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2017年10月3日火曜日

超不思議な短詩233[シルバー川柳]/柳本々々


  寝てるのに起こされて飲む睡眠薬  シルバー川柳(瀬戸なおこ)

ある俳句の方が、俳句の認識における〈過入力〉の話をされていて面白いなと思ったことがある。

俳句は〈短い〉ので過剰な入力を施すことで、〈過剰な認識〉が形式化される。例えば雑に言えば、古池やカエルの飛び込む音が過剰に意識される。過剰に意識されるだけ、のことである。しかし、それが俳句になってしまう。俳句って、なんだろうか。

俳句が認識の過入力をほどこすのだとしたら、川柳は身体に対して過入力をほどこすのかもしれない。以前、詩性川柳とサラリーマン川柳の共通点は〈悪意〉だと述べたことがあるけれど、これは身体への悪意としての過入力時だということもできる(考えてみると、意地悪とは、過入力である)。

「寝てるのに」わざわざ「起こされて」(過入力)、「睡眠薬」を「飲」まされる(過入力)。シルバーの身体が過入力に遭い、それが悪意の形式化として詩になっている。川柳は、悪意と身体への過入力ではないか。

  紙おむつ地位も名誉も吸いとられ  シルバー川柳(厚木のかずちゃん)

「紙おむつ」というそれまでの人生にはなかった「過入力」が「地位も名誉も」剥ぎ取っていく。

  「君の名は?」老人会でも流行語   シルバー川柳(はだのさとこ)

新海誠の映画『君の名は。』の「流行」は、「老人会」に密輸され、「老人」たちの認知をめぐる〈過入力〉(=過出力)となっていく。シルバーな認知=脳をめぐる過剰。

浅沼璞さんとの往復書簡で私は俳句や川柳は〈人称の強度〉と関わりがあるのではないかと述べて、あとで自分でこれ宿題にしていかないといけないなあ、と思ったのだが(それは人称のグラデーションの比較的少なさでそう述べたのだが)、過剰入力や過剰出力のありかた、過剰認知や過剰身体というのは、俳句や川柳と関係しているかもしれないと、おもう。

俳句/川柳は、過剰であるという地平。

  付いて来い言った家内に付いていく  シルバー川柳(山本敦義)  

  

          (『シルバー川柳7』ポプラ社・2017年 所収)

2017年9月17日日曜日

超不思議な短詩221[井上法子]/柳本々々


  煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火  井上法子

短詩のなかで〈鍋〉は〈鏡〉のようにとても大きな意味を持っている。

  わが思ふこと夫や子にかかはらず大鍋に温かきものを煮ながら  石川不二子

「大鍋に温か」いものを煮ながらわたしの「思」うことがせり上がってくる。わたしの「思」うことは「夫や子にかか」わらない〈わたし〉のことだ。煮る、という行為は、時間をかけて物を少しずつ変成させていく行為だ。それが、内面の醸成とも関わってくる。そう考えるとちょっとこわいことだが、妻は「夫や子」のために料理をつくりながら、「夫や子」以外の〈何か〉を考えている。料理は、短歌によって、〈奉仕〉されえない思いの叙述になる。

短詩において、ひとは(というよりも〈女性主体〉は)、鍋の前で、食べ物ではなく、みずからの〈内面〉に降りてゆく。

茹でる、だが、こんな歌もある。

  十六夜の寸胴鍋にふかぶかとくらげを茹でて君が恋しい  鯨井可菜子

「くらげを茹で」るという、料理に一見似つかわしくない表現が採用されることで、「君」への「恋」しさが不思議な感情としてあらわれる。寸胴鍋にくらげが「ふかぶかと」漂う海中の幻景が一瞬あらわれながらも、「くらげを茹で」これから食べようとしているのだという激しい感情も同時にここにはたたえられている。川上弘美のこんな一節を思い出す。ふわふわしたものを、煮ること。食べること。

  長い間の片思いのひとから、「好きなひとができました。これから一生そのひととしあわせに暮らします」という葉書がきた。泣きながら、いちにち花の種を蒔いた。途中少しの間気を失い、それからいくらか元気が出たので、夕飯には蛸を煮た。
  (川上弘美『椰子・椰子』)
  
石川不二子さんの歌は1976年刊行『牧歌』からだが、1960年代に定着した典型としての「専業主婦」像=「良妻賢母」像が崩壊しはじめる1970年代後半からの歴史状況とあわせて考えることもできる。フェミニズム全盛の時代だ。「妻」ではなく、料理をしながら、「妻」の外を志向すること。

そうした〈外〉への意識はこんな川柳にも見いだすことができる。

  ことばにはならないものが茹で上がる  佐藤幸子

料理をしながら、料理に奉仕するのではなく、「ことばにはならないもの」としての不気味な外に抜けてゆくこと。わたしのイメージ、料理のイメージが問い直される。

それが2010年代の鯨井さんの短歌では「寸胴鍋」「ふかぶか」「くらげ」と、〈外〉への意識ではなく、〈外〉への意識が深められた〈下〉への意識としてあらわれてくる。鍋は「専業主婦」的女性像の外に抜けるための装置ではなく、自らのひととしての内面の深度をさぐる装置になっている。

ちょっとかなり長い遠回りになってしまったが、井上さんの掲出歌をみてみよう。

井上さんの〈鍋〉の歌で大事なのは、〈外〉や〈下〉への意識ではなく、世界の基盤=〈根〉への意識に傾いていることだ。料理をすることが、〈永遠の火〉という世界の生成に関わるものとリンクしていく。

「だいじょうぶ」という発話に注意したい。この歌は、〈常にだいじょうぶじゃない〉世界におかれており、「永遠の火」におびやかされている。もちろん、「永遠の火」におびやかされる〈常にだいじょうぶじゃない〉世界と言えば、わたしたちは2011年の福島第一原発水素爆発を思い出す。ただ井上さんの歌は、それより、もっと、根底の、根深い火のようにも、思える。

主体の前に用意された「鍋」は、「わが思ふこと」という個人の内面に降りてゆく装置から、だんだんと、世界の根っこの危機を測位する装置へと変わっていった。

つまり、女性/男性関わらず、わたしたちは「鍋」の「火」を通して、世界の危機にリンクしてしまうような状況が現在ある。2017年は、北朝鮮からの弾道ミサイル発射によりJアラートが鳴った年として記憶されるだろうが、「火」はわたしたちをもう〈外〉連れ出すのではなく、〈外〉からわたしたちを滅ぼすためのメタファーとして機能しはじめるのでははないか。

火が、外から、やってくる。

  夏の鍋なべて煮くずれ 面影はいつだってこわいんだ夏の鍋  井上法子


          (『桜前線開架宣言』左右社・2015年 所収)

2017年9月13日水曜日

超不思議な短詩217[笹田かなえ]/柳本々々


  夢に見る猫はわたしの夢を見る  笹田かなえ

教師と生徒の言語が渡り合う世界の話を前回したが、じゃあ、ひとと猫が渡り合う世界は、どうだろう。

そうしたひとと猫がからまりあいながらひとつの世界をあらわす句としてかなえさんの句をあげてみたい。

よく猫は擬人化され、飼い主が猫の〈内面〉をしゃべってしまっていることがある。猫はしゃべらないにも関わらずひとが猫の言語を代弁してしまい、猫の内面を奪い取ってしまうのだ。そこにはひとと猫、しゃべることのできる人間、しゃべることのできない猫の微妙な非対称性がある。猫はしゃべらないのだから、猫の言語に寄り添おうとするならば、わたしたちも黙るしかない。

でも、夢、ならどうか。かなえさんの句では、わたしが猫を夢にみている。だがその猫はわたしの夢をみている。わたしは猫の夢の存在かもしれない。猫はわたしの夢の存在かもしれない。どちらも夢の存在かもしれない。

ここには非対称性はない。ここにあるのは、どちらかがどちらかをどうこうする構造ではなく、猫とわたしをめぐる螺旋=スパイラル構造だ。そして、わたしがきえるとき猫もきえ、猫がきえるときわたしもきえるような関係がここにはある。

もしわたしたちが動物と関係をもてるならば、こういうところにあるのではないだろうか。動物の言語を代弁してしゃべるのではなく、共にあらわれ・共にきえるような関係。わたしがきえればあなたもきえるし、あなたがきえればわたしもきえますという、生と死のらせんを共に生きるような関係。

わたしはこんなひとと動物の生き死にの螺旋構造をかつて眼にしたことがあった。

  ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。…と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。
 「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
  もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
 「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
  …栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。
  (宮沢賢治「なめとこ山の熊」)

生活のために熊を撃ち殺していた小十郎だが、熊に殺されるときに、小十郎は、「熊どもゆるせよ」としんでいく。熊も小十郎に対し「おまえを殺すつもりはなかった」といいながら、「があん」と小十郎を殴り殺す。

