2018年5月22日火曜日

DAZZLEHAIKU23[山田佳乃]渡邉美保


  潮風に錆びゆく村や仏桑花     山田佳乃
   

 「潮風」「仏桑花(ハイビスカス)」という言葉から連想されるのは、真夏の明るい太陽を浴びた南国の海辺。
 しかし、掲句には明るさや青春性といったプラスのイメージはなく、海辺の村のさびれた光景が目に浮かぶ。
 潮気を含んだ海からの風が金属類を錆びさせるという現実もあるが、村全体が錆びてゆくという把握には、どこか寂しげで、哀しみを含んだ光と風がある。
 漁業の衰退、過疎化、高齢化の波。活気もなく、古びゆく村、老いてゆく村、まさしく「錆びゆく村」なのである。
 同句集中の〈風五月漁師は老いて浜を歩す〉もまた同じ情景が詠まれていると思う。
「潮風に錆びゆく村」は今や各地の沿岸部に見られる光景にちがいない。
 真紅の仏桑花(ハイビスカス)が村の寂しさを際立たせているし、錆びゆく村への供花のようにさえ思われてくる。岸を打つ波音も聞こえそうだ。

〈句集『波音』(2018年/ふらんす堂)所収

2018年4月28日土曜日

DAZZLEHAIKU22[白石正人]渡邉美保


ぎしぎしやひとり登れば皆登り   白石正人


本格的な登山というよりは、里山、野原や川辺を散策しているときだろうか。誰かが小高い所へ登り始めると、皆も登る。自由な散策なのだから後に続かなくてもいいのにと思うのだが、ついついつられて登る。 
誰もがしそうな、ありふれた光景だが「ぎしぎし」との取り合わせが、なんともおかしい。「ぎしぎし」の音も効果的だ。
ぎしぎし(羊蹄)は山野や道端、田畑の畔に自生する最も普通な雑草。昔からみられる草であり、現在も減る傾向にはないというから、頼もしい。都市近郊の汚れた河川のほとりや空地でもよく生育する雑草中の雑草。
しっかりと長い根を張り、丈夫な茎を持ち、堂々と生い茂っている「ぎしぎし」と「ひとり登れば皆登り」に見える人間の軽佻浮薄な一面と、どちらも好ましいのである。

〈句集『嘱』(2017年/ふらんす堂)所収〉

2018年3月21日水曜日

DAZZLEHAIKU21[長谷川耿人]渡邉美保


  カンダタの糸が降りさう杭の蜷   長谷川耿人

[或る日のことでございます。御釋迦様は極樂の蓮池のふちを、獨りでぶらぶら御歩きになつていらつしやいました。]  
こんな書き出しで始まる芥川龍之介の『蜘蛛の糸』に登場するカンダタ(犍陀多)。
地獄の底で蠢いている犍陀多を、お釈迦様は地獄から救い出してやろうとする有名なお話である。
掲句の中で、実景は「杭の蜷」だけである。春になり、川底を這い回っている蜷、杭を上る蜷…。そこから犍陀多を思い起こす作者。蜷の生態や形状に、なんとなく納得させられてしまう面白さがあると思う。
杭を上る一匹の蜷に目を凝らす。蜷の動きは遅々たるものだが、その蜷を見守る作者には、天上からカンダタに降ってきたあの蜘蛛の糸が降ってきそうだと思われる一瞬。
[遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、一すぢ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて參るのではございませんか]
蜷に銀色の糸は降ってくるのだろうか。降ってきた糸を蜷は掴めるのかということも気にかかる。

〈杭の蜷ほろほろ落つる夕日かな  松本たかし〉

ということになったかもしれない。
掲句から、犍陀多の続編、あるいは、なにか新しい物語が生まれそうな気がする。


〈句集『鳥の領域』(2017年/本阿弥書店)所収〉

※〔〕部分新潮社芥川龍之介集『蜘蛛の糸』より引用

2018年3月8日木曜日

DAZZLEHAIKU20[市川薹子]渡邉美保

 人を呼ぶ手の中にあり蕗の薹  市川薹子

まだ風の冷たい早春の野山で、思いがけなく蕗の薹を発見。その嬉しさには格別のものがある。土中からもたげる萌黄色の花茎は、ふっくらと膨らみ、手に乗せると、自然界から贈られたお雛様の風情がある。待ちかねていた春の訪れを実感させてくれる。
掲句、「人を呼ぶ」から、蕗の薹を見つけた喜びがストレートに伝わってくる。誰かに伝えることで、その喜びはさらに広がっていくようだ。
同行の友を呼ぶ作者の弾む声。一つ見つかると次々に現れる蕗の薹。一緒にしゃがんで摘んでいる明るい光景が目に浮かぶ。「蕗みそに・・」「天麩羅に・・」などの料理談義も聞こえて来そうだ。そして、蕗の薹のほろ苦い味覚の記憶が蘇る。そのほろ苦さがまた春を呼ぶ。人を呼ぶ。
「蕗の薹」という季語のゆるぎない力をしみじみ思う。

〈句集『たう』(ふらんす堂/2017年)所収〉

2018年2月19日月曜日

DAZZLEHAIKU19[岩淵喜代子]渡邉美保


 飴舐めて影の裸木影の塔      岩淵喜代子

 飴、裸木、塔からの連想で、吟行中の一齣を想像した。
 散策に疲れ近くのベンチに腰を下ろす。飴を含み、口中にひろがる甘味にほっと一息をつく。冬空のもと、葉を落とした裸の木々は、枝枝とその蔭が重なり合い、美しい模様を描いている。高く聳え立つ塔は翳りを帯びている。冷えた体から吐く息はほの白く甘い。今眺めている景色は、現実のものであっても、現実のものではないかもしれないという浮遊感。眼前の裸木も塔も、それを見ている「私」も影でしかないのではないか。さびしい季節、実らぬ時間。そして、影を見ていることの心地よさ。
 掲句の、「飴舐めて」のやわらかな動作から導かれる「影の裸木影の塔」の硬質なイメージに惹かれる。


