目の前に血泥の雑煮と化した死体が転がっていても、死ぬほど腹が減っていれば食える。それは先の大戦における大空襲の後、焼け跡で何よりも食料が大事であったことを思い起こせば自明である。

我々は地獄の住人なのか。恐らく、そうであろう。我々はそれを認めたくなく、だがそれを先ず認めなければ地獄の住人である事から脱却できないから、だからこそ、この句は存在意義がある。我々人類という種の容赦ない悪を、めでたい食事の只中で突き付けているからだ。もしも将来、人類が高度な道徳観念を本能として持ち、戦争がなくなる日が来れば、その時に漸く、掲句は役目を終えるのであろう。
<「六十億棒の回転する曲がつた棒」2011年邑書林所収>

2016年2月28日日曜日

今日のクロイワ35  [小澤實] / 黒岩徳将


湯豆腐の湯気の猛きが我が顎に 小澤實
顎に湯気が付き、サンタクロースのような髭になった景を想像した。「猛き」と良いながら実際は大した事態でないというギャップがクールである。余談だが、形容詞連体形+(名詞省略)+述語という構造が決まるとかっこいい…とこういう句を見て思う。
『砧』より。

2016年2月26日金曜日

フシギな短詩5[石原ユキオ]/柳本々々



  春の昼ひよこまみれになりやすい  石原ユキオ

この句が収められた連作のタイトル「ルッカリー」とはそもそもペンギンが集団でこどもを産み・育てる場所のことだ。ルッカリーでひしめきあったペンギンたちをひとめみてわかるのは、それが〈もふもふ〉しているということである。

たぶん、あなたがルッカリーに頭からつっこめば〈もふもふ〉するだろう。わたしも。

「ひよこまみれ」も、そうだ。「春の昼」だからただでさえ「あたたか」なのだが、「ひよこまみれ」になれば、もっと「あたたか」くなる。というよりも、これは、

〈あたたかすぎ〉である。

ここには、〈あたたかさ〉の過剰がある。

前回のてふこさんの句の〈あたたかさ〉は俳句によって相対化された〈あたたかさ〉だった。それはひとによって〈変化〉するものだった。

しかし、ユキオさんの句は、ちがう。ここには、〈絶対的なあたたかさ〉がある。

しかも、「なりやすい」と語られている。〈症候〉としての〈あたたかさ〉でもある。なりたくてなっているわけでも、ないのだ。「なりやすい」のである。

てふこさんの〈あたたかさ〉がみずから選び取った〈意志のあたたかさ〉なら、ユキオさんの〈あたたかさ〉は偶発的に起きてしまう〈災難としてのあたたかさ〉なのである。

そうなのだ。ユキオさんには災難俳句がたくさんある。しかも、のどかな。

「ひよこまみれ」も〈のどかな災難〉ではあるが、この連作「ルッカリー」には他にも〈のどかな災難〉はある。たとえば、

  鉄柵に園児はさまる日永かな  石原ユキオ

はさまっちゃったんだ。どう、しよう。

しかし、とはさまった園児をみて〈わたし〉は考える。

のどか、だ。

          (「ルッカリー」『石原ユキオ商店』2014年7月 所収)

2016年2月25日木曜日

人外句境 34  [櫂未知子] / 佐藤りえ



てのひらに蝌蚪狂はせてみたりけり  櫂未知子

幼い頃、屋敷といってよいぐらいの広い家に住む子の家に遊びに行った。敷地のなかにある池には毎春蛙がたくさん卵を産む。それを引きずり出しては遊び、生まれたおたまじゃくしをつかまえては遊び、していた。たくさんいれば、蝌蚪を捕まえるのは容易なことだった。掌にいっぴきすくい上げてみると、水分を失っていくそれは確かに狂ったように身をよじらせ、てのひらで藻搔いていた。
生き物の動作、所作に意味を見出すのはいつも人間の側である。死んだふりをしたり、体の一部を失って逃げるなどの行動に、生物にとってはそれ以上以下の意味はない。動きの思わぬ激しさに狂気を感じるのは人間のほうである。