そして小十郎の死体を円心に「回々教徒の祈」りのような熊たちの螺旋ができる。ここにも、ひとと動物と生と死のスパイラルがある。ともにいき・ともにしぬような関係が。

共生、ということばがある。でも、かなえさんの句や「なめとこ山の熊」にみられるように、共生という概念は、じつは、共死をも含むというとてもラディカルなものなのではないだろうか。いっしょにいきてゆきましょう、が、いっしょにしんでゆきましょう、をふくみもつような。しぬときはべつべつだよ、ではなくて。

セーターをほどくみたいに、わたしとあなたが共にいて、いっしょにいきたり、しんだりしている。

  セーターをほどくみたいに逢いましょう  笹田かなえ


          (「前菜」『お味はいかが?』東奥日報社・2015年 所収)

2017年9月11日月曜日

超不思議な短詩215[加藤久子]/柳本々々


  私って何だろう水が洩れている  加藤久子

以前、サラリーマン川柳は主体がはっきりしているのに対して、現代川柳(詩性川柳)は主体がはっきりしていない、それは現代川柳というジャンルが主体性を支えているんじゃないかという話をしたのだが、例えば、加藤さんの掲句。

「私って何だろう」と〈わたし〉を問いかけた瞬間、「水が洩れている」。主体が主体たろうとして主体的に主体である〈わたし〉自身に問いかけた瞬間、主体は損壊してしまう。この主体性のなさというよりは、非主体性への本領発揮の仕方は、川柳が発句である俳句と違って、付句からきているところ、〈付く〉ところからきているのかもしれないが、それにしても、縦横無尽にばらばらに損壊していくのが現代川柳なのである。

だから現代川柳が〈人間を描く〉という言説は、どこか当たっているような気がしながらも、どこかで致命的に間違っているような気もする。ポスト構造主義のフーコーが〈人間の終わり〉を唱えたような、終わってからのばらばらのドゥルーズ的器官のような人間が現代川柳には描かれているのではないかと思うこともあるからだ。

  人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明品にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
  (フーコー『言葉と物』)

対して、現代川柳は〈他者〉としての「異人」にはとても関心を示している。これは他者を見いだして、その他者との二項対立から自身を逆照射して主体性をみいだそうとしているのだろうか。

  白菜をさくりと割って異邦人  加藤久子

  レタス裂く窓いっぱいの異人船  〃

そう言えば以前、現代川柳によってはじめて凄まじく遅れに遅れた〈近代〉が来たのではないかとちょっととんでもないことを言ったりしたが、実はそうではなくて、近代がこなかった現代川柳はそのまま未分化のままでポスト近代(ポストモダン)につっこんでいったという見方もできるのではないかと思っている(本当は近代とかポスト近代とかかんたんに使ってはいけないのは承知のうえで)。

  言語を用いてごまかすこと、言語をごまかすこと。たえず変遷回帰する言語活動の輝きにつつまれた、この健全なごまかし、この肩すかし、この壮麗な罠、私としては、それを文学と呼ぶのである。
  (ロラン・バルト『文学の記号学』)

現代川柳は、ポストモダンやポスト構造主義とこのうえなく、相性がいい。というか、現代川柳は《そのまま》現代思想の直感的で体感的なわかりやすい解説書になっているところがある。たぶん、デリダもドゥルーズもアルチュセールもラカンもフーコーもロラン・バルトだって、現代川柳をすごく愉しんで読んだと、おもう。きっと、そう、おもう。

わたしはロラン・バルトがずっと好きだったので、バルトに、いま、きいてみたい。わたしってなんなんですか。

  ノートに佇っている貌のない私  加藤久子

  この俺、何がどうなっちゃったんだろう。
   (ロラン・バルト『現代思想』1984年3月)

          (『動詞別川柳秀句集「かもしか篇」』かもしか川柳社・1999年 所収)

2017年9月8日金曜日

超不思議な短詩206[復本一郎]/柳本々々


  「俳意」とは、俳諧性の(庶民性・滑稽性)のことである。  復本一郎

復本一郎さんが「川柳のルーツ」を次のように書いている。

  川柳のルーツ「江戸川柳」は、俳句のルーツである俳諧から派生したところの雑俳前句付という文芸として誕生したものであった。それゆえ、俳句と川柳とは、血縁関係にある文芸であると言っていい。源流をまったく異にする文芸ではないのである。かくて、俳諧発生時からの特質の一つである「滑稽性」(「笑い」)は、川柳にもかかわる特質だったのである。
  (復本一郎『俳句と川柳』)

復本さんによれば、もともと俳句と川柳のルーツにある「俳諧」は、庶民性・滑稽性が大事にされており、したがって、そこから派生した俳句・川柳にも滑稽性が引き継がれていたという。

今でもどちらかというと川柳と言えば、〈笑える文芸〉というふうに理解されているんじゃないだろうか。たとえばこんなシルバー川柳。

  誕生日ローソク吹いて立ちくらみ  シルバー川柳

誕生日にローソクを吹いたら立ちくらみしてしまう自分自身のエネルギーのなさをシルバーの立場から自虐的に描いている。こうした笑いを探求する川柳がある一方で、樋口由紀子さんはこんなふうに語っている。

  生きて有る事の不可解さ、不気味さ、奇妙さ、あいまいさなどが書けるのも川柳の特質である。
  (樋口由紀子『MANO』1998年5月)

不可解、不気味、奇妙、あいまい。これは「滑稽」とはまったく逆のベクトルをゆく、負やネガティブな力強さということになる。そういう価値観を川柳は引き受けることにもなった。ここで《あえて》樋口由紀子さんの句集から〈暗い〉価値観をもつ句を(分類しながら)みてみたい。

  ちょっと湿っている山高帽子  樋口由紀子
   (不快)

  悪になるオニオンスープ召し上がれ  〃
   (悪意)

  ねばねばしているおとうとの楽器  〃
   (不気味)

  荒野から両手両足垂れ下がる  〃
   (不可解)

  洗面器に水を満たして憧れる  〃
   (奇妙)

  階段の前を流れる不確実  〃
   (あいまい)

現代川柳はこうした負の価値観を積極的に育てる現場になった。

だから川柳にはおおまかに言えばふたつの流れがある。滑稽性を育む川柳と、負の価値観をも孕む川柳。簡単にいうと、サラリーマン川柳は自虐的だが明るく、現代川柳は他虐的で暗いと言えるだろうか。

私が面白いなと思うのは、復本さんが書かれたようにルーツには滑稽性があったとしても、またサラリーマン川柳のようにちゃんと滑稽性を引き継ぎ育んでいるものがあるのに、なぜわざわざ〈暗さ〉を引き受けるような現代川柳がうまれていったのかということだ。なぜなんだろう。滑稽性を突き詰めればよかったのではないか。ネオサラリーマン川柳のような。

ここからはちょっとこの一年を通しての推測なのだけれど、この負の価値観によって、川柳ははじめて〈近代〉をむかえようとしたんじゃないかと、おもう。つまり、個としてジャンルを自律させようとしていたんじゃないかと。樋口さんの句にあらわれたような不快や不気味や不可解は〈存在〉を際だたせるものである。ひとは享楽的なときは存在を意識しないが、みずからが死すべき存在であることを意識することによって実存を意識する。こうしたジャンルの実存意識として、負の価値観をはらみこんだのではないか。

わたしが不思議だったのは、主体性をめぐる観点だ。たとえばシルバー川柳では主体性ははっきりしている。シルバーな主体が、火を消すために息をふきかけ、エネルギーを消尽し、倒れんとしている。その主体は滑稽だ。そういうはっきりした主体がある。でも一方、樋口さんの句では主体性がみえないようになっている。「ねばねばしている弟の楽器」があって、姉にとって・ねばねばしているのだが、だからといってそれがどのような主体性になるのか。

わからないなかで不可解ななにかを感触してしまう。そのとき、主体は、主体にあるのではなく、むしろ、ジャンルが個としてたちあがる、ジャンルが実存的=主体的にそれら負の価値観を感触しているのではないか。つまり、主体は句のなかにあるのではなくジャンルにある。ジャンルが主体なのである。

現代川柳を〈読む〉という作業はとても難しい(といつも感じるしいつも挫ける)。それはカミュの『異邦人(よそもの)』で、ムルソーがどうして太陽のせいでひとを殺したのかよくわからないのに似ている。

ただたとえばそのムルソーの殺人の理由は、実存主義文学が理由なんですよ、と言われればなんとなく見えてくるように、ジャンルに主体の根拠があるのだ、そうやって川柳のとても遅れた近代がきているんだとおもうと、すこしわかりやすいような気がする。でもちょっと今回のこの話題はこれからも長くかんがえていこうと思っています。カミュがいってました。「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。それは自殺だ。だが、肝心なのは生きることだ」と。

  額の汗きらきらきらと悪である  樋口由紀子

          (「俳句に必要な「笑い」とは」『俳句と川柳』ふらんす堂・1999年 所収)

2017年8月24日木曜日

続フシギな短詩175[荻原裕幸]/柳本々々


  コミックのZの羅列のあるやうな眠りをぬけてどこかへ行かう  荻原裕幸

荻原裕幸さんの歌/句はいつも〈書字的意識〉に非常に鋭敏だと思う。書字的意識というと難しいのだが、やっぱりこういうしかなくて、これは〈書く〉ということと〈字〉ということを同時に意識している意識ということになる。書くとはなんなのか、そして書き付けられた文字とはなんなのか、それが書字的意識である。

