2017年3月30日木曜日

フシギな短詩97[大川博幸]/柳本々々


  あやふやなものがあって確かめたらあやふやだった  大川博幸


石寒太さんが『俳句はじめの一歩』という本のなかでこんなことを書かれている。

  私の先生の加藤楸邨も、「俳句はもののいえない文学」と、はっきりいっています。
   (石寒太『俳句はじめの一歩』二見レインボー文庫、2015年)

俳句は〈もののいえない文学〉。これはメッセージ性を回避する俳句のことを思うとよくわかる。自己主張したいひとやなにかをどうしてもいいたいひとは俳句に向いていない(かもしれない)。たとえば俳句はよく〈挨拶の文芸〉だと言われるけれど、これも〈ものをいわないこと〉=挨拶、に通じている。

じゃあ、俳句が〈もののいえない文学〉だとしたら、川柳は、どうなのだろう。わたしは、今回の大川さんの句を引きながらこんなふうな提案をしてみたい。川柳は〈もののみえない文学〉じゃないかと。

たとえば「あやふやなもの」をまず語り手は確認したわけだが、すでにその時点で語り手は〈確認〉に敗退している。なぜならはじめから「あやふやなもの」として認識しそれでよしとしているからだ。

その「あやふやなもの」を語り手は「確かめ」にいったが「確かめ」に行って「あやふやだった」と二度目の確認の敗退を行う。しかしそうした認識の敗退を〈そのまま〉描いたら川柳になってしまった。

ここでわたしが考えてみたいのは川柳とはこうした「あやふや」を「あやふや」と《わざわざ》確認する作業なのではないかということだ。「あやふや」の内実は問題ではなく、「あやふや」をつまびらかにすることも問題ではない。問題は、「あやふや」をわざわざ確かめながらも「あやふや」にしておくことなのである。それが川柳の要である。

大川さんのこのあやふや句が入った連作はすべて「あやふや」を「あやふや」に留めようとする力学のもと描かれている。

  歩き出してから歩く方法を  大川博幸

  目を閉じる何も見えなくなってから  〃

  犬の声がする犬がいるのかもしれない  〃

こうした「歩く」と「歩く」、「閉じる」と「閉じる」、「犬」と「犬」という反復のなかで〈現実〉がねじれていく。問題は、語り手が〈(す)〉でこれを語っていくことにある。語り手はこのねじれていく現実にすこしも驚いていない。

こうした〈雰囲気〉を、魔術的リアリズムと言っていいかもしれない。「あやふや」を驚きなくためらいなく「あやふや」として受け入れるのはマジック・リアリズムの醍醐味である。

マジック・リアリズムはラテンアメリカ文学の批評用語から来ている。

 マジック・リアリズムを南米の文学運動に限定すればだが、そこにあるのは、幻想への憧れや現実への不信、繊細な「ためらい」などではなく、ただ野太い、原「現実」である。
(井辻朱美「マルシェとしての『かばん』」『ユリイカ』2016年8月号)

井辻さんのわかりやすい定義をひけば、マジック・リアリズムとは、《野太い、原「現実」》に出会うことだ。そしてそれがどんな剥き出しの現実であろうが、まったくおどろかず、受け入れてしまうことだ(たとえばガルシア=マルケスの『百年の孤独』も川上弘美の『神様』もマジック・リアリズムに基づいた作品だと言える)。

そしてそうした意味では大川さんの連作は、マジック・リアリズムのふんいきをただよわせていると言える。語り手はどんなにねじれた現実に対しても少しもためらってもいないのだから。、なのだから。

川柳がもし〈もののみえない文学〉だとしたら、川柳はその〈みえない〉ことを逆手にとって言葉の微妙なひだにわけいっていくだろう。たとえば、

  ギザギザが来るからぎざぎざは待つわ  広瀬ちえみ
  (「ギザギザ(ぎざぎざ)」『川柳杜人』253号、2017年3月)

ここでは「ギザギザ」と「ぎざぎざ」の微妙な差異に「待つ」ことができるだけの〈時間〉が生まれている。「ギザギザ」も「ぎざぎざ」も目にはみえないものだが、しかし、広瀬さんの句はそこになんらかの〈ひだ〉をみてしまっている。

〈もののみえない文学〉とは、同時に、〈ことのみえる文学〉でもあった。

だから現代川柳には、あやふや愛好者たちにはぴったりの文学だと言えよう。あやふやなコトガラの微妙すぎるひだひだの部分を得意とするのが現代川柳だと言える。

あやふやにもひだひだがあるんだっていうことは、みーんな、現代川柳が教えてくれた。

  芽が出たので種を蒔かねばならない  大川博幸

          (「あやふや」『川柳の仲間 旬』210号、2017年3月号 所収)


2017年3月26日日曜日

フシギな短詩96[石田柊馬]/柳本々々


  妖精は酢豚に似ている絶対似ている  石田柊馬

不思議な句だ。

「絶対」とは言いながらも、その「絶対」を言ってしまったがために、「絶対」が〈絶対〉をくつがえしてしまっている。

いったい私はなにを言っているのか。

つまり、こういうことだ。《絶対にそうだ》と確信していたのならば、「絶対」などとは《わざわざ》言わなくていいのだ。わかりきったことなんだから。そしてその発言に自信があれば、《わざわざ》繰り返す必要なんかないのだ。わかりきったことなんだから。