佐渡島ほどに布団を離しけり
ストーブを蹴飛ばさぬやう愛し合ふ
経験の多さうな白靴だこと
火事かしらあそこも地獄なのかしら

作者には上記のような激しさを感じさせるような作品が多数あるが、下記のような作品に、激しさと同時に抱えられた繊細さを感じることができる。

ぶらんこは無人をのせてゐるらしく
八百政の隅で遊んでゐるメロン
さびしさうだから芒を三つ編みに
日記買ふ星の貧しき街なれば
雪まみれにもなる笑つてくれるなら
ひばりひばり明日は焼かるる野と思へ

「八百政の隅で遊んでゐるメロン」個人商店ぽい名称の八百屋の隅で、売れないメロンを見ている視点。遊んでいる、は売れ残りに対しての救済ともいえる。「ひばりひばり明日は焼かるる野と思へ」は、「ここもそこも焼かれるべき野である」と捉えられるとするなら、田畑、山野を焼く農業従事者だけのものではなく、季語「野焼」を現代へ委譲していく姿を、生き急ぐべし、というメッセージとともに見せているように思う。
〈『櫂未知子集』(邑書林/2003)〉

2016年2月23日火曜日

フシギな短詩4[松本てふこ]/柳本々々



  不健全図書を世に出しあたたかし  松本てふこ

「不健全図書」って、フシギな名詞だ。

《誰》にとって〈不健全〉なんだろう。

そもそも〈健全〉と〈不健全〉をわける境界線はなんだろう。だれが、それを決めるのだろう。

でも、語り手は、みずからが出版した「図書」が「不健全図書」だと理解している。そのラベリングを受け入れている。《受容》からこの句は始まっている。

もちろん、《隠す》こともできたはずだ。だが語り手はこの句をラベリングから始めた。隠すことなく。

「あたたかし」は春の季語だ。

でも考えてみよう。「あたたかい」という感覚は〈主観的〉なものであることを。だれが・どこで・だれと・どう感じるかで、あたたかさは、ちがう。

〈不健全〉も、そうだ。だれが・どこで・だれと・どうみるかで、たとえば〈全裸〉のありようも変わってくるだろう。北大路翼さんの句の「乳輪」の位相が俳句に置かれたことによって変わったように、問題はそれそのものにあるのではなく、それが置かれた位相にあるのだ。

「関さん」(御中虫)も、「乳輪」(北大路翼)も、「ゴジラのつま先」(イイダアリコ)も、俳句という空間のなかに置かれたことによって、その作用を変えた。俳句の位相によって。

だから、てふこさんのこの句の「不健全図書」も俳句の位相によって、その〈不健全さ〉を相対化するはずだ。

語り手は、そこに、俳句を通して〈あたたかさ〉を感じていたのだから。

てふこさんのこの連作には、

  出頭の日時伝へてうららかに  松本てふこ

も、ある。それで、終わっている。

語り手は「不健全図書」の科(とが)で捕まるかもしれない。

でも、状況はシリアスではなく、「うららか」だ。「うららか」は晴れやかな季語だ。こころが晴れ晴れしいのが、わかる。なんのもんだいも、ないのだ。

「出頭」をするというのに、ここにはフシギな希望がある。語り手は、積極的不健全さを引き受けようとしている。

そのとき、季語は〈希語〉にもなっているのだ。

          (「不健全図書」『週刊俳句』第52号・2008年4月20日 所収)

2016年2月22日月曜日

またたくきざはし 9 [金原まさ子]     竹岡一郎



殻ぎりぎりに肉充満す兜虫    金原まさ子

これは客観写生なのだろうか。写生以外の何物でもないが、なんだか悪夢のようでもある。昔、兜虫の角が折れてしまったのを見たことがあって、なぜ折れたかというと、ミヤマクワガタと戦わせたからだ。角が折れた途端に兜虫はぐんにゃりしてしまって、折れた断面からは白いものが盛り上がっていた。それを見た時に、子供の私はぞっとしたのである。

