夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ/1人を超えてゆけ 星野源
最近星野源の「恋」の歌詞「夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ」について考えていて、これは漱石『門』の、
宗助と御米とは仲の好い夫婦に違なかった。いっしょになってから今日(こんにち)まで六年ほどの長い月日を、まだ半日も気不味(きまず)く暮した事はなかった。
(漱石『門』)
や、
屠蘇散や夫は他人なので好き 池田澄子
などの〈夫婦〉というユニットをめぐる小説や句と通底しあっている歌なのではないかと思った。
夫婦を考えるときに問題となるのは、夫婦を夫婦として意識しはじめたときに2人のあいだで逸脱してきてしまう〈なにか〉である。でもその〈なにか〉は〈なにか〉の余剰としてしか感じ取れず、〈なにか〉のままで置くしかないのだが、星野源の歌詞にも語られているように、「夫婦」を考えたとき、「夫婦」とは、「2人」とは、「1人」とは、というカテゴリーをめぐる問いが生まれてくる。
星野源も漱石も池田澄子さんもいったん〈夫婦〉というカテゴリーに沿いながら、その夫婦というユニットのカテゴリーをたどっているうちに越え出ようとしているところに特徴がある。星野源の歌の「似た顔や虚構」と言った第三者が夫婦幻想に介入してくるのも、星野・漱石・澄子に共通するところだ。夫婦は夫婦で簡潔しない。池田さんの句にあるように「他人」という第三項の問題がかかわってくる。
たとえばこの池田さんの句を漱石『門』になぞらえるなら、
屠蘇散や夫は他人(の安井がいるから)なので好き
ということになる。
二人はそれから以後安井の名を口にするのを避けた。考え出す事さえもあえてしなかった。
(漱石『門』)
は、逆にどれだけ安井を夫婦が意識しているかを〈逆語り〉している。安井から駆け落ちするように逃げるように2人になった2人。私は星野源の恋ダンスをほんとうは漱石『門』の野中夫婦に踊って貰いたいなあと思ったりもする。例えば野中宗助が、野中御米が、恋ダンスを踊りながら「夫婦を超えてゆけ/2人を超えてゆけ/1人を超えてゆけ」の部分でなにを思うのか。いや夫婦というユニットを考え続けた漱石に恋ダンス踊ってもらいたい。
夫婦であるということは、夫婦というカテゴリーを考えると同時に、2人であるとはどういうことかを考えると同時に、1人であるとはどういうことかを同時に考えることでもある。そして時々たぶん私たちはその夫婦という、2人という、1人というカテゴリーを〈恋〉によって(なんとなく)超えてしまう。
星野源の歌でも「似た顔や虚構」という〈脅威〉が迫っているように漱石『門』でも「安井」という夫婦存在を脅かす「似た顔や虚構」が現れる(宗助は脅えるがその安井がどの安井なのか作品では結局明らかにならないぶん、宗助は「似た顔や虚構」に怯え続けることになる)。
そうして父母未生以前と、御米と、安井に、脅かされながら、村の中をうろついて帰った。
(漱石『門』)
宗助は最終的に、じぶんの存在の根っこと、妻と、妻のかつての夫婦となろうとした相手に、おびやかされることになる。つまり、夫婦で今じぶんがたまたまいることの可能性、夫婦がこわれることの可能性、夫婦でなかったことの可能性、のみっつのねじれ≒夫婦ループのなかにはいりこんでゆく。
夫婦というユニットの静かな危機と崩壊を描き続けてきたのが劇作家の岩松了で、『水の戯れ』や『テレビ・デイズ』でなんとなく・しずかに・はげしく・こわれていく夫婦を描いている。
夫 でもキミは、その前、自分だけの問題じゃない。ふたりの問題だって言ったよ。
妻 問題なんて言わないわ。生活だって言ったのよ。
夫 ……。
妻 ……。
夫 生活って?
妻 ……。
夫 ……。
妻 生活よ……。
(岩松了『テレビ・デイズ』)
『水の戯れ』では、もう「結婚」しているのに、「ちゃんと結婚してないような気がする」と夫の春樹が言い始める。しかし、「ちゃんと結婚」するとはどういうことなのか。夫婦に「ちゃんと」を持ち込みはじめたとき、その夫婦は、どうなるのか。夫婦を、2人を、1人を、ひとは、どうやって、越えられるのだろうか。恋ダンスのねじれるようなダンスは、その答えがアクロバティックにしか見いだせないことをあらわしているかもしれない。
ちゃんと2人になりたい、ちゃんと2人でいたい、ってどういうことなんだろう。おおくの〈2人〉がといかけていること。
春樹 ちゃんと結婚したい……
明子 え?
春樹 ちゃんと結婚したい。
明子 どういうこと?
春樹 ちゃんと結婚してないような気がする……。
(岩松了『水の戯れ』)
(「恋」・2016年 所収)