だから語り手は思っている。ほんとうは妖精は酢豚に似ていないかもしれないということに。絶対なんてこの世界にはないんだってことに。

でもそれでも言ったのだ。

いったいどういうことなんだろう。

こんなふうな説明ができるかもしれない。

ここにあるのは、絶対性ではなく、〈意に任せた〉任意性である、と。

わたしはこの妖精句は川柳という文芸を端的に象徴しているのではないかと思う。

つまりこう思うのだ。川柳とは、《任意性》の文学なのではないか、と。

前回、〈うんこ〉をめぐる記事であげた例をもう一度あげてみよう。

  頷いてここは確かに壇の浦  小池正博

「ここ」が「壇の浦」だと絶対的な認識ができていたら、わざわざ「ここは確かに」なんて言う必要がないはずだ。認識できていなかったから、わざわざ「ここは確かに」と言ったのだ。語り手にとって「壇の浦」は〈任意〉である。意に任せた場所なのだ。

  オルガンとすすきになって殴りあう  石部明

オルガンとすすき。これも任意である。わたしの考えでいえば、このオルガンとすすきが、オルガンとすすきである必然的な意味はない。いや意味はつけられるだろうけれど、つける必要がないほどにオルガンとすすきはカテゴリーとしてかけ離れている。

だからこの句を意味として解釈しようとするとたぶんうまくいかない。そうではなくて大事なのは、〈任意〉が暴力として発動してしまっているこの句が提出した〈状況〉にあるはずだ。本来殴りあえないはずのものが任意の認識によって殴り合ってしまったこと。これは認識と状況の問題である。

何度も言うが、わたしは、川柳とは、〈任意性〉の文学なんだと、おもう(これは季語というある程度の〈絶対語〉を引き入れたある程度の〈絶対性〉の文学としての俳句と対置してもいいかもしれない。「ある程度の」と言ったのは季語だって生まれたり滅びたりすることがあるため)。わたしは、そう、おもうのだ。川柳は、こころを詠む文芸ではなく、意(こころ)に任せる文芸なのだと。

  非常口セロハンテープで止め直す  樋口由紀子

「止め直」せたのは、「非常口」が絶対的なものではなく、任意の口になったからだ。だから、「セロハンテープ」程度のものでいい。非常口はほんとうは非常口なのだから絶対的なものではなくてはならない。でなければ、命が助からない。わたしもいざ逃げる時があるかもしれないので非常口はせめて絶対的なものであってほしいと思う。心からそう思う。

しかし川柳では、〈こう〉なのである。それがただしいのだ。任意の世界なのだから非常口はセロハンテープで止め直すのが正しい。わたしやあなたがいやでもそれは関係ない。

任意の世界。もう少し続けよう。

  ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ

これも任意の発話である。読点が〈任意〉で埋め込まれることで、意味内容が〈任意〉に微分されていく。ここにはビルが崩れていくという2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を彷彿とさせるような絶対的出来事が起きているのに、それを分節する絶対的発話がない。だから、ビルがくずれてほんとうに語り手がきれいだと思っているのかどうかわからない。そもそもここにはたった一回でも「きれい」という発話は、ない。

これは、柊馬さんの妖精に対する「絶対」とおなじ位相の認識である。小池さんの不確かな「うん」や樋口さんの「セロハンテープ」の不穏さとおなじ位相の認識である。

言葉にとっての任意。意味にとっての任意。認識にとっての任意。世界にとっての任意。歴史にとっての任意。語り手にとっての任意。読者にとっての任意。

川柳は任意の文芸なのだと、妖精をとおして言ってみたい。妖精とわたしのたたかいをとおしてそう言ってみたい。

探偵シャーロック・ホームズを生んだコナン・ドイルが《妖精はいる絶対いる》として愛した有名な妖精写真がある。今みてもそれがほんとうの妖精かどうかわからない。私はこの妖精写真が好きで一時期机の上に飾っていたことがある。今でもときどき電車やバスに乗っているときに、いるかなあいないかなあと思うが、まだ答えは出ていない。い る か な あ

妖精はいるかもしれないしいないかもしれない。妖精は〈任意〉のクリーチャーなのだから。それは、いるひとにはいるし、いないひとにはいないのだ。しかし、そういうドイルから、ホームズは生まれた。

任意。

任意とは、意に任せることだ。意に任せて、なにか発言することだ。意に任せて、あなたに問いかけることだ。こんなふうに。

  ドラえもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

 
   (『セレクション柳人2 石田柊馬』邑書林・2005年 所収)

2017年3月23日木曜日

フシギな短詩95[うんこ漢字ドリル]/やぎもともともと


   うんこにも羽が生えたらいいのに。  『うんこ漢字ドリル』


文響社から先日刊行された革命的な漢字ドリルに『うんこ漢字ドリル』がある。

なんとすべての書き取りの例文が〈うんこ〉をめぐって書かれているのだ。たとえば、

  出席番号順にうんこをてい出する

  「月刊うんこ」の四月号で、ぼくのうんこがしょうかいされている

  うんこを表す記号を考えました
   (『日本一楽しい漢字ドリル うんこ漢字ドリル 小学3年生』文響社、2017年)

たしかに、これは、たのしい。では、なにがたのしいのかといえば、これは〈読み物〉としてたのしい。なぜ〈読み物〉としてたのしいかと言えば、メタファー(隠喩)の原理に基づいた例文ではなく、メトニミー(換喩)の原理に基づいた例文が用意されてしまったからだ。わたしは、今回のこのうんこ漢字ドリルを、と呼びたいとおもう。

メタファー漢字ドリルとメトニミー漢字ドリルの違いとはなんだろう。それは〈言いたいこと〉ですべてを埋めていくか(メタファー)、〈言いたいこともないこと〉ですべてを埋めていくか(メトニミー)の違いである。

