棒のごとき悲しみを持て霜を踏め 『手帖』虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」を踏まえ、さて、虚子の言う「棒の如きもの」を普遍的なものとして捉えるなら何にあたるだろうと考える。時間、と考えるのは容易いが、では時間とは何だろう。世界の後戻りできない動きであり、世界を貫く或る法則なのだろうと思う。「一切は壊法なり。謹んで精進すべし」とは仏陀の臨終の言葉であった。「全てのものは壊れゆく。だから絶えず精進して道を求めなさい」の意である。「棒の如きもの」とは、一つには人間の感情などものともしない世界の激流に似た営みであり、一つにはその世界さえも永久の確たる実体など無いという法則であろう。ならば、「棒の如き悲しみ」とは、世界の一切が人間の感情などかえりみず、且つ一切が壊法であるという現実に対した時の人間の悲しみである。即ち、無常への悲しみであろう。そう読ませるのは、下五に、美しく儚い霜が配せられていること、且つ、その霜を「踏め」と云う作者の思いである。平成十八年作。