たとえば荻原さんの『あるまじろん』の章扉にこんな文章がある。

  何かを記述しようとするといつもうまくいかなかつた。たとへば犀の卵を書いたつもりでも、それが猫の卵になつたりするんだから始末が悪い。
  (荻原裕幸「犀の卵をめぐって」『あるまじろん』)

まず「何かを記述しよう」という意識がある。ところがその記述行為が記述行為として機能しない。「犀の卵」と記述しても、「猫の卵」になってしまうのだ。まず〈書く行為〉が機能不全に陥っている。そして同時に、書かれた文字「犀」に裏切られるという〈字の裏切り〉がある。こんなことになってしまっては、書字意識をもたざるをえない。書くとはなんなのか、字とはなんなのかについて考えざるをえない。

掲出歌。漫画ではよく眠っているキャラクターの頭上にZZZZZZZという記号をつけて〈眠り〉を視覚的にあらわすことがある。ところが、語り手はそれを「ぬけて」とマテリアルなものとして意識してしまう。Zが記号にならず、物質的な林や森のようなものとしてあらわれ、そこに〈ぬけだせない〉とらわれた身体と意識を感じてしまうのだ。「どこかへ行かう」とは記述されているが、「どこかへ」と明確なゆくべき場所ももたない。〈Z〉という文字を超えてゆくべき場所は、語り手にはわからない。

『川柳ねじまき』の最後に荻原さんの川柳連作がのっている。タイトルは「るるるると逝く」でやはり書字が意識されている。〈るるるると軽快に逝くんだ〉という川柳独特の悪意と軽快さに満ちたコミカルな感じもあるが、同時にここには、〈おびただしい文字と共にどこにもゆけずに死ぬしかない〉という荻原的世界観にとっては重いテーマもあるようにおもう。

この荻原さんの連作は、意図的に「る」止めで終わる句が多いのだが、以前、小池正博さんが「現代川柳の文体はともすれば『る』で終わるか体言止め(名詞終わり)になってしまう」と述べられていて興味深いなと思ったことがある。たしかにそうで、川柳は切れや切れ字がないため、動詞でなにかをして終わるか、名詞で切れに似たような効果をつくりながら終わることが多い(小池さんの句集のバラエティー豊かな構文をみると、小池さんはある意味、その川柳の根強い無意識の文体共同意識と戦っているようにも思う)。

で、荻原さんはたぶんそのことに気づかれていて、意図的に「るるるる」という共通の書字意識をひっぱりだしているように思う。荻原さんがたえず気にかけているのはおそらく共同的な書字意識だからだ。

  「るるるると逝く」は、私が川柳の潔さにあこがれてまとめた作品だ。しかし、どこか定跡めいたものを呼びこんでしまった気もする。よし、まとまった、と思う端から、一からやりなおしだ、という気分にもなっている。
  (荻原裕幸「るるるると逝く」『川柳ねじまき』2014年7月)

この「定跡めいたもの」「まとまった」という感覚を、〈共同書字意識〉と呼んでみたいような気もする。荻原さんはその〈共同書字意識〉に気づいてしまう。だから、「一からやりなおしだ、という気分にもなって」しまう。

でも一方でそれを転用し、えぐり、引っ張りだしながら「るるるると逝く」という〈書字意識への意識〉をめぐるタイトルをつける。「逝く」と文字ととともに共倒れしながらも、かろうじてそれでも「逝く=ゆく」ことのできる場所への意識、「ぬけてどこかへ行かう」を喚起する。

  祈るのか折れるか未だ決まらない  荻原裕幸

  海と梅との間でなにか音がする  〃

  誤植したみたいに犬が殖えている  〃
   (「るるるると逝く」同上)

それでも、文字の森は、とまらない。文字の森は、『マクベス』のバーナムの森のように、動きつづける。

「祈/折」、「海/梅」、「誤植」。文字たちは荻原さんを「決まらない」と戸惑わせ、「なにか音がする」と気を引き、「殖えている」とおののかせる。そして誰もが〈それ〉をできないであろうハードな不可能性のなかで〈文字〉を「読みまちがえ」させ、あたりまえのように「辞任」させもするのだ。

  鼕や鷂を読みまちがえて辞任する  荻原裕幸

文字って、なんだ。なんなのだ。だって、

  どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。
  この発見を手始めに、今まで知られなかった文字の霊の性質が次第に少しずつ判って来た。文字の精霊の数は、地上の事物の数ほど多い、文字の精は野鼠のように仔を産んで殖える。

  ナブ・アヘ・エリバはニネヴェの街中を歩き廻って、最近に文字を覚えた人々をつかまえては、根気よく一々尋ねた。文字を知る以前に比べて、何か変ったようなところはないかと。
  (中島敦「文字禍」)

          (「犀の卵をめぐって」『あるまじろん』沖積舎・1992年 所収)

続フシギな短詩174[米山明日歌]/柳本々々


  鏡から帰って米を研いでいる  米山明日歌

『川柳ねじまき』からもう少し続けてみようと思う。

前回、川柳の主体は〈想像界〉からやってくると述べて終わったけれどまさにこの明日歌さんの句がそれをあらわしている。

「鏡」というイメージの想像的写し合わせの世界から「帰って」きて、まったくなんの違和感もなく、助詞「て」でつながれて、日常的に「米を研いでいる」。「鏡」のなかにいたことは、まったく、違和感がない。そこはもといた場所であり、いつでも帰ることのできる場所なのである。

そうした想像的イメージは、「影」として、やはり日常的に・違和感なく、分離させることもできる。

  募集中私の影を担ぐ人  米山明日歌

「募集中」という俗な言葉遣いから、「私の影を担ぐ」という想像的な詩的イメージに接続される。ここでもやはりその連絡には違和感がない。想像的な世界と、日常的で卑近な世界は地続きである。

この想像的イメージとしての〈わたし〉は分離し、あちこちに散種される。飛散ではない。種として飛び、ねづき、わたしそのものになる。

  地図で言う四国あたりが私です  米山明日歌

「あたりが」という言葉遣いに注意しよう。それは〈わたし〉にもよくはわかっていない。アバウトなものだ。たぶん「四国あたり」なのだ。ここは秩序で厳密に分離された〈象徴的〉世界なのではない。鏡のような、影のような、イメージのゆるやかな〈想像的〉世界なのだ。わたしはどんどん飛散し、散種される。もっと、させてみよう。

  葉がおちてしまってからの私です  米山明日歌

  わたしを拾うあなたを拾う秋の道  〃

  吊り橋をゆらしてるのは私です  〃

  わたくしの中であなたは跳ねている  〃

どんどんわたしが分離されていくとともに、そのなかであなたもまた分離され生産されていく。川柳において、わたしは無限増殖する。だから、〈ひとり〉になったときには、ちゃんと、音がする。こんなふうに。ちゃんと、だ。

  ひとりにはひとりになった音がする  米山明日歌


          (「四国あたりが」『川柳ねじまき』2014年7月 所収)

続フシギな短詩173[瀧村小奈生]/柳本々々


  まだすこし木じゃないとこが残ってる  瀧村小奈生

小奈生さんの川柳にとって「木のとこ」と「木じゃないとこ」を確認するのはとても大切な作業になる。たとえばこんな句がある。

  息止めて止めて止めて止めて 欅  瀧村小奈生

〈そう〉なろうと思えば、息を止めつづけることで「欅」になれてしまう体。体は容易に逸脱する。やり方さえわかれば。だから、「木のとこ」と「木じゃないとこ」をいちいち確認する作業は大切になってくる。

容易に変化・変態してしまうからだをめぐって、こまかく、すこしずつ気づいていく認識。

  小春日を起毛してゆく声がある  瀧村小奈生

  心外なところで声は折れ曲がる  〃

  三日月にさわった指を出しなさい  〃

  あやふやな湾岸線をもつからだ  〃

起毛する、折れ曲がる声。三日月にさわった指。あやふやな湾岸線をもつからだ。からだは〈わたし〉を超えて変化する。

川柳において、からだは、形態変化する。その形態変化を《事後的》に記述するのが川柳だともいえる。だから、川柳の主体は、ときに、〈人外〉が、事後的に・語ったような語り口ともいえる。非主体化していく主体がそれでもかろうじて「まだすこし木じゃないとこ」を語ったように語るのが川柳ともいえるのである。

たとえば次のような短歌と比較してみるとわかりやすいかもしれない。

  毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡  東直子

短歌においては、主体変化は起こらない。たとえばこの歌なら、主体と「楡」の一致は起こらない。主体は「楡」を見いだすが、それは主体変化としてではなく、主体観察として、みいだす。「妹のすっとんきょうな寝姿」はまるで「楡」だと。

  夜はわたし鯉のやうだよ胴がぬーと温(ぬく)いよぬーと沼のやうだよ  河野裕子

夜の「わたし」は、胴がぬーとぬくくて、沼のようで、「鯉」のようだという。これも夜のわたしの主体観察だといっていい。もちろん「鯉」なのではない。鯉の「やう」なのである。