ちょっと確認すると、メタファーというのはたとえばこんな比喩の技法だ。

  わたしのほっぺは林檎だ。

メタファーというのは、イコールの原理の比喩だから、「ほっぺ=赤い」ということが〈言いたい〉ときにメタファーを使う。「白雪姫」は肌が雪のように白いことが〈言いたい〉から「白雪姫」だ。「白雪姫」は隠喩のひとなのである。

だからメタファー漢字ドリルというのは〈言いたいこと〉があるので、たとえば先ほどのうんこ例文をメタフォリカルに書き直せば、

  出席番号順に宿題をてい出する

ということになる。これはどんなメタファーが働いているのかというと、「宿題=てい出されるもの」という善の道徳的メタファーが適用されている。メタファーというのはこう考えると〈常識的〉なものになりやすい。それはなぜ常識的なものになりやすいかといえば、〈似ていないとだめ〉だからだ。隠喩というのは、隠れた似たもの、である。

ところがメトニミーというのは〈似ている原理〉ではなく〈換喩〉という文字どおり〈交換の原理〉に基づいている。だから、この例文の「宿題」を〈名詞〉というカテゴリーのもとに名詞でありさえすればどんなものにだって〈交換〉してしまえることができる。たとえば、

  出席番号順に揚げシューマイをてい出する

とか

  出席番号順に絶望をてい出する

とか

  出席番号順に内閣府特命担当大臣巨大不明生物防災巨大不明生物統合対策本部副部長をてい出する

とか、それは〈名詞〉だったらどんなものをここに埋め込んでもいい。そうすることで、ふだんの類似思考から解き放たれた〈常識外〉の文が生まれる。だから、もちろん、〈うんこ〉でもいい。

  出席番号順にうんこをてい出する

『うんこ漢字ドリル』は、世界がうんこに似ているメタフォリカルな思考から生まれているのではなく、世界をうんこに変換していくというメトニミカルな思考で詩がうまれることを発見している。すべての名詞変換は〈うんこ〉で行われる。

このメトニミー思考である〈変換の原理〉というのは、実は現代川柳にもよくみられることだ。現代川柳はメタファーの原理で動いているというよりは、実はメトニミーの原理で機能している(ちなみに現代川柳作家の小池正博さんが連句=メトニミー思考のひとだというのは書いたことがある。拙稿「あとがきの冒険 恋と小池正博と赤ずきん」『週刊俳句』)。


たとえばかつてこのフシギな短詩でとりあげた句をみてみよう。



たとえばこの句をメタフォリカルに、

  こんな手をしてると孫が見せに来る


  夫と妻になって殴りあう

という〈なにかを物語りたい〉句にするのはありだし、実際そういう〈ほほえましい〉句もあると思う。だが、ここでは〈変換の原理〉が働くことで、「猫」「オルガン」「すすき」の不気味な風景が描かれている。一歩間違えれば〈いかれたお茶会〉的な風景なのだが、現代川柳はすすんでメトニミカルな思考によって狂気をひきうけようとする。たとえば、

  頷いてここは確かに壇の浦  小池正博

この句をふつうの〈観光句〉としてとらえることもできるが、一方でここでは時空を転流してしまったひとが、その時空の逆流に対して〈うなずいて肯定してしまった風景〉も見出すことができるのではないかと思う(これはこの句が収められた句集『転校生は蟻まみれ』の魔術リアリズム的雰囲気からそう読んでいる)。ほんとうはためらわなければならないところを、魔術的リアリズムのもとに、受け入れてしまったこと。わたしはこの小池正博の句を〈狂気を「うん」と肯定してしまった句〉と呼んでみたいと思う。

うんこ漢字ドリルも現代川柳も世界にとっては狂気(クレイジー)だ。

そもそもメトニミーというのは、あぶない原理であり、過激でもある(だから精神分析医のフロイトもラカンもメトニミーに興味を示した。いくら隠喩的に解釈してもそこからどうしてもはみ出していく解釈不能なものがあったから)。変換には〈果て〉がないので、帰ってこられないかもしれない。たとえば辞書で或る言葉を探して、その言葉の記述された意味をふたたびその辞書でさがしつづけるようなものなのだ。終わりのない狂気の風景。でも、うまく使うと、詩の爆薬を仕掛けることができる。『うんこ漢字ドリル』のように。

『うんこ漢字ドリル』も現代川柳も、世界の枠組みや語法に沿いながらも、それらに埋め込まれた事物を《わざわざ》置換していくことで世界に異議申し立て(challenge)を唱えていく文芸だということができる。

『漢字ドリル』という言葉を埋めていく形式の(実はメトニミカルだった)発想そのものに、置換の原理を応用することで、『漢字ドリル』が〈過激な文芸〉になってしまうということに『うんこ漢字ドリル』ははじめて気がついてしまったのかもしれない。漢字ドリルみずからが漢字ドリルみずからに気づいてしまうとき、それはになる。

うんこも川柳も、世界を殴ることにつながっている。ふだんつかっていることばに、ふだんつかっていることばで、暴力をくわえること。それが、詩だ。

現代川柳は任意性の強い文学だと拙稿「現代川柳を遠く離れて」『俳誌要覧2017年版』(東京四季出版、2017年)に書いたことがある。それは、《こうであったかもしれないが・ああでもあったかもしれないもの》だと。

世界を〈うんこ〉という任意をとおしてかんがえることは、実は〈うんこから遠く離れて〉詩に近づいていく行為だったではないか。

  みんなで少しずつ分担して、うんこを持ち帰ろう
   (『日本一楽しい漢字ドリル うんこ漢字ドリル 小学6年生』同上)

          (『日本一楽しい漢字ドリル うんこ漢字ドリル』文響社・2017年 所収)

