2024年2月27日火曜日

DAZZLEHAIKU75[柴田多鶴子]  渡邉美保

 春を待つ赤肌さらすバクチの木   柴田多鶴子    


 「これ、バクチの木よ」と教えてもらい驚いたことがある。目の前の高木は、誰かが無理やり樹皮を剥がしたかのように、赤黄色の木肌がむき出しになっている。灰褐色の樹皮は、たえず自然にはがれ落ちるのだという。樹皮あっての幹ではないかと思うと、なんだか痛々しいが、それで「バクチの木?」と、思わず笑ってしまった。

 博打に負けて身ぐるみ剥がれ、裸になるのに例えての名だとのこと。昔の命名者にしばし感心。博打で、身ぐるみはがされ裸になる人が多かったのか、「博打に手を出したらこうなるぞ」との戒めの意味だったのか…。

 別名、毘蘭樹。葉から薬用のバクチ水をとり鎮咳薬とする。材は硬く、器具・家具用とある。有用な木なのだろう。


 春が近づいてきて暖かい日が多くなると、春を待つ心がひときわ強まる。「赤肌をさらすバクチの木」であればなおさらだろう。

 春早くこよと願うのは、バクチの木であり、バクチの木を見ている作者なのだと思う。

〈『俳壇』3月号(2024年/本阿弥書店)所収〉

2024年1月23日火曜日

DAZZLEHAIKU74[久保田万太郎]  渡邉美保

  冬の虹湖の底へと退りけり    久保田万太郎


 冬の雨のあがった後の空に、思いがけずにかかる虹にはっとすることがある。冬の淡い日ざしにうっすらとかかる虹は、やさしく儚げで、いつまでも心に残る美しさがある。

 掲句、前書きに[昭和35年12月1日、その地にくはしき山田抄太郎君にしたがひ、名所をたづね琵琶湖畔をめぐる]とある。

   琵琶湖にかかる冬の虹なのだ。遮るもののない広い空と広い湖面が目に浮かぶ。冬の琵琶湖のはりつめた自然の中で、とりわけ美しく見えたであろうと想像する。虹の片脚は湖面に浸っていたのだろうか。

   「湖の底へと退りけり」の措辞がユニークである。虹は空の彼方に消えるのではなかったのだ。今まで見えていた「冬の虹」が湖底へ退いてしまった(退いていく)という感慨。琵琶湖の深い湖底に沈みゆく虹は、水と混じり合いながら消えていくのだろうか。「冬の虹」の儚さはどこか神秘的である。

   もう消えてよくなからうかと冬の虹    宗田安正

   あはれこの瓦礫の都冬の虹        富沢赤黄男


〈句集『久保田万太郎俳句集』(2021年/岩波書店)所収〉

2023年10月28日土曜日

DAZZLEHAIKU73[杉山久子]  渡邉美保

こつとんと月見の舟のすれちがふ   杉山久子


「こつとん」のかそけき音のみが聞こえる。そのあとおとずれる何とも言えぬ静寂な空気。ここは一体どこなのか。

すれ違う月見の舟には誰が乗っているのだろうか。


「月見の舟」という言葉から、中秋の名月か、あるいはその前後。都塵を離れた静かな湖か川を思い浮かべる。

月が天高く煌々と輝いているだろう。

月から押し寄せる金波、銀波。月光の波の揺らぎに合わせるように舟はかすかに揺れているだろう。


月光の藻をくぐりきし櫂ひらり   杉山久子


水中まで差し込む月光は藻を照らし、水をくぐりきた櫂はひらりと月の雫をこぼす。ここにあるのも静寂のみ。寂寥という言葉が浮かぶ。

舟に揺られ、月の波を浴びている、何か不思議な世界を思わずにはいられない。この世とあの世の間にある世界。作者は地上より少し浮いた場所にいるのではないだろうか。

「こつとん」は現実の隙間から異世界への入口が開く合図だったのかもしれないと思う。


〈句集『栞』(2023年/朔出版)所収〉


2023年8月26日土曜日

DAZZLEHAIKU72[鈴木六林男]  渡邉美保

海底に未還の者ら八月は   鈴木六林男


 「お尋ね申します。トラック島はこっちの方角でしょうか」

 小説『姉の島』(村田喜代子著)の一節に、軍服を着た若き幽霊が、海底でアワビ採りをしている海女に、話しかけてきたという場面がある。

「・・・トラック島は日本海軍の基地じゃった。戦後、お詣りにいったら軍艦が10隻に商船も30隻以上は沈んどるという。それに零戦の飛行機の残骸も、百機以上あるようじゃと言うていた。(『姉の島』より)

