2017年1月13日金曜日

フシギな短詩75[昔昔亭桃太郎]/柳本々々


  「『働けど働けどなおわが暮らし楽にならざりじっと手をみる』、これをつくったのは誰だ?」「簡単だよ。石川豚木(ぶたぼく)」  昔昔亭桃太郎

落語家の昔昔亭桃太郎の落語「春雨宿」に、宿をさがしながら二人で知能テストをするやりとりがある。そこで出てくるのが上記の問答。男は石川啄木を石川「豚」木と勘違いして答える。たしかに啄木は、豚木にみえることがある。

ここでちょっと考えてみたいのが、誤字/誤記についてだ。よく誤記される短歌に次の歌がある。

  ハーブティーにハーブ煮えつつ春の夜の嘘つきはどらえもんのはじまり  穂村弘
   (『世界中が夕焼け』新潮社、2012年)

山田航さんとの共著『世界中が夕焼け』において、穂村さんはこの歌の「どらえもん」についてこんなコメントをしている。

  「どらえもん」も、あのドラえもんとはちょっとやっぱり違ってしまっていて、だから、ひらがな表記なんです。春の夜に溶けかけているような「どらえもん」というのかな。……僕の体感では「春の夜」と「嘘」はわりと近しいものなんですね。
   (穂村弘『世界中が夕焼け』同上)

つまり、「どらえもん」には平仮名表記としての〈ちゃんと〉した意味があるということなのだが、それでもたびたび〈ドラえもん〉と誤記されるのもこの歌が背負っている「春の夜」の「なんでもあり」なマジカルな感じとも言える。

この歌は誰かがどこかに書き写すたびに「ドラえもん」と誤記される可能性をずっと背負いつづけているのだが、しかしそれでも正確な表記は「どらえもん」である以上、「どらえもん」と「ドラえもん」の両極に揺れながら往還しつづけることになる。

私はこの歌の〈ふわふわ〉した「春の夜」の感じは、こうしたオーディエンスさえ、煙に巻き込んでいくところにあると思う。誤記という受容のされ方も含めて、オーディエンスをふわふわした「春の夜」の〈ほうけた共同体〉として立ち上げていくのだ。

誤記を介して、あなたは、惚ける/呆ける/ほうける。

つまり、誤記というのは〈ただされる〉ものであるとともに、ひとつの〈意味表現〉をなしてしまうということなのだ。この「嘘つき」をうたう歌は、オーディエンスを〈嘘つき〉にさせてしまう。しかし、それこそが「春の夜」のこの歌の〈本分〉なのではないか。

「ドラえもん」といえば、こんな有名な川柳がある。

  ドラえもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

私は川柳において何か悩んだり行き詰まったりすることがあるたびに樋口由紀子さんの『川柳×薔薇』をひらくのだが(私は川柳の読み方をこの本で学んだ)、この『川柳×薔薇』ではじめて柊馬さんのこのドラえもん句にふれた。樋口さんの本にはこういう表記で載っていた。

  ドラエもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

だからこの「ドラエもん」表記でずっと覚えていたのだが、後に柊馬さんの句集で確認したら、「ドラえもん」になっていたので、「ドラえもん」が正しいのかもしれない。しかし、川柳にはひとつの句に対して幾つものバージョンがある場合があるので、もしかしたら最初は「ドラエもん」だったのかもしれない。本当のことは私にはわからないが、ここで言いたいことは、「ドラえもん」という表記は、わたしたちを「春の夜」のように惚けさせる/呆けさせる力があるということだ。誤記によって。

正確な表記を考えているうちに、いったいなにが正解なのかわからなくなってゆく。しかし、それこそ、「春の夜」性であり、「ドラえもん」性ではないか。ほんとうの「正解」なんてないのかもしれない。「ハーブティー」に「ハーブ」が煮えて同語反復していくように。

そして、だからこその「探しにゆきませんか」なのだ。「ドラえもんの青」なんて見つからないかもしれない。わたしたちは誤記の手前でドラえもんに出会いそこね続けるのだから。

でも、同時に、「ドラえもん」は「どらえもん」として「ドラエモン」として殖えつづけていく。わたしたちは、間違いを犯しながら、誤りながら、おびただしい〈ドラえもん〉たちに出会いつづけていく。

誤記とは、なんなのか。

そう言えば、哲学者の西川アサキさんによれば「誤字」について哲学的に考えたのはキルケゴールだと言う。ちゃんと西川さんの本を読んだけれど私の記憶に誤りがあるかもしれないので(私の頭もときどきふわふわしている)、説明はしないで引用文だけ置いておこうと思う。メモ帳には「文句を言う誤字」と書かれている。おもしろそうだ。

  しかし、両立しない可能世界を認める世界観、誤字の世界観とはどのようなものなのか? そもそも「誤字」とはいったい何なのだろうか? 神ではなく、人が著者である時の誤字というのは、要するに意図=計画したのとは違う文字が、なんらかのはずみで残ってしまったというようなものだろう。ここで重要なのが「なんらかのはずみ」だ。……キルケゴールが生んだ「文句を言う誤字」。
  (西川アサキ『魂と体、脳 計算機とドゥルーズで考える心身問題』講談社選書メチエ、2011年)


          (「落語「春雨宿」」『日本の話芸』NHK・2016年11月13日 放送)