2017年3月20日月曜日

フシギな短詩94[正岡子規]/柳本々々


  脳のなかがもうもうと霧がたちこめたようになってぼんやりと座ったまま眠るでもなく覚めているでもない。自分で言ったわけでもなくひとが言ったわけでもなく、ただ、「かえるが飛び込んで水の音がした」が耳に響いてくる。それは、もう、俳句だった。  正岡子規(拙訳:柳本々々)


「明治という時代の新しい活字メディアである新聞と雑誌を舞台に、短詩型文学としての俳句と短歌を革新する運動を展開した」ひとに正岡子規がいる。

少し前に刊行された日本近代文学研究者の小森陽一さんの『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書、2016年)には、独自の「まったく新しい表現方法」として芭蕉の俳句をとらえた子規が記述されている。子規は芭蕉を「一宗の開祖」として敬う崇拝者からではなく、「一文学者」としての表現者として見ようとした。1893(明治26)年のことだ。

  古池や蛙飛びこむ水の音  芭蕉

芭蕉のこの句に芭蕉独自の「発明」と「創開」があると子規は言う。子規はこの句の語り手の〈立場〉の独特な感じに驚く。どういう感じに驚くのかというと、

  脳中濛々(もうもう)大霧の起りたらんがごとき心地に芭蕉はただ惘然(もうぜん)として坐(すわ)りたるまま眠るにもあらず覚むるにもあらず。……自らつぶやくともなく人の語るともなく「蛙飛びこむ水の音」といふ一句は芭蕉の耳に響きたり。
   (子規「芭蕉雑談」『日本』)

脳のなかがもうもうと霧がたちこめたようになってぼんやりと座ったまま眠るでもなく覚めているでもない。自分で言ったわけでもなくひとが言ったわけでもなく、ただ、「かえるが飛び込んで水の音がした」が耳に響いてくる。それは、もう、俳句だった。

これではまるで〈ゾンビ〉ではないか。

子規によってここに描写されている芭蕉はただただ感覚受容器としてゾンビのように受信機械と化した芭蕉の異様なありようだ。しかしこの視点は芭蕉をただただ崇拝している〈崇拝者〉には見いだせない視点だった。

小森さんはこの芭蕉を「無意識と意識の間での宙吊り状態」と解説する。「自分の記憶に蓄積されたあらゆる『言語』と『事物』との関係が全て消去され」「自己の内面なるものをことごとく失ってしまった」状態。

  つまりこの瞬間、これまで言葉を操る生物として蓄積してきた、「言語」と「事物」を結びつけてきた経験の総体を、手放してしまったことになるのである。……
  「古池の句は実に其ありのままを詠ぜり。否ありのままが句となりたるならん」
  子規の分析は身体論的かつ哲学的に先鋭化していく。「ありのまま」の「知覚神経の報告」を、受け入れることによって、それまでとはまったく異なった言語的表現を生み出すことが可能になるのだ。
  (小森陽一「俳句と和歌の革新へ」『子規と漱石』集英社新書、2016年)

「経験の総体を、手放してしまった」ときに生まれるのは、「一切の『主観的思想』や『形体的運動』を排した」「ありのまま」である。この神経身体としてのハードウェアによるゾンビ的《ありのまま》はやがて「写生」理論へと接続されていくだろう。

こうした子規が見いだした芭蕉になぜ今スポットをあえてあててみようと思ったかというと、この「無意識と意識の間での宙吊り状態」というのは百年後の現代俳句にも引き継がれているのではないかと思うからだ。

たとえば最近刊行された句集に田島健一さんの『ただならぬぽ』(ふらんす堂、2017年)がある。この句集を読んでいてまず気づかされるのが語り手の特異(ふうがわり)な位置性である。

 友達でふさがっている祭りかな  田島健一

 湯ざめしていると出てゆく糸がある  〃

 着ぶくれて遊具にひっかかっている 〃

ここには不思議な主体性の喪失がある。主体性の喪失とはそう言ってよければ、ゾンビを主語にしても違和感がないことだ。たとえば、

 ゾンビ「友達でふさがっている祭りかな」

 ゾンビ「湯ざめしていると出てゆく糸がある」

 ゾンビ「着ぶくれて遊具にひっかかっている」

しかしなぜ主体性の喪失を感じてしまうのだろう。それは、〈意識〉よりも〈身体〉が先に出てしまっているせいだ。

祭りは身体でふさがり、湯ざめすれば身体から糸が出てしまい、遊ぼうと思うと身体がひっかかる。そしてその《身体の先走り》を後付けのように《意識》することが田島さんの俳句になっているのだ。ただしその状態をこんなふうに子規風に言い換えることもできる。「ありのまま」を受容しているだけだと。

無駄に勇気を出してこんなふうに言ってみたい。俳句とは、《先走りしてしまったものを・後付けした意識》なのではないか。

そう言えば田島さんの句集の帯文にはこんなふうに書かれていた。

  あらゆる人のはじまりであることの困難さの代わりに。

そう、この句集は「人のはじまりであること」に《すでに・出遅れ》ている。だからこの句集では、動物たちがにぎやかだ。身体がつねに先走っている動物たちが(〈ゾンビ〉とは〈動(く)物〉である)。

  猫あつまる不思議な婚姻しずかな滝  田島健一

  鶴国家ふしぎな鶴が攻めてくる  〃

  せり出してくる日本画に立つ狐  〃

そうなのだ。「あらゆる人のはじまりであることの困難さの代わりに」この句集では〈動物のはじまり〉が描かれているのだ。

だから「結婚」すれば「猫」が集まってくる。それは社会的属性としての「人」になるのではなく、なぜか、「猫」の方に近づいていく行為だったから。なんでかはわからない。だから「不思議な」と語り手も言っている。結婚=結合は、人と人との間に立つものではなく、人と動物の間に立つものになってしまう。