 これは小説の中の出来事なのだけれど、海底を彷徨う若き兵士の幽霊が、祖国への道ではなく、おそらく任地と思われるトラック島への道を尋ねたことが殊に生々しく、また切ない。

 この幽霊こそが「未還の者」なのだと思う。

 掲句が書かれた1998年、そして、太平洋戦争終結から78年経った現在も、彼らは未還であり、永遠に未還なのだ。「八月は」に、その無念さが滲む。我々日本人にとって八月は鎮魂と祈りの季節であり、八月の持つ背景は深く重い。

〈句集『一九九九年九月』(1999年/東京四季出版)所収〉


2023年7月26日水曜日

DAZZLEHAIKU71[三好つや子]  渡邉美保

 私を旅する水よ合歓の花    三好つや子


 私たちの体のおよそ70%は水でできているそうだ。そして、その水は動いている。絶え間なく流れている。この流れこそが命を支えているという。その水が、まさしく「私を旅する水」なのだろう。

 暑い中を帰り来て、よく冷えた一杯の水を飲む。水は私を旅しながら何処へいくのだろうか。絶え間なく流れる水は、私の体内を潤し、心を潤し、私の存在そのものを旅しているのかもしれない。絶え間なく流れる水は、内部から、外部へも移動するだろう。いつしか水は私になり、私は水になっている…そんな旅だと思う。

 夏の夕暮れに咲く、淡い紅色の合歓の花。やわらかな風にゆれる合歓の花しべが、辺りの空気をゆらす。どこか濡れた感じの合歓の花にもまた、合歓の木を旅する水が流れているのだ。水は私と合歓の花を行き来する。

〈『現代俳句』7月号(2023年/現代俳句協会)所収〉


2023年6月27日火曜日

DAZZLEHAIKU70[山西雅子]  渡邉美保

 水筒の中にゆふやけ子は育つ    山西雅子

 夕焼けをたっぷり浴びて帰ってきた子が目に浮かぶ。真っ黒に日焼けした野球少年かもしれない。帰宅した子に手渡される空っぽの水筒。少年のお供の水筒もまた、夕焼けをたっぷり浴びてきたのだ。水筒の中にはまだ夕焼けが詰まっている気配。子供たちの話し声や歓声も残っていそうである。


 母に手を引かれて夕焼けを見ていた幼年期、夕焼けの前に家に帰っていた小学生低学年の頃。友達と夕焼けの中をいつまでも歩いた思春期。掲句の「子は育つ」の措辞から、子の成長と夕焼けの関係をたどるのは懐かしい。夕焼けと共に子は育つのである。


 夏の夕暮、西の空が真っ赤になり金色を帯びてゆく雄大な景色の中の小さな存在である子どもと水筒。その水筒の中も夕焼けだという詩情ゆたかな世界に惹かれる。

 西の空が、茜色に染まるのは翌日の晴天の予兆。子の育つ未来の晴れやかさを象徴しているようでもある。

〈句集『雨滴』(2023年/角川書店)所収〉


2023年4月21日金曜日

DAZZLEHAIKU69[森賀まり]  渡邉美保

空豆を人買ひをれば我も買ふ    森賀まり


 スーパーの店先に数人が頭を寄せ合っているのが目に入った。大箱の中に空豆がどっさり入っていて、空豆の「詰め放題」だという。どれだけ多く入れようと一袋の値段は変わらないのだ。皆嬉しそうに袋に空豆を詰めている。私も即参加。所定の袋をもらい、空豆を袋に詰め始めた。厚みのある空豆の大きな莢は、意外とかさばり、思うほど沢山は入らない。周りを見ると、莢の向きを揃え、ぎっしりと見事に詰めている名人がいた。早速真似る。袋にぱんぱんに詰め、大よろこびで帰ったことを思い出す。

