およそ日刊「俳句新空間」
-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
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現代川柳
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2017年10月3日火曜日
超不思議な短詩233[シルバー川柳]/柳本々々
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寝てるのに起こされて飲む睡眠薬 シルバー川柳(瀬戸なおこ) ある俳句の方が、俳句の認識における〈過入力〉の話をされていて面白いなと思ったことがある。 俳句は〈短い〉ので過剰な入力を施すことで、〈過剰な認識〉が形式化される。例えば雑に言えば、古池やカエルの飛び込む...
2017年9月17日日曜日
超不思議な短詩221[井上法子]/柳本々々
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煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火 井上法子 短詩のなかで〈鍋〉は〈鏡〉のようにとても大きな意味を持っている。 わが思ふこと夫や子にかかはらず大鍋に温かきものを煮ながら 石川不二子 「大鍋に温か」いものを煮ながらわたしの「...
2017年9月13日水曜日
超不思議な短詩217[笹田かなえ]/柳本々々
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夢に見る猫はわたしの夢を見る 笹田かなえ 教師と生徒の言語が渡り合う世界の話を前回したが、じゃあ、ひとと猫が渡り合う世界は、どうだろう。 そうしたひとと猫がからまりあいながらひとつの世界をあらわす句としてかなえさんの句をあげてみたい。 よく猫は擬人化され、飼...
2017年9月11日月曜日
超不思議な短詩215[加藤久子]/柳本々々
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私って何だろう水が洩れている 加藤久子 以前、サラリーマン川柳は主体がはっきりしているのに対して、現代川柳(詩性川柳)は主体がはっきりしていない、それは現代川柳というジャンルが主体性を支えているんじゃないかという話をしたのだが、例えば、加藤さんの掲句。 「私って...
2017年9月8日金曜日
超不思議な短詩206[復本一郎]/柳本々々
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「俳意」とは、俳諧性の(庶民性・滑稽性)のことである。 復本一郎 復本一郎さんが「川柳のルーツ」を次のように書いている。 川柳のルーツ「江戸川柳」は、俳句のルーツである俳諧から派生したところの雑俳前句付という文芸として誕生したものであった。それゆえ、俳句と...
2017年8月24日木曜日
続フシギな短詩175[荻原裕幸]/柳本々々
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コミックのZの羅列のあるやうな眠りをぬけてどこかへ行かう 荻原裕幸 荻原裕幸さんの歌/句はいつも〈書字的意識〉に非常に鋭敏だと思う。書字的意識というと難しいのだが、やっぱりこういうしかなくて、これは〈書く〉ということと〈字〉ということを同時に意識している意識というこ...
続フシギな短詩174[米山明日歌]/柳本々々
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鏡から帰って米を研いでいる 米山明日歌 『川柳ねじまき』からもう少し続けてみようと思う。 前回、川柳の主体は〈想像界〉からやってくると述べて終わったけれどまさにこの明日歌さんの句がそれをあらわしている。 「鏡」というイメージの想像的写し合わせの世界から「帰っ...
続フシギな短詩173[瀧村小奈生]/柳本々々
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まだすこし木じゃないとこが残ってる 瀧村小奈生 小奈生さんの川柳にとって「木のとこ」と「木じゃないとこ」を確認するのはとても大切な作業になる。たとえばこんな句がある。 息止めて止めて止めて止めて 欅 瀧村小奈生 〈そう〉なろうと思えば、息を止めつづけ...
2017年6月23日金曜日
続フシギな短詩131[Sin]/柳本々々
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ビリビリと剥がされてゆくコンビニのおでん Sin Sin さんの川柳を読んでいると、ある現代川柳の志向性のようなものが見えてくるのではないかと私はおもう。 たとえば掲句。「コンビニのおでん」が「ビリビリと剥がされてゆく」のだが、ここで語り手が着目して...
続フシギな短詩129[月波与生]/柳本々々
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悲しくてあなたの手話がわからない 月波与生 私は2013年の秋から川柳と短歌を投稿し始めたのだが、そのときネットで現代川柳においてどう活動していくかを模索しながら日々精力的に実作されていたのが月波与生さんだった。私は月波さんがいる「おかじょうき」に興味をもってその後...