「充満す」という表現により、「肉」は剛力の兜虫のエネルギーをも暗示しているのだが、それは外骨格である殻のすぐ裏にまで満ちていて、ひとたび骨格が破れるなら、その横溢した力は白い肉として飛び出るかもしれない。この緊迫感は怖い。掲句の怖さは「ぎりぎりに」という、緊張をも表す言葉にある。

では、下五が例えば、蝦や蟹だったらどうかというと、これは全然怖くない。蝦や蟹は食べるものだからだ。甲虫類は食べるものではない、たぶん。

これがコガネムシやカミキリムシやクワガタならどうかというと、兜虫には及ばない。あの力士のような体型で、しかも虫類の中では無敵に近い兜虫だからこそ、その力が殻一枚下では弾けんとして危うく保たれている緊迫感が見えてくる。

<「遊戯の家」金雀枝舎2010年所収>

2016年2月21日日曜日

今日のクロイワ34 [森山いほこ] / 黒岩徳将


バターナイフきらり元日遠くなる 森山いほこ

「遠くなる」で一気に面白くなる。バターの艶、銀色の鈍い光に正月の倦怠感が伝わってきた。お節料理をありがたいと思っていても、洋食派でなくとも、1月初旬からパンを食べる。
「元日遠し」という新季語提案だと考えても面白いかもしれない。元日もだが、元日が過ぎ去った気分も、また新年なのである。

「2016年週刊俳句新年詠」より。

2016年2月19日金曜日

フシギな短詩3[イイダアリコ]/柳本々々



  淡雪やゴジラのつま先冷えにけり  イイダアリコ

わたしたちは映画というメディア=視座を通していつもゴジラを俯瞰でみている。

でも、考えてみてほしい。わたしたちが現実で出会うゴジラはいつも「つま先」でしかないはずなのだ。だからもしあなたがゴジラに遭遇したとしても、それがゴジラかどうかはわからないのかもしれない。「つま先」しかみえないだろうから。

「淡雪」によって「ゴジラのつま先」が「冷え」ている。降っては消える「淡雪」のような明滅は、これまでゴジラが踏み潰し蕩尽してきたひとの生命の明滅にもつながっている。ずっとその「つま先」によってわたしたちのいのちが燃やされてきたのだ。わたしたちが相対していたのは〈ゴジラ〉という抽象物ではない。「ゴジラのつま先」という具対物だったのである。

しかも語り手はその「つま先」が「冷えにけり」と思いを寄せている。それはゴジラのつま先のことでもあり、もっといえばそのつま先に〈無意味に〉〈天災のように〉費やされたいのちでもある。

わたしたちは、わたしたちの〈これまでの/これからの祖先〉は、なんどもなんども命が蕩尽され、そこに淡雪がおちてゆく、「冷えにけり」な〈光景〉を眼にしたことがあるはずなのだ。

しかしなぜ語り手は「ゴジラのつま先」に気がついたのか。「ゴジラのつま先」に視線を向けることができたのか。

それは「淡雪」という季語を通してだ。

淡雪は、積もることなく、ふわふわ落ちては消えていく。つまり、淡雪の特徴とは〈消える〉ことであり、その〈消える場所そのもの〉に語り手の視線を必然的に向かせることにある。淡雪が降って落ちる〈上から下へ〉、そして淡雪が消えていく〈地表という場所そのもの〉に。

語り手はまず「ゴジラ」よりも「淡雪」が気になった。だからまず「淡雪や(淡雪だなあ)」と感動している。そしてその淡雪の下方ベクトルの明滅をとおして、「ゴジラのつま先」に気づく。

前回の北大路翼さんの句もそうだったのだが、季語は、視線を〈誘導〉する。そしてふだんとは違った見方の「ゴジラ」や「乳輪」を語り手に運んでくる。

わたしたちは俳句を通して〈初めてのゴジラ〉や〈初めての乳輪〉に出会う。

だとしたらそれを裏返してこういうふうに言うこともできるはずだ。

あなたが〈初めてのゴジラ〉や〈初めての乳輪〉を感じたしゅんかん、それは〈俳句のしゅんかん〉なのだと。

          (「for Beautiful Nonhuman Life」『文芸すきま誌 別腹VOL.8』2015年5月 所収)