 掲句、「人買ひをれば・我も買ふ」のおおらかさ、買ったものが「そらまめ」というのがとても楽しい。新緑のころのさわやかな風と、空豆のきれいな色彩が浮かぶ。莢を剥くと豆は、一個づつふかふかの白い綿に守られ、さみどり色に光っている。その豆の形、豆の味。その予定外の買い物は、幸福感に満たされている気がする。

〈句集『しみづあたたかをふくむ』(2022年/ふらんす堂)所収〉


2023年2月23日木曜日

DAZZLEHAIKU68[小林成子]  渡邉美保

羽ばたくも潜るも一羽風光る     小林成子


  いつも通る散歩コースに小さな川がある。きれいに整備された川ではないので、岸辺には破けたビニール袋やごみ類が溜まっていたりする。川底も決してきれいとは言えない状態なのだけれど、川には、青鷺や白鷺がときおり飛んできて漁をする。いつも見るのは、つがいのカルガモで、仲良く水脈を引いている。

 秋ごろからは、二羽の鷭を見かけるようになった。潜ったり、岸辺の草を啄んだりしながら、小さな川を行き来している。いつも二羽は一緒にいた。ところが最近一羽が姿を見せなくなり、鷭は一羽だけで行動。水輪の中で、首をひょくひょく動かしながら川を進む様子はどことなく寂しそう。何故一羽になったのか気にかかっている。

 掲句、何の鳥とも書かれていないが、仲間の鴨が北国へ帰った後に取り残された「残る鴨」かもしれない。早春の風はまだ冷たいが、光はたっぷり降りそそぎ、辺りの風景を明るくしている。水面が輝きを増すさまはまさしく「風光る」である。その明るさの中で羽ばたき、潜り、光をまき散らす一羽の姿。「一羽」が静寂と、寂寥を際立たせている。

               〈句集『わだち』(2022年/ふらんす堂)所収〉

2023年1月16日月曜日

DAZZLEHAIKU67[加藤楸邨]  渡邉美保

 その冬木誰も(みつ)めては去りぬ     加藤楸邨


 「その冬木」のことは一切描写されていないのだけれど、読者には読者なりの「その冬木」が目に浮かぶ。

 寒空の下、木はすっかり葉を落とし冬らしい姿になっている。木の瘤も顕わになったその冬木は、平然と空に向かって立っている。漠然とだが、その木には逞しい生命力が宿っているように感じられる。昔からずっとそこに、意志を持って立っているかのような佇まいの、「その冬木」なのだ。

 その冬木の立つ道を、多くの人が通り過ぎてゆく。その冬木を見つめるが、その木に触れることも、木を抱くこともなく、寒い道を足早に立ち去っていく。

 掲句、「誰も嘳めては去る」というシンプルな表現で、冬木の存在感と、冬ざれの寒々とした光景が描かれている。

 作者は「その冬木」をじっと見つめ、「瞶めては去る」人々と、その冬木との間の、一瞬のかすかな交流を感じているのだと思う。

〈岩波文庫『加藤楸邨句集』(2012年/岩波書店)所収〉

2022年11月18日金曜日

DAZZLEHAIKU66[松王かをり]  渡邉美保

 秋の浜海は巻かれて貝の中   松王かをり


 夏の間、海水浴などで賑わった浜辺も、秋風が吹くころになると、人影も少なくなり、寂しい浜辺になる。目の前に広がる砂浜の少し遠くに、澄んで爽やかな海が光っている。引き潮の刻である。満ち潮の刻の水量豊かな海は、「巻かれて貝の中」という把握が愉快だ。

 野球場で雨が降った時にグランドにかぶせる大きな銀色のシートのことが、ふと浮かんだ。雨が上がり、ゲーム再開という時、銀色のシートは端から大急ぎで巻かれていく。シートは、銀色に波打ち、表面についた雨の雫を飛ばしながらくるくると巻かれていく。あの光景を思い出す。

 巻かれた海は、なんと貝の中に入っているという。貝に吸い込まれる海と、海を吸い込む貝。時空を超えた魔法のような展開。貝の中に入った海は、貝の中で徐々に膨らみ、広がっていくだろう。貝の中にもう一つの世界が生まれ、新たな海となる。そして世界は反転する。

〈『現代俳句』11月号(2022年/現代俳句協会)所収〉