そして、最終的にこの句集ではじっさい、語り手は「鳥」になってしまう。

  眼から鳥になる願わくば鶴  田島健一

右眼から鳥になっていく語り手。「願」ってはいる。もし鳥になるなら「鶴」になりたいと。なれるかどうかはわからない。なれないような気もする。でも問題はそこじゃない。問題は、「あらゆる人のはじまりであること」は「困難」だったが、この句集では「あらゆる動物のはじまりであること」は「容易」だったのだ。芭蕉が意識と無意識の間の宙吊りの仮死状態のゾンビのような〈ぼんやり〉でも、かえるの音を聞いたように。

  蝉時雨いるような気がすればいる  田島健一


          (「俳句と和歌の革新へ」『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』集英社新書・2016年 所収)


2017年3月16日木曜日

フシギな短詩93[ドラマ『相棒』]/柳本々々


  愛は時に人に勇気を与えます。しかし愛は時に人を臆病にもします。  杉下右京


*『相棒』第3話「晩夏」と『鉄鼠の檻』のネタバレがあります。

テレビ朝日のドラマ『相棒』第3話「晩夏」には三田佳子演じる女流歌人・高塔織絵が出てくる(なぜ〈女流小説家〉という偏差ある名称はもう使われなくなったのに〈女流歌人〉はいまだに使われるのだろう。ここには短歌とジェンダーをめぐる問題があるような気がする)。

ここでなぜ「歌人」という設定が事件に必要だったのだろうかと考えてみるのはおもしろいかもしれない(おもしろくないかもしれないが)。「歌人」という属性を設定することでドラマ『相棒』にはどのようなことがもたらされるのだろう。

まずひとつは事件、殺害の動機が〈才能〉をめぐる問題になるということだ。

歌人・高塔織絵は20代の初めから注目され、歌壇の賞賛を浴び、数々の受賞を得て、結社の主催を引き継ぐが、その彼女の〈才能〉をめぐって実は殺人が起きていたことが最後にわかる。

それは彼女が師事していた歌人・浅沼幸夫(小林勝也)によるものだった。彼女が結婚して世俗にまみれ才能をつぶさないように彼女の愛するひとを毒殺したのだ。

ただやはり最後にわかるのだが、それは師匠・浅沼の表向きの理由で、本当はただの嫉妬だったらしい。師匠という立場であるにも関わらず好きになってしまって嫉妬で殺人をしたのだが、でも実は両想いだったから無駄な嫉妬だったらしい。けれどその両想いに気づいたときは相手である高塔は死んでいた、という皮肉な展開になっている。今回の事件の教訓はこうだ。気持ちはちゃんと伝えよう。

属性は、事件の殺人の動機となることがある。たとえば京極夏彦さんの『鉄鼠の檻』を思い出してもいいかもしれない。あれだけ分厚い本で、禅の蘊蓄がこれでもかと盛り込まれているが、殺害の動機はいたってシンプルだ。それは、自分は悟れないにも関わらず自分を差し置いて悟っていったひとたちがうらやましかったから。禅僧でありたい、というアイデンティティをめぐる殺人だったのだ。

事件における属性というのは、その属性からわきあがる才能のあるなし、そこから生まれる嫉妬感情をもたらす。それが殺人の動機になってくる。

ただ、表現の才能だけだったら無理に歌人でなくてもいいように思う。

今回の事件はもうひとつ短歌特有の仕掛けがあった。歌会のテーマを「背」と決めて高塔は死んでいくのだが、その「背」のために高塔が遺した歌があった。

  罪あらば罪ふかくあれ紺青の空に背きて汝(なれ)を愛さん  高塔織絵

罪を犯したっていいよ。一緒に背負ってあなたを愛するよ。という歌だと思うのだが、「背」は『万葉集』などの古語では「夫、兄弟、恋人など親しい男性」をあらわす。だからここの「背きて」の「背」にはそういう愛するひとへの情愛もたぶん埋め込まれている。ただその「背」が「背き」として使われているのがポイントだと思う。

結局この事件は愛がすれ違い続けていた。お互いに両想いでも、すれちがっていた。いくら「我が背」と思っても、その愛はつねに〈背反〉していくかたちになった。そういうすれ違いがポイントの事件だった。

短歌には「懸詞」(ダジャレのようなもの)という技法があるように、二重の意味を埋め込むにはもってこいの表現である。しかもそれは〈言わないで・言う〉ことができる。

「背(愛されるわたし)」に「背く」ことになった浅沼はこの歌を一生記憶したまま生きて死んでいくだろう。彼の「背」が背負い込んだ歌はあまりにも重いはずだ。

この回は、珍しく〈無音〉で終わる。スローになり、音が完全に絶え、終わる。短歌という音をめぐる物語は完全に終わったのだ。無音の世界。無音のエンディング。歌人が終わるということは、音の終わりの世界に向かうことかもしれない。そう、おもった。


          (「晩夏」『相棒』テレビ朝日・2011年11月2日 放送)

2017年3月13日月曜日

フシギな短詩92[夏石番矢]/柳本々々


  立入禁止・かんらからから・Coca-Cola  夏石番矢


夏石番矢さんの編著に『現代俳句キーワード辞典』(立風書房、1990年)という、俳句を季語ではなくテーマごとに分類したアンソロジーがある(実はこの本は生駒大祐さんに教えていただいた)。「キーワード辞典」という名前の通り、キーワードに沿って俳句が分類されている。夏石さんは「はじめに」でこの辞典のコンセプトを次のように語っている。

