2017年9月9日土曜日

超不思議な短詩210[山田航]/柳本々々


  夏はゆく何度でもゆくだから僕は捕まへたくて虫籠を置く  山田航

前回、〈たった一度きりの夏〉の歌の記憶の話をしたのだが、その記憶をまったく逆用=転用してしまうこともあるのではないか。

山田さんの歌では「夏」はもう〈たった一度きり〉の表情はみせていない。「夏はゆく何度でもゆく」と、夏の絶対性ではなく、夏の複数性が展開される。

けれどもそうした夏に対して刹那的・虚無的な態度をとるのではなく、「僕は捕まへたくて虫籠を置く」と極めて具体的(虫籠)で身体的(捕まへ)で積極的(たくて)で、それでいて、〈待つ〉(虫籠を置く)という受け身の姿勢が同時にあらわれる。

この積極的受動性のようなものは、山田さんの歌のあちこちにあらわれる。

  水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ  山田航

「水飲み場の蛇口をすべて上向きに」するという力強い積極性が発揮された後で、しかし「上向きにしたまま空が濡れるのを待つ」という受動性が歌の後半、展開される。つまりこの歌では、積極性と受動性が対立しあっていて、かつ、「まま」という言辞がそれらを結びつけ、積極的受動性のようなものが展開されている。

それをこういう言葉であらわしてもいい。潜勢力、と。

  僕らには未だ見えざる五つ目の季節が窓の向うに揺れる  山田航

四季しかわたしたちには見えていないのだが、語り手は「五つ目の季節」を窓の向うに感受している。季節の潜勢力を感じているのだと言ってもいい。世界の潜勢力を感じ取ること。そしてここにも絶対化ではなく、複数化された季節によって世界の潜勢力を感じ取る心性が感じられる。

こんなふうに言ってもよいのはないだろうか。山田さんの歌においては世界の複数性を感じ取りながらも、その複数性を分岐される弱さとしてではなく、まだ発見されてない隠れたエネルギー、潜勢力として感じ取っているのだと。

  たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく  山田航

かつて取り上げた歌だが、「たぶん」というのは認識の複数性だ。たぶんこうなんだけれど、もしかしたらああかもしれない。たぶん親の収入は超せないんだけれどでも超せるひともいるかもしれない。いるかもしれないが、でもたぶん超せない。そしてその主体は「僕」が複数化された「僕たち」である。

でもだからといってそれらの複数化された世界が虚無的になるというわけでもない。「ペットボトルを補充してゆく」というのは、エネルギーを蓄えてメタファーにもなってゆく。なんらかの潜勢力の予兆のようなものはここに感じ取れないだろうか。これをコンビニエンスストアのアルバイトとしてとらえることはたやすいのだけれど、しかしそれにしては「を補充してゆく」からは〈待っている力〉のようなものを感じ取ることができる。

  思考するというのは、たんに、これこれの物やしかじかのすでに現勢化した思考内容に動かされる、という意味であるだけではない。受容性そのものに動かされ、それぞれの思考対象において、思考するという純粋な潜勢力を経験する、という意味でもある。
  (アガンベン『人権の彼方へ』)

複数化する世界は認めてしまう。でもその複数性のなかに潜在的な力を待機させること。それが短歌として形象化されたのが山田さんの歌のように思うのだ。だとしたら、それは希望といってもいい。

  花火の火を君と分け合ふ獣から人類になる儀式のやうに  山田航


          (「桜前線開架宣言・紀伊國屋書店新宿本店限定購入特典・2015年12月 所収)