〈句集『穀象』(ふらんす堂/2017年)所収〉

2018年1月26日金曜日

DAZZLEHAIKU18[山口昭男]渡邉美保



  今をゆく大きな雲や年酒酌む  山口昭男

新しい年が巡ってきたことを寿ぐお酒、年酒を酌む景はさまざまだ。親族一同集まっての賑やかな年酒もあれば、少人数でしみじみ酌み交わす酒もある。
掲句では、年酒を酌む様子は一切述べられていないけれど、新年のめでたさや華やかさとは別の、思索的で静かな雰囲気が感じられる。
「今をゆく大きな雲」とは何なのか。
新年を迎えたからといっても、本質的にはなにも変わらない現実。私たちは常に「今をゆく大きな雲」の下にいるのかもしれない。
大きな雲は、虹色を帯びた瑞祥の雲の場合もあるだろう。また、すでに逝ってしまったかけがえのない人の面影を大きな雲に見ている場合もあるだろう。その時々の個人的な事情や心のありよう、時代状況によって、変わっていく大きな雲。
掲句からは、自分にとっての「今をゆく大きな雲」とは何かを問われているような気がする。これから先、年酒を酌むたびに、その時その時の「今をゆく大きな雲」について考えることだろう。


〈句集『讀本』(ふらんす堂/2011年)所収〉

2018年1月16日火曜日

DAZZLEHAIKU17[岩田由美]渡邉美保



   くひちがふあり枯蓮とその影と  岩田由美

冬の日を浴びて、枯蓮は水面にそれぞれの影を落としている。枯れた蓮の茎や葉、朽ちた花托などが残骸のように残っている姿は痛々しいが、青空と枯蓮と、水面に映る影が織りなす造形は現代アートのような面白さがある。
掲句、そんな枯蓮とその影とを一つ一つ確かめている作者を想像すると、なんだか楽しくなってくる。あるはずの影がないぞ、と作者自身も枯蓮の一本になって水鏡を覗いているかのようだ。
「くひちがふ」ところに動きがあり、明るさがある。枯蓮同士がじゃれあっているのかもしれない。作者の自在な眼差しを思う。



〈句集『雲なつかし』(ふらんす堂/2017年)所収〉

2017年12月18日月曜日

DAZZLEHAIKU16[安田中彦]渡邉美保

死にぎはの鯨見にゆく日曜日  安田中彦

何らかの理由により浅瀬や湾などの海浜に、生きたまま乗り上げた鯨のことを座礁鯨、あるいは寄り鯨というそうだ。
どこそこの海岸に鯨が迷い込んできたというニュースをたまに聞くことがある。そういった鯨は、人の手で外海に戻そうとしても生き延びるのは難しく、助かることは少ないそうだ。そして、その鯨を見るために、近隣から多くの人が集まって来るという。なかには自前のチェンソーとクーラーボックスを持参する人もいるらしい。
掲句、「死にぎはの」の直截的な措辞に、気の毒な鯨の事情と、それを見に行く作者の屈折した思いが想像される。
瀕死の鯨の悲しみ、あえてそれを見に行く、やみがたい好奇心、罪悪感。鯨にとっては、生き難くなってしまった地球、そうさせているのは人間なのでは?の煩悶。「死にぎはの」が投げかける意味は深い。



〈句集『人類』(邑書林/2017年)所収〉

2017年11月30日木曜日

DAZZLEHAIKU15[友岡子郷]渡邉美保

   掛け大根より白波の船現るる   友岡子郷

掛け大根の白と白波の白。
一句の中では白い色のみが述べられているが、そこには澄み渡る青い空、遠く広がる青い海原、青を背景にして、白の際立つ光景が目に浮かぶ。冬の冷たい空気の中で、青と白の対比がとても美しく、清々しい。
最近はあまり見られなくなった掛け大根。高々と干された大根の真っ白な列が並ぶ風景は、郷愁を誘う。掛け大根は、寒風にさらすほど甘味が増し、美味しい沢庵ができるという。沢庵を漬けるということが珍しくなった現在、掛け大根の風景は、失われゆく生活の実景の一つだと思う。
掛け大根に視界が遮られているとき、白波を立てて進んでくる船は突如、掛け大根の間から現れる。いつもとは違う光景がユーモラスである。船の音、波の音も聞こえてくる。


〈句集『海の音』朔出版2017年所収〉

2017年11月14日火曜日

DAZZLEHAIKU14[友岡子郷]渡邉美保



   文手渡すやうに寄せくる小春波   友岡子郷


冬に入ったとはいえ、春のように暖かい小春日和。うららかな空、うららかな日ざしのもと、海岸にいると、波は一定の間隔を置きながら、ゆったりと寄せてはかえす。次から次へと畳みかけてくる波の様子が目に浮かぶ。その単調で、静かな波音も聞こえてきそうだ。
波が寄せてくるさまはまさしく「文手渡すやうに」なのだ。それは巻紙にしたためられた長い長い文かもしれない。
本句集のあとがきに「海鳴り、潮風、舟の音…、今の私の生活圏にある」と記されている作者ならではの繊細な感懐ではないだろうか。
海のひろさ、水平線のはるかさ、日頃の思いがすべて含まれているような気がする。
寒さに向う前のほっとするような暖かいひととき、「文手渡すやうに」と形容される波がなんともやさしく、さびしい。


〈句集『海の音』朔出版2117年所収〉