  この本は、辞典と銘打ってあるが、同時にアンソロジーでもある。詩的エンサイクロペディアと呼んでもいい。二四五のキーワード別に秀句を編集し、一つ一つのキーワードごとに、そのキーワードの歴史や意味あるいは詩的方向性をとらえながら、掲出した俳句作品を読解してゆくスタイルを選んだ。

この本で面白いのは、〈俳句〉からなにかを考えられる点ではなくて、〈テーマ〉から〈俳句〉を考えられることだ。事態が逆走することで、ふだんとはちがった発想を〈俳句〉に対して得ることができる(もしかするとすべてのキーワード事典というものはそうした役割をもつのかも知れない)。

この項目も生駒大祐さんから教えていただいたものだがこの辞典には「コカ・コーラ 〈Coca-Cola〉」という項目がある。俳句とコカ・コーラ。なかなかふだんセットで考えない発想ではないだろうか。

しかしそこには、まだ、番矢さんの一句しか置かれていない。それが掲句である。1990年の時点では辞典にはコカ・コーラ俳句はこの一句しか載らなかった。

この辞典/時点で番矢さんは「コカ・コーラ」の項目でこんなふうに記述している。

  コカ・コーラが日本に定着したのは第二次世界大戦後だが、すでに大正八年に明治屋によって輸入されていた。…
  コカ・コーラは、戦後日本のアメリカナイゼーション文化の象徴から、無国籍文化の象徴へと変質した。
  そもそも1886年にアメリカで誕生したコカ・コーラは、コカインも採れるコカ葉の抽出液とコーラ果実の抽出液を主原料にしていたが、コカ葉の使用はアメリカ政府の勧告で中止された。それでも名前に「コカ」が残っている。もともとはどこかうさんくさい商品が、無害化されて公認され、日常生活に定着してゆく運命が、この飲み物の名前に潜んでいる。

だから番矢さんのコカ・コーラの一句の「かんらからから」には「日常生活に定着し」ながらも「無害化」され空無化された〈文化物〉の〈空き缶〉のような響きがある。

「立入禁止」というタブーが無意味化していくことと、コカ・コーラが無害化しボーダーレス化していく文化的力学は足並みをそろえている。しかしだからといってそれがニヒルにも虚無にもならず、むしろコカ・コーラは現在も祝祭的であり(無害とは祝祭である)、さらに無害化どころか、コーラはやがて人工甘味料の導入によってゼロ・カロリーになり、そしてさらに驚くべきことに今やコーラは「脂肪の吸収を抑え、脂肪の排出を増加す」る「特定保健用食品」になっているのだ(誰がそんなことを想像しえただろうか)。

俳句とコカ・コーラ。わたしは今、1990年から27年たって、2017年現在にいるが、現代俳句のコカ・コーラ俳句はどうなっているのだろう。たとえば、

  古墳から森のにおいやコカコーラ  越智友亮

越智さんのこの俳句には番矢さんのコカ・コーラ俳句にあったような「コーラ」に対する〈消費物的〉まなざしはもはや、ない。プレーンに、「コカコーラ」をまなざしている。それがわかるのが、「古墳」「森」「コカコーラ」の並立である。この句では違和感なく、「古墳」「森」「コカコーラ」が当然のように並べられている。そしてこの「コカコーラ」には消費物のかおりは感じられない。むしろ「古墳」のような文化物に対するゆっくりした時間意識さえ感じられるのだ。

コカコーラ観は、変わってきているのではないか。というよりも、今や、わたしたちのとってコカコーラは消費物というよりは、いっしょに時代や歴史を過ごしてきたホームのような文化物になってきているのではないか、と言ったら言い過ぎかもしれないが、しかしこの越智さんの句には「コカコーラ」に対する過剰な距離の取り方は感じられない。あくまで平坦にコカコーラに接している。森、と等価のように。まるでコカコーラは〈自然物〉であるかのように。

  日本文化はある面で「消費文化を継続・徹底する」という、メタ伝統文化的側面を備えているとみなすことができる。
   (新井克弥「ジャパン・オリジナル化するTDR」『ディズニーランドの社会学』青弓社ライブラリー、2016年)

消費文化は継続・徹底される。

番矢さんにとって「コカ・コーラ」は「かんらからから」と笑い飛ばすべきものでもあり、そのぶん、批評的距離が確保されるものであったが、ひょっとしたら、もはやコカコーラは〈内面〉化され、距離が無化されてしまっているのではないかと私は越智さんの句を読んで思った。実はたまたま今トクホのコーラを飲みながらこれを書いているのだが、まあ、こんなふうに。

内面化とは、それに気づかなくなることなのではないだろうか。ナイこと。内(ナイ)として、気づかないこと。

「内面の吸収を抑え、内面の排出を増加」するコーラ。

コーラを内面化だなんてなにを言っているんだと言われそうだが、でも、実際、箱庭的内面とコーラが不意に接点をもってしまうこんなコカコーラ俳句もあるのだ。

  箱庭に不意に置かるるコーラの缶  関悦史


          (「コカ・コーラ」『現代俳句キーワード辞典』立風書房・1990年 所収)


2017年3月10日金曜日

フシギな短詩91[加藤知子]/柳本々々


  海峡の白菜割って十二階  加藤知子


ふだん〈俳句を読まない〉人間が〈俳句を読む〉ということの難しさを考えたときに、その難しさは、〈季語〉にあるのではなく、実は〈切れ〉にあるのではないのかと思うことがある。

