2022年7月25日月曜日

DAZZLEHAIKU64[白石正人] 渡邉美保

空蟬の覗きをりたる淵瀬かな   白石正人


  空蟬は蟬のぬけがら。また、魂が抜けた虚脱状態の身という意味もある。からっぽの蟬の抜け殻には、ちゃんと目の跡が残っている。淵瀬は淀みと流れ。世の無常をたとえる語でもある。

 コンクリートの壁に蟬の抜け殻がしがみついている光景はよく見るのだが、今朝の抜け殻は少し様子が違う。真っ黒で不透明な殻なのだ。よく見ると、蟬は殻から出ることが出来ず中で死んでいる。

 羽化せんとして、背中のファスナーが開かなかったのか。その黒い塊は、小さいながら不発弾めいていた。

 幼虫期間の約七年を地中で過ごし、地上に出てはみたが、成虫として地上生活を始めることができなかったこの蟬。正確には空蟬とは言えないのだろうが、どんな淵瀬を覗いていたのだろう。

                                          〈句集『泉番』(2022年/皓星社)所収〉

2022年6月9日木曜日

DAZZLEHAIKU63[久保田万太郎] 渡邉美保

  薄暮、微雨、而して薔薇しろきかな   久保田万太郎    


  庭の白薔薇が蕾をつけ始めた。蕾が成長し、花が咲き始めると、あたりには徐々に薔薇の香りが漂う。四分咲きくらいの状態がずっと続けばよいのに、と思うのだが、日差しが強いと、白薔薇はあっという間に開ききり、花びらは崩れるように散ってしまう。或いは、萎れて茶色く錆色になってしまう。花を楽しむ期間は短い。白い薔薇には、薄日の差すくらいがちょうどいい、と思っていたら、掲句に出会った。

 〈薄暮・はくぼ〉〈微雨・びう〉〈而して・しかして〉と続く漢文調に、一見漢詩の一節のような印象を持つが、〈薔薇・そうびしろきかな〉で俳句に着地。斬新な句の形だと思う。

 薄暮、微雨、この二語の名詞が並ぶだけで、読者はたちまちイメージを膨らます。舞台装置が出来上がる。而して「薔薇しろきかな」なのである。

 ここから、どんなドラマが始まるのだろうか。

〈『久保田万太郎俳句集』2021年/岩波文庫所収〉

2022年5月10日火曜日

DAZZLEHAIKU62[遠山陽子]  渡邉美保

  雪柳ざかりや鯉は泥を着て    遠山陽子


  雪柳は、葉にさきがけて、白い小さな花が、柳に似たしなやかな枝に群がって咲く。その盛りはまさに降り積もった雪のように美しい。丈が低いので花をつけた枝は地面すれすれまで垂れている。

 夕暮れの川沿いの道を歩くと、土手の雪柳は風に靡き、「おいで、おいで」と手招きしているように見える。近づけば異界へと引き込まれそうで、少し怖い。

 掲句、今を盛りの雪柳と「鯉は泥を着て」との取り合わせ。雪柳の白は鯉の泥を、また鯉の泥は雪柳の清らかさを互いに際立たせているようだ。

 雪柳の花の下、鯉が浅瀬に集まり、バシャバシャと水音を立て、泥にまみれて揉み合っている様子。春は、草木虫魚、生き物たちの喜びの季節だけれど、愁いの季節でもある。その象徴としての清濁なのかもしれない。

 また、「泥を着て」という擬人化が用いられることで、鯉が人に化身したかのようにも思われてくる。雪のように白く清らかな雪柳の精と、泥を着た鯉の精の出会う幻想的な光景を思い浮かべると、ここから不思議な物語が始まりそうな気配がする。

〈句集『弦響』2014年/角川学芸出版所収〉


2022年4月26日火曜日

DAZZLEHAIKU61[黛 執]  渡邉美保

  海ばかり見て待春の風見鶏    黛 執


 海辺に生まれ育ったものの、現在は海の見えない場所に住んで久しい。

 無性に故郷の海を見たくなることがある。コロナ禍の長引くなかでは、遠出もままならず、海ばかり見ている風見鶏が羨ましい。

 「待春」の本意は「早く春来よと願う心である」という。寒さも峠を越して、あたたかい日が続くようになると、春を心待ちにする気分がいっそう強くなってくる気がする。

 掲句では、風見鶏という、鶏をかたどった風向計が、海ばかり見て春を待っているよと描かれていて楽しい。その風見鶏は春を待つ作者に重なる。読み手もまた風見鶏になり、高台から広い海を見下ろしているかのような気分。

