山寺の冬空を掃く音と思ふ 井越芳子
句会の兼題に「思う」が出されたことがある。句会メンバーの一人から異議が唱えられた。俳句は思っていることを書くのだから、句の中に「思う」を入れるのは如何なものかという趣旨だった。わざわざ「思う」を一句の中に入れなくてもよいという意見に一理はあるが、あえて「思う」と言いたい時もあるだろう。
〈妻がゐて夜長を言へりさう思ふ 森澄雄〉「さう思ふ」にとても惹かれる。
掲句の「思ふ」も然り。〈冬空を掃く音と思ふ〉には、断定ではなく、敢えて「私はそう思う、思いたい」という微妙な心の綾が感じられる。
山寺という人里離れた静謐な場所。冬空を掃く音とはどんな音なのか、ここには実体がない。けれどもなぜか惹かれてしまうのだ。
天上の何か大きな存在が冬空を掃く。それが雪空だったなら、掃かれたものはふわふわと真っ白い雪になって地上へ降って来るだろう。その雪の降る音。
冬空が冷たくからりと晴れているのなら、物みな鮮やかに青く冴えていく音。
その音は心で聴く音。「そう思う」人のみに聴こえる音にちがいない。
句集『雪降る音』(2019年/ふらんす堂)所収〉