短歌においては、私→A、という働きかけになる。そういう主体観察になる。

一方、川柳においては、私=A、という主体のありようが語られる。主体変化が記述される。

どうしてそうなのかは私もちょっとわからない。ひとついえるのは、よくもわるくも、川柳においては〈わたし〉が育たなかった、ということが言えるかもしれない。育たなかった〈わたし〉は容易に変化してしまう
ピノキオのような主体である。息をとめただけで、木になってしまう。比喩じゃなく。そう、なってしまう。

精神分析学者のラカンの言葉を使えば、短歌は、言葉によって主体が確立されている〈象徴界〉的な文芸、川柳は、イメージによって主体が変化する〈想像界〉的な文芸、と言うこともできるかもしれない。

そして、定型の〈外〉には、〈象徴〉しても〈想像〉してもふれられない〈現実〉がある。そのふれられない〈現実〉をめぐって詩が機能してしいることにおいては、どちらも共通しているようにも、おもう。

たとえば、〈なに〉が「そうですか」なのかは、ふれられない〈現実〉。「中央にあるべきもの」とは〈なん〉だったのかは、ふれられない〈現実〉。無意識のとぐろのように、まっくらな穴のように、ひろがる〈現実界〉の深淵へ。

  そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています  東直子

  中央にあるべきものがない空だ  瀧村小奈生

          (「木じゃないとこ」『川柳ねじまき』2014年7月 所収)

2017年6月23日金曜日

続フシギな短詩131[Sin]/柳本々々


  ビリビリと剥がされてゆくコンビニのおでん  Sin

Sin さんの川柳を読んでいると、ある現代川柳の志向性のようなものが見えてくるのではないかと私はおもう。

たとえば掲句。「コンビニのおでん」が「ビリビリと剥がされてゆく」のだが、ここで語り手が着目しているのは「剥がされてゆく」ときの「ビリビリ」とした〈擬音〉であり、「コンビニのおでん」の内実ではない。それが、おいしいか、まずいか、安いか、高いか、そう言ったことはどうでもよいことである。

また、「コンビニのおでん」が貼り紙のように剥がされるものなのかどうかといったこともとくに問題ではない。現代川柳の語り手たちはそんなことにいちいち驚きはしない。「コンビニのおでん」という商品物を指し示す記号物=〈概念〉が「剥がされ」るときに、語り手が知覚しているのは「ビリビリ」である。

わたしはここには現代川柳の語り手のある顕著な特徴がしっかりとあらわれているのではないかと思う。その1、世界や概念のルールの変更に驚かないこと。その2、内実ではなく、外郭を浮き彫りにすること。

「コンビニのおでん」が剥がされてもそれは驚くべきことではないし、むしろ「コンビニのおでん」を語るときに現代川柳の語り手は「コンビニのおでん」が貼り付けてある〈外〉としての外部を語るということである。

これをこんなふうに言い換えてもいいかもしれない。現代川柳がやっているのは基本的に〈概念を剥ぐこと〉であると。

  そうやって机は使うもんじゃない  Sin

この句では「じゃあどうやって使ったらいいの」は決して語られない。ということは、〈どう〉机を使っても、この句は「そうやって机は使うもんじゃない」と発話し続けるということだ。だからこの句のコンセプトをあえて言うならこうだ。《机の概念を剥ぐこと》。

現代川柳は概念を剥ぐ。概念を与えない。付与しない。暴力的に剥ぎ取っていくだけだ。だから現代川柳はなにも生み出さない。むしろ〈生み出さない〉ことを生み出す。

だから現代川柳はいつも「さいご」までは行かない。いやもし行くとしたらとってもチープなものを《あえて》「さいご」にもってくる。〈すかす〉ことで終わらせないのである。だからどっちでも意味は同じことなのだが、現代川柳にはいつもふたつのエンドが用意されているだろう。

「さいごまでいけな」い超越的エンドか(「呪文」=ファンタジー)、とってもチープな世俗的エンドか(「消費税」=世俗)。

  さいごまでいけなかったのはじゅもんのせい  Sin
  盗撮の最後に映る消費税  〃

          (『おかじょうき』2016年4月 所収)

続フシギな短詩129[月波与生]/柳本々々


  悲しくてあなたの手話がわからない  月波与生

私は2013年の秋から川柳と短歌を投稿し始めたのだが、そのときネットで現代川柳においてどう活動していくかを模索しながら日々精力的に実作されていたのが月波与生さんだった。私は月波さんがいる「おかじょうき」に興味をもってその後「おかじょうき」に入った(でも「おかじょうき」の句会に一度も出席したことがないし、「おかじょうき」の方々にいまだお会いしたこともない。そういう川柳人もここにいます)。

その頃、『川柳マガジン』で月波さんのある句をみて急いで書き写した。掲句である。

それは「時事川柳」のコーナーに投句されたものだった。2014年の頭のことだ。でも、今、2017年にこの句をみて「時事川柳」だとわかるひとがいるだろうか。

わたしは、そこに、惹かれた。

「時事川柳」という枠組みで、「時事」をこえた句をつくっているひとが、いる。つまり、時間とともに成長する句を。

じゃあこの句の時事性とはなんだったのか。とてもインパクトのあるニュースだったから覚えているひともいるかもしれないけれど、南アフリカのネルソン・マンデラ大統領の追悼式でデタラメ手話通訳をしていたひとがいたのである(2013年12月のニュース)。彼はまあとりあえず適当に手をふりまわして、でたらめに手話をしていた(ある意味、通訳というよりは彼は手の表現者だったと言える。パフォーマンス・ハンド・アーティスト)。

手話はでたらめだった。だから手話を知っているひとたちがテレビでそれをみてすぐに気づいた。あの手話はでたらめだ、あいつの手話はなにをいっているのか《わからない》と。

この突然ニュースとして時事にあらわれた〈わからなさ〉を月波さんは「時事川柳」として句に組み込んだ。

そのとき大事なことは月波さんが「時事川柳」によくある〈トホホ〉や〈怒り〉や〈アハハ〉の枠組みを用いなかったことだ。

ここにあるのは、〈悲しみ〉である。しかも一般的な誰かの悲しみではない。今、手話を受けている〈わたし〉の〈悲しみ〉である。

わたしはあまりに悲しんでいて、あなたの手話がわからない。泣いているのかもしれない。あまりにもショックで視界がおぼろなのかもしれない。あなたのことを見る気力さえもうないのかもしれない。ほんとうに、わたしは、かなしい。ほんとうにかなしいとき、言葉がつたわるのかどうかという問題がここにはある。

わたしたちは悲しいときも、その悲しみを言葉にしなければならないときがある。しかし、ほんとうにひとが悲しいときに、コミュニケーションができるのだろうか。それは、〈でたらめ〉にならざるを得ないではないのだろうか。

そしてそれはわたしたち人類が滅びるまで、ずっと、ずうっと、続くのだ。わたしたちは、まだ死すべきにんげんだから。わたしたちは死をうけとめてかなしくならざるをえないし、コミュニケーションの不可能性に直面せざるをえないから。

つまり、月波さんは人類の〈時事川柳〉を描いたとも言える。人類のニュースなんだ、これは。人類の時事なんだ。

人類の時事川柳というものがあるんだ。

だから、私はいそいで書き写した。これを見落としてはいけないと思ったから。わたしは、まだ、たぶん、どんなにかなしくても、まだすこし、いきていかなければならなかったから。

  にんげんになりたいものは手をあげて  月波与生


          (「尾藤三柳 選・時事川柳」『川柳マガジン』2014年2月号 所収)

2017年5月7日日曜日

続フシギな短詩108[榊陽子]/柳本々々


  さあ我の虫酸を君に与えよう  榊陽子

きのうの「川柳トーク 瀬戸夏子は川柳を荒らすな」というイベントで小池正博さんがあげられた十句選のなかの一句。

小池さんはこの榊さんの句に表現されている〈悪意〉に着目した。

悪意

「虫酸」というのは「胃から口へ出てくる酸っぱい液体」のことだ。ところがこの句では「さあ我の~を君に与えよう」というもっともらしい、高貴な文体のなかに「虫酸」を置くことで、低級なものを高級なものとして相手に贈与する。その低級なものを高級な文体のなかに据え置きながら相手に贈る行為を〈悪意〉とわれわれは呼んで、いい。

現代川柳を読み解くのに〈悪意〉はひとつのキーワードになる。いいえ。それどころか、〈悪意〉は川柳をマッピングするのに絶好のキーワードになる。社会川柳(サラリーマン川柳)と詩性川柳(文学川柳)をつなぐのが〈悪意〉なのである。

たとえば、こんな有名な女子会川柳。

  カレよりも課長の夢をよく見てる

彼氏よりも課長の方が好きで課長の夢をよく見てしまう。これは「彼氏」への〈悪意〉である。あるいは、愛への悪意である。もしくは職場で課長と接する機会があまりに多く、課長が夢にまで出てきてしまう、そういう職場批評の句として詠むなら、職場への悪意である。

