眼鏡屋めがね磨きゐて夕日の薄れやう 村野四郎
『自由律俳句誌『層雲』百年に関する史的研究』(小山貴子著 h25)には、現在あまり目にすることのない自由律俳人のポートレートや、「層雲」創刊号の表紙写真、多く掲載されていた挿絵、「層雲」の衛星誌など、56ページにわたる貴重な図版が載せられている。そこからも当時の俳誌の面影が伺えて興味深いのだが、
俳句は中学時代には投句が始まっているが、明治三十五年数え年十九歳の頃には、愛桜の名で俳句雑誌『俳声』、『ホトトギス』、『半面』や新聞「日本」等々に盛んに投句していた。やがて日本派一辺倒になって真剣に句作するようになり、明治三十六年に浅茅、紫人と共に一高俳句会を再興し、碧梧桐庵での句会に参加するようになる。俳句に熱中するあまり第一高等学校の二年生に原級留置になっている。
(『自由律俳句誌『層雲』百年に関する史的研究』)
という荻原井泉水が創刊した「層雲」誌の歴史を、当時の時代背景を交えて綴っている。明
治の文壇との関わり、また、様々な経歴の人々が黎明期の「層雲」誌に投句していたことは、
現在の自由律をめぐる状況を考える鍵になるかもしれない。
今日の句の、村野四郎は詩人として知られているが、学生時代は「層雲」誌にも投句して
いた。これは、大正十年四月号から大正十二年三月号に掲載された7句中の一句。他の多く
の作家による自由律俳句が多少なりとも境涯性を帯びているのに比べて、無心の職業従事
者の動作に詩的な夕景を見出した句だ。おそらくメガネをかけているであろう眼鏡屋のあ
るじの顔のメガネに差す光と、手元に磨かれたメガネの反射するレンズの光、作業する店の
夕あかり。柔らかな言葉の流れに、一日の就業の終わりの安堵感も滲む。
あなあたたかく燃ゆる火が身に近くあり 芹田鳳車
アメリカへ来て足なへとなりベッドの蠅打つ 下山逸倉
月へ一本手紙出して置く 木村緑平
こしかけて鳥の行く空 酒井仙酔楼
日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴 海藤抱壺
あれこれたべさせてたべて我子であり兵であり 池田詩外楼
最後にいふ言葉も言つてしまうと征ってしもう 堀英之助
(『自由律俳句誌『層雲』百年に関する史的研究』 h25)