2017年6月21日水曜日

続フシギな短詩127[疋田龍乃介]/柳本々々


  700枚の閉ざされたあなたが
  書いた長編スピーチ文の中の湯船にすら
  簡単におぼれてしまっている自分が
  いることへの僕は毎日可愛がって
  可愛がってしていた犬と
  ゆく末をサイコロの目と睨みあい
  決断している朝
  唱えるように
  いぬがひ、げのがん、  疋田龍乃介「犬がひげのがん」

この疋田さんの詩が収められた詩集『歯車 vs 丙午』の栞文のなかで渡辺玄英さんがこんなふうに書かれている。

  言葉は言葉であるかぎり、完全に意味から逃れることは出来ない。しかし、詩は、言葉が逃れられないはずの意味から自由になれる瞬間を可能にする。
  (渡辺玄英「迂回して虹を」)

詩は、意味から自由になれる瞬間がある。たしかに詩を読んでいるとそう感じるときがある。しかし、《なぜ》そう感じることができるのだろう。

例えば疋田さんの上の詩をみてほしい。

この詩においては「が」が意味をたちあげようとすることを非常に〈邪魔〉してくることに注意したい。たとえば詩の一行目の「あなたが」がこれからの一節の主語なのかと思いきや、三行目に再び「自分が」と出てくる。じゃあこれが主語なのかと安心しようと思ったせつな、その「自分が」は「いることへの僕は」と「僕は」に回収されてしまう。

どうも、この詩においては、〈が〉の磁力のありかたが、おかしい。〈が〉が出てくるとまるで砂鉄を集めるように、言葉の磁場が変容する。

とりあえず「僕は」が主語でよさそうなのだが、すぐさま、「可愛がって/可愛がってしていた犬と」と再び〈が〉の近辺の磁場がゆらいでいる。わたしたちがふだんのシンタックス(文の立ち上げ方)では〈しないやり方〉で文がたちあげられている。

なんでこんなことになったんだろう。

だんだん、詩を読んでいると理由がわかってくる。

引用の最後の一行に、「いぬがひ、げのがん、」と語られている。ここからまだまだ詩は続くのだが、この「いぬがひ、げのがん、」に注意したい。この詩のタイトルは、「犬がひげのがん」だが、語り手は「犬がひげのがん」とまとまった言葉の意味として把捉しようとはせず、「いぬがひ、げのがん、」とすでに意味のまとまりを手放している。ということは、この語り手は、意味単位で文章を構成していくというよりは、「が」単位で語りを構成していくかもしれないということを表している。

このあとこの詩は「げのがん、げのがん、」という言葉や「犬ヶ髭」という言葉を見出していく。やはり、〈が〉から発想されていく造語である。

つまりこの詩は〈意味〉でわかろうとすると、返り討ちにあうかもしれなくて、語り手が〈が〉の磁力によって、文章という磁場を変容させようとしているんだ、と読もうとすることによって読める詩かもしれないのだ。

私は以前、詩とは語っていくうちに、みずから形式を発見していくものだと述べたけれど、詩とはもうひとつ大事な役割がある。語りながら、言葉の磁力や磁場をそのつどそのつど変容させていく役割だ。詩力(しりょく)とは、磁力(じりょく)でもある。

  いつも客席から彩るような
  かるがもがな可能なら
  かもとかもとか
  たとえばさような
  さようならのような
  叩き割っても結び合わされる
  これが世界なのかも、虹の裏かもしれないな
   (疋田龍乃介「直結の虹」)

ことばは実は大事にしなくていい。たたきわったって、いい。

言葉を叩き割ると、おどろくことに、結び合わされるものがある。言葉はタフだから、叩き割っても叩き割っても、言葉はこわれない。こわれないので、私たちは「これが世界なのかも、虹の裏かも」という言葉の裏側にまわりこむことができる。ただそれをふつうの感覚でやってしまうと、わたしたちはあっち側に行ったまま〈帰ってこられなくなる〉かもしれないので、わたしたちはその行為に名前をつけた。

詩、と。

          (「犬がひげのがん」『歯車 vs 丙午』思潮社・2012年 所収)