2017年6月10日土曜日

続フシギな短詩125[高橋順子]/柳本々々


  いつも誰かの電話が気になっていたこと
  何もしなくてもいい一日があったこと
  暗くなるまで詩を書いたこと
  横着だと責めない男たちと
  野山を歩いたこと
  晩ごはんをぬいたこと
  いつもご破算にできると思っていたこと
  さようなら  高橋順子「いつも誰かの」

高橋順子さんの詩集に『時の雨』がある。48歳でふいにぶつかるように思いがけなく出会い結婚した小説家の車谷長吉との生活が軸に描かれたものだ(私は以前、この〈生活〉のことをこのフシギな短詩で車谷長吉の側から書いた)。高橋順子は詩集の「あとがき」でこんなふうに書いている。

  晩い結婚の二年四ヶ月後、連れ合いが強迫神経症を発病しました。…ものに怯える家人は、私に対してもまた怯えたのでした。私たちは自由に息をすることができなくなり、緊張の日々を過ごしました。 連れ合いの書く小説には髪の毛一すじの狂気が宿っていることに私は無意識であったわけではありません。それは、文学だと思っていたのです。生活とは別次元のものだ、と。ところが或る日、文学が生活に侵入してきてしまった。日常が非日常の霧におおわれてしまった、ともいえます。そのとき、人はどうするか──。 生活を強引に文学にしてしまうこと。自分を全力で虚の存在と化し、文学たらしめること。 
  (高橋順子「あとがき」『時の雨』青土社、1996年)

上に引用した「いつも誰かの」という詩が収められたこの詩集『時の雨』は「あとがき」から解釈すれば、〈車谷長吉との生活〉を描いたものなのだけれど、私はこの詩集を〈二人〉というユニットをとことん詩によって考え抜いた詩集として読んでもいいのではないかと思う。

ふたり、で生きるとはどういうことなのか。ひとりじゃなくて。

たとえばそれは「いつも誰かの」〈わたし〉であった〈わたし〉が自分から〈失われ〉てゆくことだ。ひとりだった私の〈いつも誰かの〉に焦点化された生活は、ふたりになった私の〈あなた〉へと再焦点化されていく。あなたは、わたしから、なにもかもを奪っていくだろう。二人で生きるとは、そうした劇的な経験だから。

  俺、ときどき思うんだけど、恋愛をするという行為は、人が一杯いる中で二人きりになろうとする行為じゃない? だから、恋愛は良いことなんだけど、もっと大きな目で見れば、ほとんど2人で破滅しようという行為に近いなと思って。絶対、その2人だけでは成立しないものが生まれてくる。「そのことを知っていて尚、なぜ人は恋愛をするのか?」というのを考えることがある。
  (岩松了「対談:岩松了×若手写真家 第1回●中村紋子/世間に対してどう立ち向かっていくか?」)

すなわち。

いつも誰かの電話が気になっていたことが失われ(不特定関係の喪失)、何もしなくてもいい一日が失われ(不特定時間の喪失)、暗くなるまで詩を書くことが失われ(不特定表現の喪失)、横着だと責めない男たちと野山を歩くことが失われ(不特定気ままの喪失)、晩ごはんをぬくことが失われ(不特定生活の喪失)、いつでもできたはずの人生のご破算=リセットが失われる(不特定破壊の喪失)。

こうしたおびただしい喪失をくぐり抜けながら、「いつも誰か」になれる〈わたし〉を失っていく経験、同時に、「いつも誰かの」〈わたし〉になれる〈わたし〉を失っていく経験。それが、〈ふたり〉で生きるということだ。

この詩のすべての行末が「こと」で終わりになっていることに注意しよう。そして最後にこの詩が「さようなら」で終わっていることに注意しよう。

「こと」への「さようなら」の詩なのだ。〈ふたり〉で生きるということは、〈ことの終わり〉でもあるのだ。

自分が〈こうこうこうしたい〉をコト化しようとするとき、それに疑義や異議を挟む〈あなた〉が出てくる(これはこのフシギな短詩の千春さんの回でも書いた)。それが二人で生きてゆくときの〈あなた〉である。

