2017年3月10日金曜日

フシギな短詩91[加藤知子]/柳本々々


  海峡の白菜割って十二階  加藤知子


ふだん〈俳句を読まない〉人間が〈俳句を読む〉ということの難しさを考えたときに、その難しさは、〈季語〉にあるのではなく、実は〈切れ〉にあるのではないのかと思うことがある。

わたしたちはふだん本を読むときに、テレビを観るときに、スマホを見るときに、〈切れ〉に注意していない。季語なら季節の言葉だろうなあとなんとなくわかるが、〈切れ〉に注意して読めと言われてもいったいどうすればいいかわからない。

ここで〈切れ〉に注意しながら読みつつ、なおかつ〈切れない〉ことにも注意した読みをもし、最終的にそれらを合わせ読みしてしまうというアクロバティックな読みを展開するとはどういうことかを加藤さんの句+関悦史さんの読解を例にみてみたい。

関悦史さんが『ウラハイ=裏「週刊俳句」』の「水曜日の一句」でこの加藤さんの一句に〈プロセス〉のような読みをほどこしている。そのことによってふだん俳句を詠んでいる人間がどのように俳句を読んでいるのか、俳句の読みの可能性をさぐっているのかの一例がわかるはずだ。

まず関さんは、この加藤さんの句を「素朴実在論的リアリズムに寄った読み方をしてしまえば、上五「海峡の」で軽く切れ、海峡の見下ろせる高層住宅の十二階のキッチンで白菜を割っている図ということになろうか」とさっそく「切れ」を提示している。

この「切れ」をまず感触することによってこの俳句はイメージがたちあがってくる。「海峡の白菜」ってなんだ? と性急に考えてしまってはだめだということだ。「海峡の」でいったん切ることによって、「海峡」と「白菜」を分割しながらイメージをつくる。

外山一機さんが〈俳句は接続詞を必要としない〉と書かれていたことがあったが、はじめて俳句を読む人間の〈とまどい〉はこの「切れ」た箇所を〈つなぎあわせる〉ことにあるのかもしれない。俳句は〈つなぐ〉ことによってイメージをつくるのではなく、〈切る〉ことによってイメージをつくるのだ。

ただし、じゃあ、「切れ」がわからなければもう俳句を読む〈余地〉はないのかというとそんなこともないらしいことが関さんの〈読み〉を読んでいるとわかってくる。だからふだん俳句を詠まない/読まない〈わたしたち〉にもまだ可能性はある。あきらめてはいけない。
 
  だが言葉の並びの上では「海峡の」は「白菜割って」に直結しており、あたかも白菜を割ることによって「海峡」が生成させるかのようなダイナミズムが堂々と隠れているのだ。……
  割られる白菜と海峡は「分離されている」という形姿によってすでに結びつけられているのである。

「白菜」と「海峡」で「切れ」ているのかと思いきや、「白菜」と「海峡」は《分離されている》という同じ性質が見いだされる以上、直結することもできるという。つまり、関さんは驚くべきことに「切れ」の読みの提示を示すやいなや、「切」らない読みの可能性も続けて示したことになる。

ここにはもし「切れ」として〈俳句を読む〉やり方を知らないのだとしても、俳句を自分なりに読むことができるかもしれないというひとつの読みの可能性が示唆されている。かんたんに言うと、あきらめるな、とも言っている(ように聞こえる)。

俳句は〈こう〉いう読みしかできないものだと一見考えられがちだが(決定的な俳句観、おまえに俳句はわからない)、もしかするとまったく別の読みが可能な場合もあるのであり(非決定的な俳句観、おまえにも俳句はわかるかもしれない)、そのどちらにも回収されない場合もある(かもしれない)。

わたしは実は『週刊俳句』で、はじめて関悦史さんや小津夜景さんの俳句をめぐる記事を読んだときそういった俳句の〈非決定性〉のようなものを率直に感じた。後に『俳句新空間』における外山一機さんの一連の時評を読んでいったときも〈あなたたち〉の文学ではなく、〈ぼくたち〉の文学としての俳句というものがあることを感じた。これも素直な印象と驚きとしてだ。

それがいいことなのかどうかわたしにはわからないし、そんなことは必要でないかもしれないし、そもそも「違うよ」と一蹴されてしまうことかもしれないけれど、俳句には、はじめて触れてしまった〈ぼくたち〉への余地があるかもしれないということ(ただし、同時に〈なくてもいい〉という立場もあっていいように思う。〈ない〉場所から始めるのも俳句のような気もするから。だから「かもしれない」)。

わたしたちが俳句に出会うということは、こうした読みの可能性を選択可能性として引き出し、捨て置かず、そのまま提示してある〈読み〉に出会う、ということでもあるのではないか(もちろんその逆の絶対的な〈読み〉に衝撃的に出会ってしまうのもありなのだけれど。だから「ではないか」)。

わたしは、関悦史さんの〈プロセス〉をそのまま提示していくという〈読み〉に、〈俳句〉の魅力を感じてしまったひとりだ。関さんはこの加藤さんの句を「一気にかけぬける一句」と評しているが、実は俳句を読みながらたえず「かけぬけ」ているのは関さん自身なのではないかと思うこともある。

関さんはこの加藤さんの読解を示した回の文章をこんな一文でしめくくっている。

  「白菜」にこれほどの混沌的出会いを引き寄せる通路が潜在していたとは。

〈俳句〉に、ではなく、関さんは最終的に、〈白菜〉に、驚いたのだ。

この鑑賞文の最終目的は、《白菜》におののくことにあった。

「白菜」に驚く俳句鑑賞文。しかもその白菜が用意した「通路」をかけぬけながらの。

それって少し、ずるくて、かっこよかったのではないか。ずるくて、かっこいいとは、「混沌的出会い」を用意してしまう者のことではなかったか。


          (『短歌と俳句の文学誌We』3号、2017年3月 所収)