わたしたちはふだん本を読むときに、テレビを観るときに、スマホを見るときに、〈切れ〉に注意していない。季語なら季節の言葉だろうなあとなんとなくわかるが、〈切れ〉に注意して読めと言われてもいったいどうすればいいかわからない。

ここで〈切れ〉に注意しながら読みつつ、なおかつ〈切れない〉ことにも注意した読みをもし、最終的にそれらを合わせ読みしてしまうというアクロバティックな読みを展開するとはどういうことかを加藤さんの句+関悦史さんの読解を例にみてみたい。

関悦史さんが『ウラハイ=裏「週刊俳句」』の「水曜日の一句」でこの加藤さんの一句に〈プロセス〉のような読みをほどこしている。そのことによってふだん俳句を詠んでいる人間がどのように俳句を読んでいるのか、俳句の読みの可能性をさぐっているのかの一例がわかるはずだ。

まず関さんは、この加藤さんの句を「素朴実在論的リアリズムに寄った読み方をしてしまえば、上五「海峡の」で軽く切れ、海峡の見下ろせる高層住宅の十二階のキッチンで白菜を割っている図ということになろうか」とさっそく「切れ」を提示している。

この「切れ」をまず感触することによってこの俳句はイメージがたちあがってくる。「海峡の白菜」ってなんだ? と性急に考えてしまってはだめだということだ。「海峡の」でいったん切ることによって、「海峡」と「白菜」を分割しながらイメージをつくる。

外山一機さんが〈俳句は接続詞を必要としない〉と書かれていたことがあったが、はじめて俳句を読む人間の〈とまどい〉はこの「切れ」た箇所を〈つなぎあわせる〉ことにあるのかもしれない。俳句は〈つなぐ〉ことによってイメージをつくるのではなく、〈切る〉ことによってイメージをつくるのだ。

ただし、じゃあ、「切れ」がわからなければもう俳句を読む〈余地〉はないのかというとそんなこともないらしいことが関さんの〈読み〉を読んでいるとわかってくる。だからふだん俳句を詠まない/読まない〈わたしたち〉にもまだ可能性はある。あきらめてはいけない。
 
  だが言葉の並びの上では「海峡の」は「白菜割って」に直結しており、あたかも白菜を割ることによって「海峡」が生成させるかのようなダイナミズムが堂々と隠れているのだ。……
  割られる白菜と海峡は「分離されている」という形姿によってすでに結びつけられているのである。

「白菜」と「海峡」で「切れ」ているのかと思いきや、「白菜」と「海峡」は《分離されている》という同じ性質が見いだされる以上、直結することもできるという。つまり、関さんは驚くべきことに「切れ」の読みの提示を示すやいなや、「切」らない読みの可能性も続けて示したことになる。

ここにはもし「切れ」として〈俳句を読む〉やり方を知らないのだとしても、俳句を自分なりに読むことができるかもしれないというひとつの読みの可能性が示唆されている。かんたんに言うと、あきらめるな、とも言っている(ように聞こえる)。

俳句は〈こう〉いう読みしかできないものだと一見考えられがちだが(決定的な俳句観、おまえに俳句はわからない)、もしかするとまったく別の読みが可能な場合もあるのであり(非決定的な俳句観、おまえにも俳句はわかるかもしれない)、そのどちらにも回収されない場合もある(かもしれない)。

わたしは実は『週刊俳句』で、はじめて関悦史さんや小津夜景さんの俳句をめぐる記事を読んだときそういった俳句の〈非決定性〉のようなものを率直に感じた。後に『俳句新空間』における外山一機さんの一連の時評を読んでいったときも〈あなたたち〉の文学ではなく、〈ぼくたち〉の文学としての俳句というものがあることを感じた。これも素直な印象と驚きとしてだ。

それがいいことなのかどうかわたしにはわからないし、そんなことは必要でないかもしれないし、そもそも「違うよ」と一蹴されてしまうことかもしれないけれど、俳句には、はじめて触れてしまった〈ぼくたち〉への余地があるかもしれないということ(ただし、同時に〈なくてもいい〉という立場もあっていいように思う。〈ない〉場所から始めるのも俳句のような気もするから。だから「かもしれない」)。

わたしたちが俳句に出会うということは、こうした読みの可能性を選択可能性として引き出し、捨て置かず、そのまま提示してある〈読み〉に出会う、ということでもあるのではないか(もちろんその逆の絶対的な〈読み〉に衝撃的に出会ってしまうのもありなのだけれど。だから「ではないか」)。

わたしは、関悦史さんの〈プロセス〉をそのまま提示していくという〈読み〉に、〈俳句〉の魅力を感じてしまったひとりだ。関さんはこの加藤さんの句を「一気にかけぬける一句」と評しているが、実は俳句を読みながらたえず「かけぬけ」ているのは関さん自身なのではないかと思うこともある。

関さんはこの加藤さんの読解を示した回の文章をこんな一文でしめくくっている。

  「白菜」にこれほどの混沌的出会いを引き寄せる通路が潜在していたとは。

〈俳句〉に、ではなく、関さんは最終的に、〈白菜〉に、驚いたのだ。

この鑑賞文の最終目的は、《白菜》におののくことにあった。

「白菜」に驚く俳句鑑賞文。しかもその白菜が用意した「通路」をかけぬけながらの。

それって少し、ずるくて、かっこよかったのではないか。ずるくて、かっこいいとは、「混沌的出会い」を用意してしまう者のことではなかったか。


          (『短歌と俳句の文学誌We』3号、2017年3月 所収)