だから、二人で生きるわたしは容易にコト化できず、コトの挫折を味わうようになる。わたしはコト化できない人生のなかに入っていくが、しかしそれは新しい人生の価値観になるかもしれない。この世界にはわたしが容易にコト化できないものもあるんだと。わたしと暮らす〈あなた〉はそれを教えてくれるから。あなたはわたしに豊かな挫折をくれる。

ふたりで生きるとはそういうことなのだ。

恋愛だってもしかしたらそうかもしれない。わたしとあなたは、たゆまずコト化できないコトにふたりで取り組む。きょうはこんな新しいコトがあったね。未知だったね。コト化できなかったね。すっごいね。とんでもないね。こんな詩を思い出してもいいね。

  はてしのない場所にいた
  草いっぽんはえていない
  だれもいない
  こころぼそい場所に

  おとなになって
  世の中は秩序だち
  緑豊かな涼しい場所で
  私は仲間と安心を得た
  それなのに、また

  あなたに会って
  こんなに遠くまで来てしまった
  草いっぽんはえていない
  こんな荒れはてた
  こんなさびしい
  こんな茫々とひろがるはてしのない場所に
  また
  (江國香織『江國香織詩集 すみれの花の砂糖づけ』)

コト化できない場所、「はてしのない場所」、「草いっぽんはえていないだれもいないこころぼそい場所」、「こんなに遠」い場所、「荒れはてた/さびしい/茫々とひろがるはてしのない場所」、それがコト化できない場所だ。でも、そのコトがすべてうしなわれた世界には〈あなた〉がいる。なんで?

わたし〈たち〉は〈ふたり〉だから。

  枯れ草のような しようもない男につかまった」
  踊りやまなかった枯れ枝が風に飛ばされとばされ
  土をつかんでじっとしていた枯れ草と出会った のだそうだ
  時の雨の中で
  せわしい雨だれの中で
   (高橋順子「時雨」『時の雨』)

「草いっぽんはえていないだれもいないこころぼそい場所」で「枯れ枝」が「枯れ草」に出会う。「中で」とこの詩は文の〈途中〉で終わっている。体言=名詞=コトではなくて。コトがぐずぐずしたなかに、これから、出会ったふたりは、入っていくのだ。すべてを〈途中〉化させる世界に。雨の降り続ける時の雨の世界に(雨とは、〈途中〉の象徴なのだ)。

この詩集『時の雨』はこんな詩でおわる。

  精神病院からの帰り道
  休耕田の真ん中に生えている一本の
  椎の木の下に坐り
  おにぎりを食べた
  野漆と耳菜草の名をおぼえた
  模型飛行機をとばしている人たちがいた
  川で釣りをしている人たちがいた
  いつかきっとこの木のことを思い出すだろう
  二人ともまだ若かったころ
  木の下に坐ったことがあった と
   (高橋順子「この木のことを」同上)

コトにお別れを告げたこの詩集『時の雨』は「この木」という世界でたったいっぽんの「木」を発見する。二人をめぐる「この木」。それは二人のコトである。その「木の下」で「おにぎり」を食べた。「おにぎり」=名詞=コトを手に入れた。野漆と耳名草の「名」をおぼえた。コトを手に入れた。模型飛行機を飛ばし川で釣りをしているひとたちという思い出を手に入れた。コトを手に入れた。そうして「いつかこの木」という「いつか誰かの」に代わるものを「二人」で発見した。「木の下に坐ったことがあった」と。

そういうかたちで、二人は、コトを手に入れた。

  「あなたの部屋に行ってみてください」
  と連れ合いになる男が言う
  ……
  似過ぎているものをもっていることを
  喜ばずに惧れた
  知らなくてもいいものを
  知ってしまうことがあるだろう そのときは
  野の花がわたしたちを見ていてくれますように
   (高橋順子「あなたの部屋に」同上)

          (「いつか誰かの」『現代詩文庫163 高橋順子詩集』思潮社・2001年 所収)