2017年5月7日日曜日
続フシギな短詩108[榊陽子]/柳本々々
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さあ我の虫酸を君に与えよう 榊陽子 きのうの「川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな」というイベントで小池正博さんがあげられた十句選のなかの一句。 小池さんはこの榊さんの句に表現されている〈悪意〉に着目した。 悪意 。 「虫酸」というのは「胃から口へ出てく...
2017年5月1日月曜日
続フシギな短詩107[佐藤みさ子]/柳本々々
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生まれたてですとくるんだものを出す 佐藤みさ子 樋口由紀子さんは『MANO』終刊号を鴇田智哉論で終わらせたが、それでは小池正博さんはどうだったのだろう。 小池正博は『MANO』終刊号を佐藤みさ子論で終わらせた。 樋口さんが鴇田さんに見出したのは言葉から生まれ...
2017年3月30日木曜日
フシギな短詩97[大川博幸]/柳本々々
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あやふやなものがあって確かめたらあやふやだった 大川博幸 石寒太さんが『俳句はじめの一歩』という本のなかでこんなことを書かれている。 私の先生の加藤楸邨も、「俳句はもののいえない文学」と、はっきりいっています。 ( 石寒太『俳句は...
2017年3月26日日曜日
フシギな短詩96[石田柊馬]/柳本々々
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妖精は酢豚に似ている絶対似ている 石田柊馬 不思議な句だ。 「絶対」とは言いながらも、その「絶対」を言ってしまったがために、「絶対」が〈絶対〉をくつがえしてしまっている。 いったい私はなにを言っているのか。 つまり、こういうことだ。《...
2017年3月3日金曜日
フシギな短詩89[竹井紫乙]/柳本々々
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階段で待っているから落ちて来て 竹井紫乙 竹井紫乙さんの川柳のなかでは、誰かと、誰でもいいのだけれど、誰かとつながることは〈身体感覚〉そのものではないかと思うことがある。 たとえば掲句。「待っているから落ちて来て」という。「待って」くれてはいる。しか...
2017年2月28日火曜日
フシギな短詩88[丸山進]/柳本々々
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あなたから見ても私は変ですか 丸山進 現代川柳を考えようとしているときにいつも丸山さんの川柳は私にとってのひとつの指標になっている。 今回の記事はこの文にふたたびかえってくることができたら終わりにしようと思う。 《 現代川柳を考えようとしているときにいつも丸...
2017年1月20日金曜日
フシギな短詩77[宝川踊]/柳本々々
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帰らない言葉があるよ相撲にも 宝川踊 こんなことを言ったら怒られるのかもしれないけれど、さいきん考え始めているのが、川柳は〈人間を描く〉とよく言われるのだが、実は〈人間を描かない〉んじゃないか、〈人間を描くことをやめた〉ところからまた始まるのも川柳なんじゃないかと...
2017年1月17日火曜日
フシギな短詩76[八上桐子]/柳本々々
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はなびらを噛んでまぶたのすきとおる 八上桐子 神戸新聞において元旦から「時実新子没後10年」として「新子を読む 新子へ詠む」という連載記事があったのだが、第一回目は八上桐子さんだった。 八上さんは新子さんの 花びらを噛んでとてつもなく遠...
2016年12月30日金曜日
フシギな短詩71[松岡瑞枝]/柳本々々
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お別れに光の缶詰を開ける 松岡瑞枝 昨日、森の中で、わたしはこんなふうに考えた――死を考えることを避けてはいけない、自分の人生の終わりの、ある一日のことを想像してみよう。穏やかなある日、一見、ほかの日とほとんど変わらないように思える、そのくせ突然、すべて...
2016年12月16日金曜日
フシギな短詩67[小池正博]/柳本々々
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これからは兎を食べて生きてゆく 小池正博 助詞「は」に川柳的主体性を見出したのは樋口由紀子さんだった。樋口さんは『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011年)において、川柳の「は」は「 助詞に「私」の意志を強く含ませ、そこには明らかに「私」が存在し、「私」に問いかけてい...
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