2016年2月18日木曜日

人外句境 33  [青山茂根] / 佐藤りえ


箱庭にもがきし跡のありにけり  青山茂根

「箱庭」は夏の季語であり、名所名園の模型という意味合いもあるが、いわゆる「箱庭療法」に用いられるものも存在する。掲句ではどちらの意味として捉えても問題ない、というか、同じ問題を共有できるのではないかと思う。

箱庭の庭部分なのか、砂場のような場所なのか、そこに何かが藻搔いてつけたような跡がある。均され整えられたなかに、乱れた箇所を見つけている。ミクロな箱庭の世界にも、逃げ出したい、または逃げ出した者がいる、ということなのか。その「乱れ」に気づいた観察者の裡にも、確かに「藻掻き」の源泉が潜んでいるのだろう。

『BABYLON』は作者の所属する「銀化」主宰・中原道夫による瀟洒な装幀と、世界中を経巡る精神を表出した作品とにより、独特な風のような感触を残す句集である。

毛虫には焰の羽根を与へむか
らうめんの淵にも龍の潜みけり
葡萄にもしづかなる脈ありにけり
凍てつかぬための回転木馬だと
銀河系くらゐのまくなぎと出会ふ
靴脱いでありぬ巣箱の真下には
湯豆腐に瓦礫ののこる寧けさよ
浴槽の捨てられてゐる海市かな

「凍てつかぬための回転木馬だと」はパリ市中に数多あるという街頭の回転木馬を思い浮かべた。楽しさも寒さも遠心力で吹き飛ばす。「湯豆腐に瓦礫ののこる寧けさよ」ここでいう「瓦礫」はガザのものだろうか、いずれにしろ紛争地帯を想起した。湯豆腐鍋の崩れなかばの食材に遠国の瓦礫を透視している。

〈『BABYLON』(ふらんす堂/2011)〉

2016年2月16日火曜日

フシギな短詩2[北大路翼]/柳本々々



  乳輪のぼんやりとして水温む  北大路翼

ひとは、どうやって、〈乳房〉にたどりつくんだろう。

でも、掲句は、「乳輪」である。〈乳房〉ではない。どうして、だろう。

この句の季語は「水温む」だ。春の水は〈あたたかい〉というよりも、〈ぬる〉んでいる。冬の水とも違うし、夏の水とも、ちがう。

  水温むとも動くものなかるべし  加藤楸邨

という句があるように、春のぬるんだ水と〈動・物〉は親和性が高い。ぬるむからこそ、ようやく、動き出せるのだ。

掲句において、このぬるんだ水の中で語り手が発見した〈動・物〉は「乳輪」だった。しかもそれは「乳首」でも「乳房」でもない。〈突起物〉ではなく、語り手は〈乳輪=円環〉という〈図〉をぬるんだ水のなかに見ているのだ。

語り手は、「乳輪」という〈図〉を、みている。〈図〉は視覚によって構成されるものだが、お湯をとおしてみている以上、〈図〉は明確には再構成されえない。

「水温む」という季語を通過した「乳輪」は「ぼんやりと」する。となると、語り手は、「乳輪」を見ながらも、その「乳輪」を見ることを「水温む」によって阻まれているといってもいい。〈季語〉に阻止されたのだ。

だとしたら、こう言ってもいいのではないか。

語り手は、〈季語〉によって〈乳輪=性〉にたどりつくことを阻害されてしまったのだと。

目の前のお湯のなかの〈乳輪〉を通してそこにあらわれたのは、〈俳句〉だった。〈性〉ではなかった。

語り手は「乳輪」をみながら「水温む」をとおして、〈俳句〉のことを考えている。かんがえてしまっている。〈性〉でもなく、〈乳房〉でもなく。

だからこう言うしかない。

俳句は、乳房に、たどりつけない。

          (「春立つや」『天使の涎』邑書林・2015年 所収)