こんな有名なシルバー川柳。

  誕生日ローソク吹いて立ちくらみ

誕生日にろうそくの火を吹き消すとシルバーなみずからの身体はその息のエネルギーでさえたえられずに「立ちくら」んでしまう。これは老いた自らのシルバーな身体への悪意である。

わたしたちは、サラリーマン川柳と詩性川柳をときどき別のものとして分断=棲み分けしようとしたがるが、しかし〈悪意〉というキーワードは、橋渡しになる。

今回のイベントもそうだったが、どういう枠組みやタームを用意するかで、マッピング=精神地図のありかたは変わってくる。どこから・だれが・どんなふうに見るか、で。

榊陽子さんの川柳における〈悪意〉はそのひとつの答えを提示してくれている。

小池さんは

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博

という句を紹介してから、榊さんの

  たてがみが生えてきたから抜いている  榊陽子

という句を紹介した。これをわたしは小池正博句への〈悪意の連鎖〉としてみても面白いかもしれないと思う。「たてがみを失」うと「逢」えるのだが(たてがみを失え、去勢されろ、というのはそれ自体ひとつの悪意である)、しかしその「失」えるかもしれない機会そのものを榊句は解体してしまうのだ。「生えてきた」そばから「抜いて」しまうのだから。

去勢そのものを、去勢してしまうこと。悪意そのものを、悪意として解体すること。

新しい川柳とは、なんだろう。

それは地図を描くためのターム=鍵=ペンを手渡してくれることではないだろうか。榊陽子の川柳が新しいのは、その鍵をわたしてくれるからではないかとおもうのだ。

   早春のごはんを作る事故現場  榊陽子


          (「ユイイツムニ」『川柳サイド』私家本工房・2017年 所収)

2017年5月1日月曜日

続フシギな短詩107[佐藤みさ子]/柳本々々


  生まれたてですとくるんだものを出す  佐藤みさ子

樋口由紀子さんは『MANO』終刊号を鴇田智哉論で終わらせたが、それでは小池正博さんはどうだったのだろう。

小池正博は『MANO』終刊号を佐藤みさ子論で終わらせた。

樋口さんが鴇田さんに見出したのは言葉から生まれざるを得ない作家性だったが、小池さんは〈終わりの風景〉のなかでみさ子さんのなかになにを見出したのだろう。

「佐藤みさ子-虚無感とのたたかい」と小池さんの論考タイトルが示すように小池さんにとってそれは、何かを積み上げてはたえず解体されるものとのたたかい、かも知れない(小池正博は書きながらその書いていることをたえず解体していく川柳作家でもある。小池正博はたえず口にする。「川柳をどう読めばいいのか」、「川柳論はどう書きうるのか」、「川柳はわたしを支えてはくれない」と。しかしそれでも川柳に対して地図を描こうとしつづける。それが小池さんの位置性である)。私がこの論考を読んで興味深かったのが、小池さんがみさ子さんの川柳を読むにあたって参照したみさ子さんの文章である。『セレクション柳論』に収められている「裁縫箱」をめぐる文章。

ふしぎな文章で、小学生の「私」は友人から「セルロイドの赤い裁縫箱」をある日とつぜん「贈り物」としてもらうのだが、「私」はうれしがるどころか「私の何かが否定されたような気」もちになってしまう。この「他者への困惑」を小池さんはみさ子論の出発点においている。

  人は他者との関係で生きてゆかなければならない。……自己のもっている大切で譲れないもの。それはしばしば周囲の価値観と抵触するが、他者や社会との関係性のなかで、自己を失わず、かといって周囲といたずらに敵対するのでもなく、冷徹に世界と人間の本質を見すえてゆくところに佐藤みさ子の川柳眼がある。
  (小池正博「佐藤みさ子-虚無感とのたたかい」『MANO』20号、2017年4月)

小池さんの引いた文章を読んだとき、あっと思ったのだが、たしかにここにはみさ子さんの特異な位置性があらわれている。

たとえばこれを川柳行為として考えてみよう。川柳は「付句」がルーツであるように、なんらかの題や問いかけに答えを「付」ける文芸である。たとえば「花や蝶の模様がつい」た「赤い裁縫箱」を「贈り物」としてもらったときに、その〈贈与〉に対して〈嬉しい〉と〈わたし〉は「付」けることができただろう。そう、答えることもできただろう。

しかし、佐藤みさ子は〈贈与〉に対してそういうふうに「付」けることはしなかった。

  明日になれば○○さんからもらった赤いセルロイドに糸やハサミを入れて学校へ行かなければならない。私の何かが否定されたような気がした。人がそれぞれ違う価値観を持っていることに、その時初めて気がついたと言えば大げさだろうか。…私は無口で暗い子供だった。そして私は今もなお、赤い裁縫箱をかかえたまま、途方に暮れている。
  (佐藤みさ子「虚無感との闘い/裁縫箱」『セレクション柳論』2009年、邑書林)

佐藤みさ子は〈贈与〉に対して〈答〉えていない。佐藤みさ子は「今もなお」「途方に暮れている」。むしろ、そうした〈困惑〉を新たな〈問い〉として生産し、その〈問い〉を「今」も「赤い裁縫箱」として「かかえ」続けているのだ。

つまり、佐藤みさ子は〈問い〉に〈問い〉を「付」けたとも、いえる。そういう〈答〉えかたをしたのだ。

掲句をみてほしい。「生まれたてですとくるんだものを出す」。ひとつの世界に「付」けられた〈答え〉ではある。世界からの贈り物。赤ん坊でも今もらったばかりの「赤い裁縫箱」でもいい。「生まれたててですとくるんだものを出す」。しかしこの答えはかんけつしていない。「くるんだものを出」された〈わたし〉はこれからどうすればいいのか。その問いが内包されている。〈わたし〉も〈あなた〉もどうするのか。生まれたてのくるんだものをだきしめるのか。それともだきしめないのか。笑ってやりすごすか。ひきつった顔をするのか。においをかぐのか。ぬくもりをしるのか。きょうふするのか。途方に暮れるのか。

「生まれたてですとくるんだものを出す」行為は、ひとつの〈贈与〉である。しかし、それは友人からだしぬけにもらった「赤い裁縫箱」のように、わたしに〈問い〉を投げかけるものでもある。そしてその〈問い〉は各人が生きようとする位置性によって、ちがうのだ。

  言葉だけ立ちふさがってくれたのは  佐藤みさ子

言葉はそうした問いと答えが錯綜していく状況を〈交通整理〉していくかもしれない。しかしこの「言葉だけ立ちふさがってくれたのは」が〈言語行為〉として機能しはじめたとき、この言葉をめぐる句は、この言葉をめぐる句を裏切ってしまうんじゃないかという緊張感もある。なぜなら問いを生産し〈そうではない〉ありかたへとひらいていくのもまた言葉だからだ。佐藤みさ子の句は、佐藤みさ子をうらぎるかもしれない。

佐藤みさ子にとって言葉=川柳は、みずからの生のありようを〈整理〉してくれるものであると同時に、裏切っていくものでもあったのではないか。しかし、だから、書き続ける。まだひらいていない、ひろげたことのない本をめぐって。

  ひろげた本のかたち死というものがあり  佐藤みさ子

そういえば小池正博はこんなふうに佐藤みさ子論をしめくくっていた。

  私も「虚無感」とたたかってゆくつもりである。
   (小池正博、前掲)

たたかう、という行為は、世界からの問いかけにたいし、問いかけをはらみながらも答えることではないか。それは、ながい、たたかいになる。性急にこたえてしまうことを、がまんしなければならないからだ。言葉でいくらふさいでも、その言葉は行為となって言葉をうらぎっていく。ほんとうに、ほんとうに、ながいたたかいに、なる。

          (「5月 佐藤みさ子」『あざみエージェントオリジナルカレンダー』あざみエージェント・2016年 所収)

2017年3月30日木曜日

フシギな短詩97[大川博幸]/柳本々々


  あやふやなものがあって確かめたらあやふやだった  大川博幸


石寒太さんが『俳句はじめの一歩』という本のなかでこんなことを書かれている。

  私の先生の加藤楸邨も、「俳句はもののいえない文学」と、はっきりいっています。
   (石寒太『俳句はじめの一歩』二見レインボー文庫、2015年)

俳句は〈もののいえない文学〉。これはメッセージ性を回避する俳句のことを思うとよくわかる。自己主張したいひとやなにかをどうしてもいいたいひとは俳句に向いていない(かもしれない)。たとえば俳句はよく〈挨拶の文芸〉だと言われるけれど、これも〈ものをいわないこと〉=挨拶、に通じている。

じゃあ、俳句が〈もののいえない文学〉だとしたら、川柳は、どうなのだろう。わたしは、今回の大川さんの句を引きながらこんなふうな提案をしてみたい。川柳は〈もののみえない文学〉じゃないかと。

たとえば「あやふやなもの」をまず語り手は確認したわけだが、すでにその時点で語り手は〈確認〉に敗退している。なぜならはじめから「あやふやなもの」として認識しそれでよしとしているからだ。

