2017年6月28日水曜日

続フシギな短詩137[山川舞句]/柳本々々


  怒怒怒怒怒 怒怒怒怒怒怒怒 怒怒と海  山川舞句



中7の「怒怒怒怒怒怒怒」は正しくは逆さまになって印刷されている。鈴木逸志さんによればこの舞句さんの句が高田寄生木賞を取ったときに選者の次の評があったという。

  3・11を一句で表現すればこうなる、これは人の怒りではなく、人に対する海の怒りであろう。特に中七の怒の連発には逆巻く海の怒りが込められている。それにしても津波の音を「怒」で表現できるとは、思ってもみなかった作者の発見である。川柳が強い詩歌として前進するキッカケとなるだろう。

そのとおりだと、おもう(ちなみにこの評は私が調べたところによれば渡辺隆夫さんの言葉である)。

ここでは少し違った視点からこの句を読み直してみたい。

〈怒り〉というものの伝達不可能性(表象不可能性)の視点から。

たとえばこの句を虚心に読むとどうだろう。とりあえずものすごく怒っている句だと言えるだろう。語り手はほんとうに怒っている。だから怒を連打している。それはよくわかる。

だがもし中の7音が逆さま表記ではなく、ふつうの表記だったらどうだろう。どれだけ怒を連ねても、〈ただ珍しい〉ものとして即座に「コピペ」されるだろう。これだけ語り手が怒っているのに、「コピペ」する者はまったく手間をかけずにコピーし、ペーストし、こんな面白い句があるんだよと伝えるだろう。

しかし、それでいいのだろうか。怒り、ってそういうものなのだろうか。

舞句さんの句では中7の「怒」がぜんぶ逆転している。それは、〈打ち込めない〉。舞句さんの句の怒りは舞句さんの句のなかにある。それは移動も転写もできない。そして、それは印字されるたびに、そのつど・そのたびに、あらたに生成されるだろう、いろんな濃度で、いろんな大きさで、いろんな文字間隔で、いろんなフォントで。

この句の怒りとはそういうものではないか。そのつど、そのたびごとにしかみいだしえない怒り。かんたんに近づかないでくれという怒り。かんたんに処理しないでくれという怒り。

ひとの普遍的な怒りだ。

わたしは短詩における記号操作というものは実はそういうアナログな機能があるのではないかと思っている。句をハイテクにしていくのではなく、もっとローテクにしていくための。

怒るということは、とても手間がかかることだ。しかし手間とは、怒りなのだ。あなたも手間をかけろ、というのが、怒りなのだ。かんたんに私の怒りを転送されては困るのだ。それだけのことが、起きていたのだ。

  類似品注意と類似品が言う  山川舞句  


          (「山川舞句作品(広瀬ちえみ抄出)」『杜人』254号・2017年6月号 所収)