2016年2月15日月曜日

またたくきざはし 8 [筑紫磐井]     竹岡一郎



美しくありますやうに妻に言ふ   筑紫磐井

二年ほど前に掲句を読み、妙に印象に残っていて、時々考える。最初、恐妻家の句かと思い、あるいは惚気の句かとも思ったが、どうも違う。この妻が美人か否か、それは問題ではない。たぶん、人としての立ち振る舞いとか心情の有り方とかそういうことを言っているのだと思う。これは「妻に言ふ」のだから、妻に対して要求している、とひとまず取れるのだが、本当にそうだろうか。

そう思う理由は、「ありますように」という措辞にある。「なりますように」や「いられますように」なら、これはもう妻限定であるが、目の前にいる当人に向かって、「ありますように」とは、あまりにもおかしい。だから、これは妻に対して、妻以外の何かが美しくありますように、と言っているのである。「やうに」とあるから、冀(こいねが)っている。そうなると、眼前の妻は何かを祈禱する対象である。妻に向かって、何かの、たぶん叶わぬ美しさを祈っているのだ。

上五の前に来るべき名詞が省略されているため、それは読者の頭の数だけ想像できよう。近所とか地域とかが美しくありますように。俳壇とか会社とか人間関係とか世間とかが美しくありますように。政治とか経済とかが美しくありますように。人類が美しくありますように。過去が或いは未来が或いは現在が美しくありますように。もしかしたら、天や神が美しくありますように。

即ち、作者と妻以外の、作者と妻を取り巻く何か、または取り巻く全てが美しくありますように、と希(こいねが)っているのである。

これは途方もなく贅沢な祈りなのか、あるいはこの上なく慎ましい祈りなのか。慎ましく且つ贅沢な祈りなのであろう。

私は一寸、ミレーの「晩鐘」を思い出したりもするのだ。あれは何を祈っているのか、子供の頃から疑問だったが、最近、世界の美しさを祈っているのだと思うようになった。

橋本無道の「無禮なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ」を思い出したりもする。あれは妻を罵っているようで、実はそうではない。毎日、ごはん作ってくれて有難う、とはとても照れくさくて言えぬが、何か言ってやりたいので口に出すと、あんな風になる。掲句も、祈る対象で居てくれる妻を有難く思っていることは言うまでもない。

<「我が時代」実業広報社2014年所収>

2016年2月14日日曜日

今日のクロイワ33 [大山雅由]  / 黒岩徳将


見せ消ちのここが要ぞ獏枕 大山雅由

 獏枕は中国の想像上の動物である獏が人の悪夢を食うという逸話から、獏の絵を枕に敷くことを言う。見せ消ちは写本などで字句を訂正する場合、符号を付けたり取り消し線を引くなどして、消した字も読めるようにした消し方のことを言う。要は、獏枕のように悪い夢(=しでかした過ち)を霧消させてしまうのではなく、しっかりと直視して新たな形を作るべし、と言いたいのだろう。
 作るという行為そのものを詠むというメタ的な行為は、類想に陥りやすいのでは、そもそもやや説教臭いのではいう思いもよぎったが、創作に対する信念が見せ消ちや獏枕という特徴的な事柄によって現れる点が特異であり、執念であると感じた。夢の中でも、主体は何かを作り続けている。

『獏枕』(角川文化振興財団)より

2016年2月12日金曜日

フシギな短詩1[御中虫]/柳本々々



  こんな日は揺れたくなるなと関は言った  御中虫


2011年から5年が経った。〈関悦史〉さんがさまざまな位相で揺れ続ける御中虫さんの句集『関揺れる』。たとえば掲句のように、だんだんと〈震災の揺れ〉そのものの意味はゲシュタルト崩壊し、フィクショナルなものへと移行していく。「こんな日は~したくなるな」とドラマのような〈安い定型フレーズ〉に〈揺れ〉も〈関〉さんも収められていく。

でも、〈揺れ〉がリアルで高尚なものと〈誰〉が決めたんだろう。

わたしたちは常に〈揺れ〉をテレビの中で、ドラマの中で、映像の中で、マンガの中で、映画の中で、フィクショナルな文法で語り・思考していたのではないか。
だとしたら、その〈揺れ〉をめぐるフィクショナルな文法そのものをもう一度〈再―文法化〉しなければならないではないか。