2017年3月7日火曜日

フシギな短詩90[堂園昌彦]/柳本々々


  君もあなたもみな草を見て秋を見て胸に運動場を宿した  堂園昌彦


堂園さんの短歌で少し考えてみたいのが、語りの速度のスローな感覚である。どうして堂園さんの短歌を読むと語りの速度がゆるやかに、遅くなっていくのを感じるんだろう。

別のことばでこんなふうに言ってみてもいい。どうして語り手は一首のなかで〈意図的〉にここまで情報量をぎっしり詰め込もうとするのだろう。

掲出歌だけでなく次のような例もあげてみよう。

  君がきれいな唾を吐き出し炎天の下に左の手首が痛む  堂園昌彦

  きみは海に僕は森へと出かけてはほこりまみれのバスを見に行く  〃

  誰か何かを言い出す前の沈黙の広場の深い深い微笑み  〃

声に出して読んでみてほしい。どこかつかえるようなゆっくりな感じにならならいだろうか。

なぜそんなことが起こるのか。

わたしが思ったのは助詞の多さである。たとえば掲出歌は「も」「も」「を」「て」「を」「て」「に」「を」と助詞がたたみかけられて構成されている。ちょっと考えてみよう。〈助動詞〉ではなく〈助詞〉が多いというのはどういうことなのかを。それは、動詞・形容詞よりも名詞が必然的に多くなるということだ。だから、情報量の多さを感じるのはそのためである。名詞が多いのだ。

しかしこれは先ほども述べたように〈意図的〉に思える。つまりそういった語り口を採用することで、独自の〈時間〉を生み出しているようにわたしは思うのだ。それはこの歌集のタイトルが『やがて秋茄子へと到る』という「やがて」という〈時間のプロセス〉を喚起させていることからもわかる。

たとえばこれらの歌の〈時間〉が大量の助詞と情報によりスローになっていくときに、わたしたちに起こる意味作用はなんだろう。それは一首のなかに〈滞在〉する時間が長くなるということだ。だから掲出歌の結語の「胸に」「宿した」はその長い時間のぶん、強く〈胸に宿す〉ことになるし、「左の手首が痛む」感覚や「ほこりまみれのバスを見に行く」道程も「深い深い微笑み」の深さも強度のあるものになっていく。強度とは、共有された時間によってつくられるものでもあるから。

歌集タイトルにならっていえば、「秋茄子」への重みが出るのは「やがて秋茄子へと到る」という「やがて」「到る」時間のプロセスがあるからである。その時間の重みを引き受けて「秋茄子」の重量が出てくる。

助辞(助詞の使い方)そのものが、時間の創生につながっていくこと。そして生み出された時間そのものが言葉の強度そのものになっていく。そのことをわたしは堂園さんの歌集を読んで〈実感〉したように思う。

わたしたちは〈ゆっくり〉をつくらなければいけない。〈ゆっくり〉とは、創造されるものなのだ。

  ゆっくりと両手で裂いていく紙のそこに書かれている春の歌  堂園昌彦

          (「季節と歌たち」『やがて秋茄子へと到る』港の人・2013年 所収)

2017年3月3日金曜日

フシギな短詩89[竹井紫乙]/柳本々々


  階段で待っているから落ちて来て  竹井紫乙

竹井紫乙さんの川柳のなかでは、誰かと、誰でもいいのだけれど、誰かとつながることは〈身体感覚〉そのものではないかと思うことがある。

たとえば掲句。「待っているから落ちて来て」という。「待って」くれてはいる。しかし「落ち」なければあなたに会えない。「階段」だから「落ち」たら痛いだろう。

つまり、あなたに会うためにはわたしは傷つかなければならない。落ちなければならないし、身体に傷をつけないといけない。傷つくと、会える

だからこんなふうに言い換えてみるのも面白いかもしれない。紫乙さんの川柳のなかでは、いつでも〈会う〉ためには〈身体が人質になる〉必要があるのだと。

  再会は味付け海苔の味がした  竹井紫乙

「再会」はうれしいのでもかなしいでもない。「味」なのである。身体感覚だ。ここでも「身体」が人質として提供された。味覚として。舌を刺激し、かすかな傷から、「味付け海苔の味」が生まれる。

だとしたら逆にこの句集で身体が人質にならない句はどうなっているのだろう。つまり、身体がぶらぶらしているような句は。

  悪い事する両腕は手ぶらです  竹井紫乙

「手ぶら」の「両腕」は「悪い事」をするためにある。「悪い事」の解釈はいろいろできると思うが、〈再会〉や〈出会い〉におもむかず、自由な身体が「悪」に回収されていってしまったのはたしかなことだ。身体が人質にならない場合、「悪い事」が待っている。この世界ではフリーで〈からっぽ〉な身体はひとに結びつかず、エゴに結ばれていく。たとえば、

  夜遊ぶ底なし沼にいるみたい  竹井紫乙

  癖になる空っぽになる遊び方  〃

  透明な扉 あなたは罪深い 〃

紫乙さんの川柳のなかにおいては〈身体の傷〉こそが〈出会いの場〉となる。それは別の言い方をすれば、〈傷〉は他者と結びついてはじめて〈傷〉そのものになるということだ。それが〈身体の人質〉ということでもある。

  音も無く転ぶ祭りの真ん中で  竹井紫乙

だからあなたは〈傷〉つく瞬間はきちんと〈傷〉つかなければならない。転ぶしゅんかんは、ちゃんと声を上げて音を立てて転ばないといけない。そうじゃないと、だれも、あなたを気づいてくれなしい、待ってもくれないから。

痛い、は、つながること。

  体から色んな枝が出て痛い  竹井紫乙


          (「高天」『白百合亭日常』あざみエージェント・2015年 所収)