 強い北風が吹きすさぶ、荒れた海を見ることもあるだろう。よく晴れた日の穏やかな海もあるだろう。

 今、風見鶏が見ている海は、まだ寒さはあるが、きらきら光る眩しい海であり、どことなく春の兆しを宿しているに違いない。

〈句集『畦の木』(2009年/角川SSC)所収〉




2022年1月4日火曜日

DAZZLEHAIKU60[井越芳子]  渡邉美保

 山寺の冬空を掃く音と思ふ    井越芳子


  句会の兼題に「思う」が出されたことがある。句会メンバーの一人から異議が唱えられた。俳句は思っていることを書くのだから、句の中に「思う」を入れるのは如何なものかという趣旨だった。わざわざ「思う」を一句の中に入れなくてもよいという意見に一理はあるが、あえて「思う」と言いたい時もあるだろう。

〈妻がゐて夜長を言へりさう思ふ  森澄雄〉「さう思ふ」にとても惹かれる。


 掲句の「思ふ」も然り。〈冬空を掃く音と思ふ〉には、断定ではなく、敢えて「私はそう思う、思いたい」という微妙な心の綾が感じられる。

 山寺という人里離れた静謐な場所。冬空を掃く音とはどんな音なのか、ここには実体がない。けれどもなぜか惹かれてしまうのだ。

 天上の何か大きな存在が冬空を掃く。それが雪空だったなら、掃かれたものはふわふわと真っ白い雪になって地上へ降って来るだろう。その雪の降る音。

 冬空が冷たくからりと晴れているのなら、物みな鮮やかに青く冴えていく音。

 その音は心で聴く音。「そう思う」人のみに聴こえる音にちがいない。

句集『雪降る音』(2019年/ふらんす堂)所収〉

2021年11月20日土曜日

DAZZLEHAIKU59[茅根知子]  渡邉美保

  突堤の先が冬日の中に消ゆ  茅根知子


 海に突き出た突堤は、どこよりも海を近くに感じられる場所だと思う。潮風に吹かれながら、打ち寄せる波音を聴きながら、散歩をしたり、釣りをしたり。海に沈む夕日を眺める絶好のスポットでもある。

 さて、掲句。突堤の先が冬日の中に消える(消えている)つまり、見えなくなっているという。よく晴れた冬の一日、日差しは特有の明るさを持つ。突堤には目に痛いほど眩しい光が降り注ぎ、周りの海面もまた光の乱反射。どこまでが突堤なのか、どこからが海なのか、境目がわからないままキラキラと輝いている。そんな〈冬日の中に〉なのだろうと思う。突堤の先が見えない。突堤を真直ぐ進んでいくと、そのまま海へ入ってしまいそう。