その「あやふやなもの」を語り手は「確かめ」にいったが「確かめ」に行って「あやふやだった」と二度目の確認の敗退を行う。しかしそうした認識の敗退を〈そのまま〉描いたら川柳になってしまった。

ここでわたしが考えてみたいのは川柳とはこうした「あやふや」を「あやふや」と《わざわざ》確認する作業なのではないかということだ。「あやふや」の内実は問題ではなく、「あやふや」をつまびらかにすることも問題ではない。問題は、「あやふや」をわざわざ確かめながらも「あやふや」にしておくことなのである。それが川柳の要である。

大川さんのこのあやふや句が入った連作はすべて「あやふや」を「あやふや」に留めようとする力学のもと描かれている。

  歩き出してから歩く方法を  大川博幸

  目を閉じる何も見えなくなってから  〃

  犬の声がする犬がいるのかもしれない  〃

こうした「歩く」と「歩く」、「閉じる」と「閉じる」、「犬」と「犬」という反復のなかで〈現実〉がねじれていく。問題は、語り手が〈(す)〉でこれを語っていくことにある。語り手はこのねじれていく現実にすこしも驚いていない。

こうした〈雰囲気〉を、魔術的リアリズムと言っていいかもしれない。「あやふや」を驚きなくためらいなく「あやふや」として受け入れるのはマジック・リアリズムの醍醐味である。

マジック・リアリズムはラテンアメリカ文学の批評用語から来ている。

 マジック・リアリズムを南米の文学運動に限定すればだが、そこにあるのは、幻想への憧れや現実への不信、繊細な「ためらい」などではなく、ただ野太い、原「現実」である。
(井辻朱美「マルシェとしての『かばん』」『ユリイカ』2016年8月号)

井辻さんのわかりやすい定義をひけば、マジック・リアリズムとは、《野太い、原「現実」》に出会うことだ。そしてそれがどんな剥き出しの現実であろうが、まったくおどろかず、受け入れてしまうことだ(たとえばガルシア=マルケスの『百年の孤独』も川上弘美の『神様』もマジック・リアリズムに基づいた作品だと言える)。

そしてそうした意味では大川さんの連作は、マジック・リアリズムのふんいきをただよわせていると言える。語り手はどんなにねじれた現実に対しても少しもためらってもいないのだから。、なのだから。

川柳がもし〈もののみえない文学〉だとしたら、川柳はその〈みえない〉ことを逆手にとって言葉の微妙なひだにわけいっていくだろう。たとえば、

  ギザギザが来るからぎざぎざは待つわ  広瀬ちえみ
  (「ギザギザ(ぎざぎざ)」『川柳杜人』253号、2017年3月)

ここでは「ギザギザ」と「ぎざぎざ」の微妙な差異に「待つ」ことができるだけの〈時間〉が生まれている。「ギザギザ」も「ぎざぎざ」も目にはみえないものだが、しかし、広瀬さんの句はそこになんらかの〈ひだ〉をみてしまっている。

〈もののみえない文学〉とは、同時に、〈ことのみえる文学〉でもあった。

だから現代川柳には、あやふや愛好者たちにはぴったりの文学だと言えよう。あやふやなコトガラの微妙すぎるひだひだの部分を得意とするのが現代川柳だと言える。

あやふやにもひだひだがあるんだっていうことは、みーんな、現代川柳が教えてくれた。

  芽が出たので種を蒔かねばならない  大川博幸

          (「あやふや」『川柳の仲間 旬』210号、2017年3月号 所収)


2017年3月26日日曜日

フシギな短詩96[石田柊馬]/柳本々々


  妖精は酢豚に似ている絶対似ている  石田柊馬

不思議な句だ。

「絶対」とは言いながらも、その「絶対」を言ってしまったがために、「絶対」が〈絶対〉をくつがえしてしまっている。

いったい私はなにを言っているのか。

つまり、こういうことだ。《絶対にそうだ》と確信していたのならば、「絶対」などとは《わざわざ》言わなくていいのだ。わかりきったことなんだから。そしてその発言に自信があれば、《わざわざ》繰り返す必要なんかないのだ。わかりきったことなんだから。

だから語り手は思っている。ほんとうは妖精は酢豚に似ていないかもしれないということに。絶対なんてこの世界にはないんだってことに。

でもそれでも言ったのだ。

いったいどういうことなんだろう。

こんなふうな説明ができるかもしれない。

ここにあるのは、絶対性ではなく、〈意に任せた〉任意性である、と。

わたしはこの妖精句は川柳という文芸を端的に象徴しているのではないかと思う。

つまりこう思うのだ。川柳とは、《任意性》の文学なのではないか、と。

前回、〈うんこ〉をめぐる記事であげた例をもう一度あげてみよう。

  頷いてここは確かに壇の浦  小池正博

「ここ」が「壇の浦」だと絶対的な認識ができていたら、わざわざ「ここは確かに」なんて言う必要がないはずだ。認識できていなかったから、わざわざ「ここは確かに」と言ったのだ。語り手にとって「壇の浦」は〈任意〉である。意に任せた場所なのだ。

  オルガンとすすきになって殴りあう  石部明

オルガンとすすき。これも任意である。わたしの考えでいえば、このオルガンとすすきが、オルガンとすすきである必然的な意味はない。いや意味はつけられるだろうけれど、つける必要がないほどにオルガンとすすきはカテゴリーとしてかけ離れている。

だからこの句を意味として解釈しようとするとたぶんうまくいかない。そうではなくて大事なのは、〈任意〉が暴力として発動してしまっているこの句が提出した〈状況〉にあるはずだ。本来殴りあえないはずのものが任意の認識によって殴り合ってしまったこと。これは認識と状況の問題である。

何度も言うが、わたしは、川柳とは、〈任意性〉の文学なんだと、おもう(これは季語というある程度の〈絶対語〉を引き入れたある程度の〈絶対性〉の文学としての俳句と対置してもいいかもしれない。「ある程度の」と言ったのは季語だって生まれたり滅びたりすることがあるため)。わたしは、そう、おもうのだ。川柳は、こころを詠む文芸ではなく、意(こころ)に任せる文芸なのだと。

  非常口セロハンテープで止め直す  樋口由紀子

「止め直」せたのは、「非常口」が絶対的なものではなく、任意の口になったからだ。だから、「セロハンテープ」程度のものでいい。非常口はほんとうは非常口なのだから絶対的なものではなくてはならない。でなければ、命が助からない。わたしもいざ逃げる時があるかもしれないので非常口はせめて絶対的なものであってほしいと思う。心からそう思う。

しかし川柳では、〈こう〉なのである。それがただしいのだ。任意の世界なのだから非常口はセロハンテープで止め直すのが正しい。わたしやあなたがいやでもそれは関係ない。

任意の世界。もう少し続けよう。

  ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ

これも任意の発話である。読点が〈任意〉で埋め込まれることで、意味内容が〈任意〉に微分されていく。ここにはビルが崩れていくという2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を彷彿とさせるような絶対的出来事が起きているのに、それを分節する絶対的発話がない。だから、ビルがくずれてほんとうに語り手がきれいだと思っているのかどうかわからない。そもそもここにはたった一回でも「きれい」という発話は、ない。

これは、柊馬さんの妖精に対する「絶対」とおなじ位相の認識である。小池さんの不確かな「うん」や樋口さんの「セロハンテープ」の不穏さとおなじ位相の認識である。

言葉にとっての任意。意味にとっての任意。認識にとっての任意。世界にとっての任意。歴史にとっての任意。語り手にとっての任意。読者にとっての任意。

川柳は任意の文芸なのだと、妖精をとおして言ってみたい。妖精とわたしのたたかいをとおしてそう言ってみたい。

探偵シャーロック・ホームズを生んだコナン・ドイルが《妖精はいる絶対いる》として愛した有名な妖精写真がある。今みてもそれがほんとうの妖精かどうかわからない。私はこの妖精写真が好きで一時期机の上に飾っていたことがある。今でもときどき電車やバスに乗っているときに、いるかなあいないかなあと思うが、まだ答えは出ていない。い る か な あ

妖精はいるかもしれないしいないかもしれない。妖精は〈任意〉のクリーチャーなのだから。それは、いるひとにはいるし、いないひとにはいないのだ。しかし、そういうドイルから、ホームズは生まれた。

任意。

任意とは、意に任せることだ。意に任せて、なにか発言することだ。意に任せて、あなたに問いかけることだ。こんなふうに。

  ドラえもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

 
   (『セレクション柳人2 石田柊馬』邑書林・2005年 所収)

2017年3月3日金曜日

フシギな短詩89[竹井紫乙]/柳本々々


  階段で待っているから落ちて来て  竹井紫乙

竹井紫乙さんの川柳のなかでは、誰かと、誰でもいいのだけれど、誰かとつながることは〈身体感覚〉そのものではないかと思うことがある。

たとえば掲句。「待っているから落ちて来て」という。「待って」くれてはいる。しかし「落ち」なければあなたに会えない。「階段」だから「落ち」たら痛いだろう。

つまり、あなたに会うためにはわたしは傷つかなければならない。落ちなければならないし、身体に傷をつけないといけない。傷つくと、会える

だからこんなふうに言い換えてみるのも面白いかもしれない。紫乙さんの川柳のなかでは、いつでも〈会う〉ためには〈身体が人質になる〉必要があるのだと。

  再会は味付け海苔の味がした  竹井紫乙

「再会」はうれしいのでもかなしいでもない。「味」なのである。身体感覚だ。ここでも「身体」が人質として提供された。味覚として。舌を刺激し、かすかな傷から、「味付け海苔の味」が生まれる。