つまり、わたしたちはなにかを〈うたう〉ときの語法そのものを〈揺らし〉つづけなければならない。わたしたちは出来事は忘れないでいようとしながらも、すぐにその出来事を語法化するやり方そのものは無意識に置いてしまう。でもそうした忘却の淵に腰掛けて、関さんはずっと揺れ続けている。

そのために、関さんはいる。

2016年の〈今〉も、わたしたちの〈すべて〉の関さんは、揺れる。

          (『関揺れる』邑書林・2012年 所収)

2016年2月11日木曜日

 人外句境 32 [鴇田智哉] / 佐藤りえ



風船になつてゐる間も目をつむり  鴇田智哉

子供心に風船は祝祭の象徴のように思っていたが、犬の形をした(紙テープの四肢がある)散歩させて遊ぶ風船や金銀とりどりの巨大な風船など、近年の発達したものを見ていると、もはや「そのもの」にはさして意味はないのかもしれない、などとも思う。

掲句のものはごくごく普通の、人が息を吹き込んで膨らますゴム風船と捉えて読んだ。「風船になつてゐる間も」ということは、そうでない時も目をつむっている時がある、ということになる。そうでない時も、常に、という可能性もある。
風船になるってどういうことだ、という問題と、そうでない時も目をつむっている、ってどういうことだ、という問題、ふたつの問題が句のうちに内包されている。後者のほうがより重大なことに思われる。重大なことが、するりと語られてあとをひかないのが、この作者の特長なんじゃないかと思う。

ひなたなら鹿の形があてはまる
いきものは凧からのびてくる糸か
あふむけに泳げばうすれはじめたる
めまとひを帯びたる橋にさしかかる
人参を並べておけば分かるなり
鳥が目をひらき桜を食べてゐる
いつからか骨あるかほや雨の森

特に「ひなたなら鹿の形があてはまる」「あふむけに泳げばうすれはじめたる」「人参を並べておけば分かるなり」などの主格を欠いて提示されているように見える句の感触は、広瀨ちえみ、樋口由紀子、なかはられいこら川柳作家の作品の読後感になにやら近い。

このバスでいいのだろうか雪になる  広瀬ちえみ 
ラムネ壜牛乳壜と割っていく  樋口由紀子 
痛む箇所 線でつないでゆくと魚  なかはられいこ

これら川柳と掲句に共通するのは句の中で「何が行われているか」は明らかだが「なぜか」は明示されていない点である。5W1Hのなかの「What」と「How」だけが作り出す、具体的でありながらモーローとした世界がそこにある。

〈『凧と円柱』(ふらんす堂/2014)〉

2016年2月9日火曜日

今日のクロイワ32 [米岡隆文]  / 黒岩徳将


片腕を忘れし卓に石榴の実 米岡隆文

ミロのヴィーナスのごとく、欠損の表現には「かつてあったものの存在」をどうしても思わざるを得ない。「忘れし」の表現からは、「卓」が「誰かの片腕」の質感を忘れているとも読めると同時に、作中主体、あるいは「主体の思う誰か」が「片腕」を忘れている、と読むこともできる。石榴の実は、「露人ワシコフ叫びて石榴打ち落とす 三鬼」など何らかの象徴性を想定することもできれば、無意味な二物衝撃とも捉えられる。石榴の側に、片腕の幻影を見る。作者の狙いとは違うかもしれないが、失われてしまった片腕がいとおしい。

『藍』2016年1月号より

2016年2月8日月曜日

またたくきざはし 7 [大井恒行]    竹岡一郎




水の村魚とりつくし魚佇つ冬     大井恒行

「水の村」とあるから、水郷なのだと思う。海辺の村ではあるまい。「水」と「とりつくし」の語から、「水涸る」という季語も連想される。水源地の積雪や氷結のために川沼の水量が減る現象である。季は冬であるから、水の村は当然、水量も減っているだろう。厳しい寒さも連想される。ここにおいて、末尾の季が春や夏や秋ではなくどうしても冬でなければならない必然性が生じる。背後に「水涸る」状況を立ち上がらせるためである。