 突堤の先へ行きたいけれど、先へ進めない。今まで見えていたものが、見えなくなるという不安と魅力。

——ここにおいで ここにおいで 

——きてはだめ きてはだめ

 そんな声が聴こえはしないだろうか。

〈句集『赤い金魚』(2021年/本阿弥書店)所収〉

2021年10月15日金曜日

DAZZLEHAIKU58[岡田一実]  渡邉美保

 熊ん蜂釣船草に頭を深く    岡田一実


  野山を歩いていて、ふだんあまり見ることのできない草花に出会うと、思わず興奮してしまうことがある。

 〈釣船草〉もそういう花のひとつだと思う。

 山麓の湿地や小川の縁に自生。花の様子が、吊り下げられた帆掛け船に似ていることから付けられた名前だという。

 か細い茎から下がる船の形の紅紫の花は、可憐で、風に揺れるさまは儚げである。

 花の後側にはクルリと巻いた渦巻(距)があり、中にたくさんの蜜が入っているそうだ。

 一方、〈熊ん蜂〉は、ずんぐりむっくりした黒い大きな体、ブーンと大きな音を立てて、好物の花粉や蜜を集めるために花から花へと飛び回る。

 そんな熊ん蜂が釣船草にやって来る。釣船草の蜜を吸うためには、熊ん蜂は花の中に〈頭を深く〉入れなければならないのだ。

 掲句の、その光景は、ちょっとユーモラスな感じもするが、華奢で儚げな釣船草に潜る熊ん蜂が、なんだか狼藉者のようにも思える。

〈句集『光聴』(2021年/素粒社)所収〉

2021年9月4日土曜日

DAZZLEHAIKU57[津川絵里子]  渡邉美保

 暮れかかる空が蜻蛉の翅の中    津川絵里子


 夕方、シオカラトンボが一匹、ツーとやって来て、自転車の荷台の上に留まった。すぐに飛んで行ってしまったが、透き通ったその翅は空の色をそのまま映していた。


 〈とんぼの はねは そらの いろ そらまで とびたいからかしら 〉

(「とんぼのはねは」まどみちお)という詩の一節を思い出す。

そして、掲句から、とんぼの翅が「そらのいろ」なのは、翅の中に空があるからなのだと、気付かされる。


〈暮れかかる空〉が〈蜻蛉の翅の中〉にあるという発見。

とんぼの翅の中に空がある。そして、周りには広い空。とんぼは空に包まれていて、自分を包む空を、その薄い翅の中に取り込んでいる。


とんぼの翅の中で空は、どんどん広がって、とんぼの翅もどんどん広がって、蜻蛉の存在が宇宙へと拡大する。そんな光景を思い描かせてくれる。

〈句集『夜の水平線』(2020年/ふらんす堂)所収〉

2021年8月5日木曜日

DAZZLEHAIKU56[石井清吾]  渡邉美保

  リール巻く傍に青鷺従へて      石井清吾

 釣りの一場面、〈リール巻く〉は竿にアタリがあり「きた、きた、きた」とばかりに、今しも魚を引き上げようとしている瞬間なのだろうか。傍に従えているのが〈青鷺〉というのがなんともユーモラスである。青鷺はたまたま近くにいただけで(従者じゃないよ)っていう顔しているかもしれない。

  一句の中に明らかなのは「リール巻く」という釣りの動作と傍に青鷺を従えているということだけである。一人と一羽の物語は読み手にゆだねられている。

 緑に囲まれた人気のないひそやかな水辺。澄んだ空気の中で、釣り人(少年がいいな)も青鷺もただ静かに水面を見つめている。静謐なひととき。青鷺の青い容姿と釣り人が水辺に立つ光景は、涼やかで、魅力的だ。

 やがて静寂がやぶれ、釣り人はリールを巻き始める。魚は釣れたのだろうか。釣り上げた魚を青鷺に自慢する場面。或いは、餌だけ取られて、獲物に逃げられ青鷺に笑われる場面。どちらを想像しても愉快。一句の中を、心地よい涼風が吹き抜けていく。

句集『水運ぶ船』(2020年/本阿弥書店)所収〉


2021年6月27日日曜日

DAZZLEHAIKU55[内田美紗]  渡邉美保

  昼寝覚この世の水をラッパ飲み     内田美紗  


 昼寝覚めには、朝の目覚めとは違う、独特の感覚がつきまとう。

  夏の暑さの中で、元気回復によいとされている昼寝であるが、二、三十分のつもりが一時間以上寝てしまい、妙にだるさが残ることがある。目覚めてしばらくはぼうっとして体が重い。汗で額に髪が貼りついていたりする。何かに追われ、必死に逃げてきたのか、或いは水中を歩いてきたのか。夢を見ていたのかもしれないが、何も覚えていないのである。


 さて掲句、「この世の水」を「ラッパ飲み」と表現されることで、昼寝覚めのただならぬ気配が迫って来る。水を飲まねばならぬのだ。「ラッパ飲み」の勢いで。(最近はあまり使われなくなった言葉だが)「ラッパ飲み」にはなりふり構わぬ必死さが感じられる。水を飲むことでようやく一息。乾いた喉を潤す水は、まさしく「この世の水」なのだ。


 「この世の水」は自分を取り戻す水であり、明日を生きる水ではないかと思う。昼寝の間、作者はいったい何処へ行っていたのだろうか。

   

  異次元をすこし出入り昼寝覚     柴崎英子

  この世よりあの世よかりし昼寝覚   鷹羽狩行

  生き返る方をえらんで昼寝覚     井上菜摘子


〈『鉄砲百合の射程距離』(2017年/月曜社)所収〉