だとしたら逆にこの句集で身体が人質にならない句はどうなっているのだろう。つまり、身体がぶらぶらしているような句は。

  悪い事する両腕は手ぶらです  竹井紫乙

「手ぶら」の「両腕」は「悪い事」をするためにある。「悪い事」の解釈はいろいろできると思うが、〈再会〉や〈出会い〉におもむかず、自由な身体が「悪」に回収されていってしまったのはたしかなことだ。身体が人質にならない場合、「悪い事」が待っている。この世界ではフリーで〈からっぽ〉な身体はひとに結びつかず、エゴに結ばれていく。たとえば、

  夜遊ぶ底なし沼にいるみたい  竹井紫乙

  癖になる空っぽになる遊び方  〃

  透明な扉 あなたは罪深い 〃

紫乙さんの川柳のなかにおいては〈身体の傷〉こそが〈出会いの場〉となる。それは別の言い方をすれば、〈傷〉は他者と結びついてはじめて〈傷〉そのものになるということだ。それが〈身体の人質〉ということでもある。

  音も無く転ぶ祭りの真ん中で  竹井紫乙

だからあなたは〈傷〉つく瞬間はきちんと〈傷〉つかなければならない。転ぶしゅんかんは、ちゃんと声を上げて音を立てて転ばないといけない。そうじゃないと、だれも、あなたを気づいてくれなしい、待ってもくれないから。

痛い、は、つながること。

  体から色んな枝が出て痛い  竹井紫乙


          (「高天」『白百合亭日常』あざみエージェント・2015年 所収)


2017年2月28日火曜日

フシギな短詩88[丸山進]/柳本々々


  あなたから見ても私は変ですか  丸山進

現代川柳を考えようとしているときにいつも丸山さんの川柳は私にとってのひとつの指標になっている。

今回の記事はこの文にふたたびかえってくることができたら終わりにしようと思う。

現代川柳を考えようとしているときにいつも丸山さんの川柳は私にとってのひとつの指標になっている。

分水嶺と言ってもいいかもしれない。

なんの?

詩と社会の境界線である。

川柳には大きくわけてふたつある。世間の斜め=トホホな感覚をユーモラスに描いたサラリーマン川柳と呼称されるものと、世界の事物を問い直そうとする境界=幻想的な詩性川柳である。

基本的に「川柳を知っていますか」ときくと、だいたいのひとは「サラリーマン川柳」を思い浮かべる。詩性川柳があることは知られていない。私も数年前までは知らなかった。これは〈知らないから知らない〉のではなく、〈知っていたから知らなかった〉のである。だって川柳といえば、サラリーマン川柳に決まってるじゃないかとはじめから思いこんでいたから。

サラリーマン川柳と詩性川柳。これらは一見、異なるもののように思われる。そこにはたしかな境界線があるようにもみえる。

ところが丸山さんの川柳はサラリーマン川柳と詩性川柳の境界線をこわしてくる。その分節に息づく〈なにか〉を描こうとするのが丸山さんの川柳なのではないかと私は思っている。

つまり丸山進の川柳を読むということは、サラリーマン川柳と詩性川柳はほんとうにそんなにはっきりと分けられるものなんですか、と自らに問い返すことになるのだ。先ほどから大きなことばかりしゃべってしまっていて、柳本どうした、と思われるかもしれないので具体的に句をみてみよう。

  あなたから見ても私は変ですか  丸山進

これをたとえばサラリーマン川柳の枠組みを用いて、夫が妻からみられている〈情けない構図〉を描くことは可能である。世間から「変」だと思われているけれど、家族から「見ても私は変」なのだろうかとトホホな風景を描くことができる。言わば、愛を問いかける〈普遍〉的な句に。

ところがそれを詩として反転させることも可能だ。この「あなた」は読者のひとりひとりに切実に問いかけてくる実存的な「あなた」として機能する。それは「から見ても」という言葉の使い方によるものだ。他のひとはわたしを変だと見ている。それは、いい。でも、「あなた」はどうなんですか。わたしはあなたに問いかけたい。「あなたから見ても私は変」なの「ですか」。

言語の技術的な面が駆使されることで読み手である〈あなた〉に実存的に問いかける構造になったこと。わたしはそうした文を詩と呼びたいと思う。

つまり、〈どう〉読むかで丸山さんの川柳は表情が変わってくる。それを端的に象徴するのが今回の句だと思う。サラリーマン川柳と詩性川柳はそうかんたんに分割できるものではない。わたしはここに現代川柳のひとつの可能性があるのではないかとすら、おもう。

だから最初の文にもどる。
現代川柳を考えようとしているときにいつも丸山さんの川柳は私にとってのひとつの指標になっている。

おや、かえってきた。終わりにしよう。

  交番の前はスキップして通る  丸山進

          (『おもしろ川柳会 合同句集』10号・2016年10月 所収)

2017年1月20日金曜日

フシギな短詩77[宝川踊]/柳本々々


 帰らない言葉があるよ相撲にも  宝川踊

こんなことを言ったら怒られるのかもしれないけれど、さいきん考え始めているのが、川柳は〈人間を描く〉とよく言われるのだが、実は〈人間を描かない〉んじゃないか、〈人間を描くことをやめた〉ところからまた始まるのも川柳なんじゃないかということだ。

じゃあ、人間を描かないでなにを描くのかというと、概念を描く。概念がくみかわるしゅんかんを描く。

こういうことを言うと怒られるかもしれないけれど、それでもこういう立ち位置に立ってみると、なぜ現代川柳が動物や食べ物や擬音が好きで、しかもそれらを〈そのまま〉に描かずに内実を組み替えたかたちで描こうとするかがわかるように思う。

もちろん、川柳は〈人間も描く〉。ただ、現代川柳の実質は、〈人間を描かない〉ところにも起点をもつような気がする。しかしこれは直観なので、もう少し、長く考えてみたいと思っている。直観は、直感とちがって、時間の長さがもとになっている認識だそうだから。

でもここで少し具体的になにをいいたいのかを書いてみようと思う。宝川さんの句をみてほしい。

宝川さんの句では、「相撲」という身体競技が身体的に描かれない。ここで描かれているのは、「言葉」の側面からとらえられた「相撲」である。だからある意味で、まず「相撲」は一般的なイメージからすれば〈機能不全〉に陥っている。ここで一般的なイメージに逆らわずに、相撲的に相撲を語れば〈人間を描く〉ことに近づくが、この語り手は、それをさけた。

さらに語り手が関心をもつのは、「相撲」の「言葉」は「言葉」でも「帰らない言葉」の方だ。「言葉」だけでも「相撲」にとってはマイノリティなのに、さらにそのマイノリティのマイノリティにつっこんでゆくように「帰らない言葉」に眼を向ける。

ここではほとんど〈人間は問われていない〉。強いて言うなら、〈人間は問われていない〉かたちで〈人間〉が問われている。ただこれを言うことは意味がないような気もする。問われているのは、「言葉」だからだ。そしてそのことによって「相撲」の〈概念〉が組み換わる。

宝川さんは2015年から川柳を始めたとプロフィールに書かれているが、川柳を始めた宝川さんが、〈まず〉こういう川柳を〈現代川柳〉の枠組みとして措定して、句作されていることが私にはとても興味深く、おもう。いつも、始点に、ジャンルのひみつが隠されているようにもおもうからだ。

わたしは現代川柳のひみつの棲み処がこの宝川さんの川柳に隠されているんじゃないかと思った。

起源を探すことに意味はないような気もするが、しかし移ろい続けるはじまりでもおわりでもない「紙吹雪」のなかでとつぜん「原点」をみつけてしまうこともあるのではないだろうか。原点は星のように散らばっている。

  まぶされた紙吹雪に探す原点  宝川踊

          (「 LUNCH BOX」『川柳スープレックス』2017年1月1月 所収)

2017年1月17日火曜日

フシギな短詩76[八上桐子]/柳本々々


  はなびらを噛んでまぶたのすきとおる  八上桐子

神戸新聞において元旦から「時実新子没後10年」として「新子を読む 新子へ詠む」という連載記事があったのだが、第一回目は八上桐子さんだった。

八上さんは新子さんの

  花びらを噛んでとてつもなく遠い  時実新子

という句をあげた上で、自身の句として

  はなびらを噛んでまぶたのすきとおる  八上桐子

という句を詠んだ。

ここでなにかの句に対して、もうひとつの句を〈わたし〉として詠むとはどういうことなのかを考えてみたい。「新子《へ》詠む」ということは八上さんにとってどういうことだったのか。