掲句では、涸れるのは水でなく魚であるから、ここで魚と水は等価ではないかという錯覚が起きる。魚をとるのは人間であろうが、中七の結果として下五の「魚佇つ」が置かれているから、魚を捕っていたのは実は人間ではなく、魚だったのかという錯覚もまた起きる。

水の村に住みながら同胞をとりつくした挙句、冬の厳しい枯渇の中に茫然と立っている魚は、やはり人間の暗喩であろうか。いや、人間であると否とを問わず、魂の暗喩だろうか。とりつくした理由を「魚なる魂」の愚かさに求めるよりは、むしろやむを得ぬ運命の結果と捉えた方が、句の寂しさは増すように思う。

<「風の銀漢」拾遺。「大井恒行句集」ふらんす堂1999年所収>

2016年2月4日木曜日

人外句境 31 [岸本尚毅] / 佐藤りえ



とけし顔胴に沈みぬ雪達磨  岸本尚毅

日本の雪ダルマは二段だが、西洋の雪ダルマ(名称も「雪人」だったり「雪男」、スノーマンだったりする)は三段が多い、というトリビアはだいぶ巷間に広まっているのではないだろうか。広景の『江戸名所道戯尽』にはもっと造型が達磨然としたものが見られるが、馴染みの雪ダルマは、白い雪玉を重ね目鼻をつけたものである。

積雪の後、晴れた往来に溶け残る雪達磨を見かけるのは楽しくてちょっと悲しい。なぜ悲しいのかというと、人型に作られながら、溶けることを余儀なくされる彼ら・雪達磨の存在が、すでに制作者たちに忘れ去られているように見えるから、ではないだろうか。「沈みぬ」が質量と時間を十分に表し、大きなダルマだったんだろうな、と胸が痛む思いを誘う。
日当たりのよい頭部から失われていくもの、バランスを失って崩れ落ちていくもの、誰に看取られることもなく、様々の最後が家家の軒先で遂げられていくのは「雪の生贄」といったら言い過ぎだろうか、考えすぎか。

『小』を読んでいると、能狂言でいうところの摺り足のような筆致、文体がじわじわとしみてくる。書かれる対象への「近寄り方」が摺り足がちなのだ。

春めくやどこへゆくにもこの姿
春になり面白くなり嫌になり
うたかたにして白々と氷りたる
なめくぢの頭の方がやや白し
硝子戸を開けて網戸が顔の前
湯たんぽを夜毎包める布あはれ
海いつもどこかが動きゐて涼し
人間は弁当が好き冬の雲

「春になり面白くなり嫌になり」、木の芽時のウキウキした感じと背中合わせの物憂さ、また盛り上がれば盛り上がるほどに比例して大きくなる「醒めた感じ」が、音韻のうねりでひとつの線上に連続して置かれ、おもしろうてやがて哀しい。「うたかたにして白々と氷りたる」池か、川か、湖か、氷った水の、かつて泡であった空間の方を見つめている。「…にして」の持つ〈時間〉(…にして、しかも)が冷気を伝えてくる。
〈『小』(KADOKAWA/2014)

2016年2月2日火曜日

今日のクロイワ31 [宇多喜代子] / 黒岩徳将



餅花のしなりて曾父母父母孫子 宇多喜代子

 親族が集う景は新年詠としてはそれほど目新しくはない。しかし、「曾父母父母孫子」と並べることで、餅花の緑、桃色、白のように、家族が連なっている様子が見えてくる。
 みんなのうた『だんご三兄弟』を彷彿とさせる句だ。ふと思い出したが、その昔「『だんご三兄弟』ヒットの秘訣」というテレビ番組を見たことがある。幼稚園に取材班が赴き、「○」「□」「△」が書かれた地面のうち、好きな場所に行くように園児に伝えると、ほぼすべての園児が「○」の床を選んだ。
丸き物体のイメージと人間は切り離せない。人間の顔が四角だったら、三角だったら、どんな世界だっただろう。少し悲しいかもしれない。丸で良かった。

『現代俳句』2016年1月号より