新子さんの句では「とてつもなく遠い」と対象の遠さが語られていたが、八上さんはその対象をみずからの身体に取り込み、「まぶたのすきとおる」とすることによって自身の身体の遠さとして描いた。

「まぶたのすきとおる」という比喩はいろんな解釈ができると思うが、私はこれを《じぶんの身体が透明化して遠さをもつこと》としてみたい。

新子句の物理的な距離は、自身の身体的な遠さとして描き直されることによって、自身の内面の〈遠さ〉を生んだ。つまり、新子さんの句を〈内面化〉したのだ。

八上さんは記事においてこの新子句を「感覚的な句」と評したが、〈感覚〉として「新子を読」んだ立場から、さらにその〈感覚〉を先鋭化させ、身体のびんかんな「まぶた」に遠近を転移させ「新子へ詠」んだ。

ひらがな表記の「はなびら」というのも、漢字変換される前の、まだ〈感覚・知覚〉段階の、意味になる前の「はなびら」であるように思われる。

まとめよう。

なにかの句に対して、自身の句を詠むということは、まずその句の自分なりの〈読解〉を提出し、その〈読解〉したものを先鋭化させたものを〈詠む〉ということなのではないか。

その意味で、なにかを〈詠む〉ということは〈読む〉ことなのであり、〈読む〉ということはたえざるなにかを〈詠む〉ことなのだ。自身の、〈わたし〉の、文脈のなかで。

私の時実新子像は八上桐子さんらが編んだ新子アンソロジーに多くを学んだ。今でも読み返してはそこから新しい新子のイメージを教えてもらう。そこには、新子さんのなにかが受け継がれながら、なにかがある決意とともに〈切断〉されている。

受け継ぐことには切断が必要とされる逆説。

ひとがなにかを引き継いでいくということは、その受け継ぎと切断のぎりぎりの決意にあるのではないかと、思う。

そしてそのときの切断とは、〈まぶた〉のことなのだ。

「まぶた」は閉じるときに使われるものだ。眼をとじて、まぶたのなかで、はじめてみえてくる世界がある。なにを見るか、ではなくて、まぶたを閉じた上で、なにを見ないことで・見ようとしたのか。決意したのか。

まぶたのすきとおる」まで眼を閉じること。閉じていてさえ、見えてくるまで。

大事なときにひとは眼をつむる。そして、あえてすれ違いに身を乗りだしていく。

味が出てくるまで、突き詰めるまで、「すれ違」いつづけることを。

  シマウマの縞滲むまですれ違う  八上桐子
    (「植物園の半券」『川柳ねじまき』2号・2015年12月)


          (八上桐子(平松正子・まとめ)「新子を読む 新子へ詠む 時実新子没後10年1」『神戸新聞』2017年1月1日 所収)

2016年12月30日金曜日

フシギな短詩71[松岡瑞枝]/柳本々々






  お別れに光の缶詰を開ける  松岡瑞枝


 昨日、森の中で、わたしはこんなふうに考えた――死を考えることを避けてはいけない、自分の人生の終わりの、ある一日のことを想像してみよう。穏やかなある日、一見、ほかの日とほとんど変わらないように思える、そのくせ突然、すべてがスピードを上げ――あるいは、おそらく、スピードをゆるめて――すべてが非常に密接に感じられる日のことだ。 

  (アン・ビーティ、亀井よし子訳「人生の終わりの、ある一日のことを想像してみよう」『貯水池に風が吹く日』草思社、1993年)

今年最後の記事になるので、少し〈終わり〉のことを考えてみよう。

どうして川柳という文芸には〈終わり〉をめぐる句が多いのだろう。

掲句もそうだ。「お別れ」で始まっている。たとえば次のような句もあげてみていいだろう。

  三十六色のクレヨンで描く棺の中  樋口由紀子
   (『容顔』詩遊社、1999年)

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博
   (『セレクション柳人6 小池正博集』邑書林、2005年)

上記三句はどれも〈さようなら〉をめぐる句である。

松岡さんの「お別れ」、樋口さんの「棺の中」、小池さんの「たてがみ」の喪失。どれもそれぞれの〈さようなら〉である。

ところがもうひとつこれら三句に共通しているものがある。それは〈さようなら〉に突入しはじめたしゅんかん、現場がいきいきと息づいてくることだ。「光の缶詰」、「三十六色のクレヨン」、「また逢おう」。どれも、いきいきと輝いている。さようならの現場で。

なぜ現代川柳は〈さようなら〉をすると輝きだしてしまうのだろう。

フシギである。

ここで、ひとつの乱暴な仮説を提出してみたい。

俳句には季語があって、川柳には季語がない。

季語とは、なんだろう。季語とは自分の意志ではどうしようもできない言葉のことである。季語は共同体的なものであるため、勝手なシステムの改変は許されない。季重なりをしてはいけないなど季語をめぐる法=禁忌がきちんと定められている。

いわば、俳句はそのために季語というひとつの去勢から句をつくりはじめる。しかしその去勢という不能感をとおして俳句は俳句にしかない俳句的主体をたちあげることができる。

では、川柳は、どうやって川柳的主体をつくりあげるのだろう。川柳には季語がない。しかも、川柳というのは柄井川柳という選者の〈個人名がそのままジャンルになった〉奇妙なジャンルなので、定められた法も禁忌もない。自由にできる万能感に満たされた文芸といってもいい。その意味では小津夜景さんが指摘したようなSF・雑食的なジャンルであり、飯島章友さんが述べていたように異種格闘技・プロレス的なジャンルである。

しかしその万能感を去勢するものが現代川柳にとっては〈さようなら〉だったと言えないだろうか。現代川柳は〈さようなら〉を密輸することで、みずからに去勢をほどこす。「お別れ」「死」「喪失」という去勢をとおして不能感におちいってから五七五をたちあげる。それが川柳的主体なのではないか。そうやって川柳独特の川柳的主体をたちあげたのではないか。

川柳は、〈さようなら〉を、嬉しがっている。

さようならから、始めること。それが現代川柳なのかもしれないとおもうのだ。

ちがうかもしれない。でもいつでもさようならから始められることを教えてくれる現代川柳はわたしにふしぎな勇気をくれる。

終わっても終わってもさらなる「やあ」がやってくる。

これがほんとうに終わりなのか、と思ったせつな、真顔でやってくる「こんにちは」。それは真顔なのにきらきらしている。

今年が、終わる。前へ。

  Oh, Mama, can this really be the end もといこんにちは  柳本々々
   (『川柳 北田辺』74号・2016年11月)



          (「前へ」『光の缶詰』編集工房円・2001年 所収)

2016年12月16日金曜日

フシギな短詩67[小池正博]/柳本々々



  これからは兎を食べて生きてゆく  小池正博


助詞「は」に川柳的主体性を見出したのは樋口由紀子さんだった。樋口さんは『川柳×薔薇』(ふらんす堂、2011年)において、川柳の「は」は「助詞に「私」の意志を強く含ませ、そこには明らかに「私」が存在し、「私」に問いかけている」と述べている。

だからたとえば掲句を、


  これから兎を食べて生きてゆく

としては、ダメなのだ。「は」という助詞によってもっと〈これからの生〉に関わっていく川柳的主体性をみせること。それが「これからは」という助辞の意志であり、「生きていく」意志につながっているのである。

だからこう言ってもいい。この兎は《川柳の意志》のなかにある兎なのだと。この「兎」はすでに川柳的な助詞「は」によって食べられている「兎」なのだ。

もちろんこの小池さんの句集のタイトル『転校生は蟻まみれ』の「蟻」も川柳の意志のなかにある〈蟻〉である。そこには第一句集『水牛の余波』の〈の〉で中性的に言語放牧されているような水牛はいない。

蟻も、兎も、〈わたし〉が積極的にまみれたり、食したりすることで積極的に関わっていくものなのだ。

蟻にかじられ、兎にかじられること。その〈かじる行為〉を促すのが、たった一音の助詞「は」なのである。川柳の祝祭的で不穏なカーニヴァルはたぶんこの一音に存在している。たった一音の川柳の呪文。すなわち、「」。

だからあえてこんなふうに大胆な解釈を切り出してみたい。「これからは兎を食べて生きてゆ」こうとしている語り手が食べようとしていたのは「兎」ではない。語り手が食べようとしていたのは「これからは兎」というセンテンスそのものなのだと。「これからは兎」を食べて生きてゆく。

語り手は、助詞「は」が含まれたセンテンスそのものを喰らい、その身につけようとしていたのである。

そう、これは助詞のカニバリズムをめぐる句なのだ。そしてそのときはじめてわたしたちはなぜこの句集のタイトルが『転校生《は》蟻まみれ』だったのかに、気づくはずなのだ。

転校生を喰らおうとしていたのは「蟻」ではなく、隣接した係助詞「は」そのものだったのだから。「転校生」はいま助詞から食いつぶされているのである。助詞に埋め尽くされた助詞まみれの転校生。いや、そうじゃない。転校生は助詞まみれ、なのだ。というのは、小池さん、どうでしょうか。


  頷いてここは確かに壇の浦  小池正博


          (「公家式」『転校生は蟻まみれ』編集工房ノア・2016年 所収)