2017年5月22日月曜日

続フシギな短詩115[山田露結]/柳本々々


  たんぽぽに踏まるるつもりありにけり  山田露結

以前から、山田露結さんの句集『ホームスウィートホーム』の構成が気になっていた。

句集『ホームスウィートホーム』は、構成として春・夏・秋・冬の四つのセクションに分かれており、その合間合間に色紙のページが入っている。それぞれの色紙には自由律句が一句ずつ載っている(五七五句や七七句など)。

春のピンクの色紙には、

  みろ。みろ。あとからあとから、虹が立つ  山田露結

夏のグリーンの色紙には、

  長男叫ぶ「今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!今っ!」  山田露結

秋のイエローの色紙には、

  ちんこ、大人になっても一つ  山田露結

冬のパープルの色紙には、

  とうとう料理酒を飲んでる  山田露結

そして最後、中原道夫さんの解説と露結さんのあとがきのパートに入る前に、ブルーの色紙があり、

  うなだれるもホームスウィートホーム  山田露結

と載っている。ちなみに春夏秋冬の色紙には中央に大きく句が載っているのだが、最後の色紙の「ホームスウィートホーム」の句はほんとうに語り手が「うなだれ」たように隅に小さく載っている。

こうやってセクション扉の句だけ抜き出して並べてみるとわかるのだが、この扉の色紙の句はあるベクトル(ゆるい連なり)をもっている。

春扉の最初の句は「あとからあとから、虹が立つ」というように、こう言ってよければ、〈男根的〉である。「みろ。みろ」なども父権的に感じられる。『ホームスウィートホーム』という句集は〈父親的〉なものから始まった。

夏扉。その〈父親〉には「長男」がいる。「長男」が「叫ぶ」。「今っ!今っ!今っ!」と。春扉には「あとからあとから、虹が立つ」と語り手は〈これからも続く時間〉を語ったが、夏扉において「長男」は〈これからも続く時間〉を語らなかった。「今」という〈現在の瞬間〉を連呼し、シャウトしている。父は、それを聴き、記した。「ホーム」は〈家庭〉なので父親もいれば長男もいるわけだが、「ホーム」で暮らすということは、時間をずらしてくる〈他者〉と共生することでもある。「あとからあとから、虹」を語った〈父親〉は「長男」の「今っ!」のシャウトによって父権的な垂直した〈男根的〉時間をずらされていく。しかし、それが、「ホーム」だ。

秋扉。「ちんこ、大人になってもひとつ」と語り手は「あとからあとから、虹が立つ」ことを象徴的に諦めている。これは長男の〈今シャウト〉とも重なっている。「今」を何度連呼しても「今」は「今」しかないのだ。「今」がどれだけ林立しようとも「今」は「ひとつ」だ。もちろん「大人になっても」だ。「あとからあとから、虹が立つ」は長男の〈今シャウト〉を通して「ちんこ、大人になってもひとつ」に、変わった。

そして冬扉。「とうとう料理酒を飲んでる」。春に語られていた〈これから〉の始発の時間意識は、「とうとう」という帰着の時間意識に変化し、ひっくりかえった。一年を通して、ホームを通して、時間意識が、〈裏返った〉のだ(解説を書かれている中原道夫さんは露結俳句の〈逆説〉=〈ヒネリ〉を指摘している。だからこのヒネリの気分は句集に満ちている)。

最後の扉。「うなだれるもホームスウィートホーム」。「みろ。みろ」と言っていた語り手は「うなだれる」とあるように〈ホーム〉を通して〈去勢〉されたが、しかしそうした時間意識が変容する場所を〈ひねり返す〉ように語り手は「ホームスウィートホーム」と名付け、受け止めた。「うなだれ」たが、「うなだれるも」というひねりによって「ホームスウィートホーム」を見いだしたのだ。

「ちんこ、大人になって《も》ひとつ」の「も」は、〈あきらめ〉の「も」であったが、「うなだれるも」の「も」は〈意志〉の「も」である。「うなだれても、いいえ、そこはホームスウィートホーム」というわけだ。

このとき、この句集のいちばん最初に置いてある、

  人間はつくしの仲間だと思ふ  山田露結

という「人間」を「仲間」という〈帰属意識〉でとらえた一句が意味をもってくる。おそらくこのはじめの一句は、〈はじめて読んだとき〉と〈この句集を読み終えてからもう一度読んだとき〉では意味が変わってくる句である。

「人間」は「つくし」のように〈群生〉して生きるだけではない。〈群生〉のなかで思わぬ〈去勢〉を受け、時間意識の変容を感じ、それでもその〈群生〉を「ホームスウィートホーム」と「思ふ」ことがこの句集が、この句集の構成が見いだしていることなのである。

だから、

  たんぽぽに踏まるるつもりありにけり  山田露結

という「踏ま」れる「たんぽぽ」の意識を、「つもり」と逆の主体意識から〈ひねり返し〉た句が意味をもってくる。

〈ホームスウィートホーム〉とは「踏まるるつもりありにけり」を育てる場所なのだ。タフな機知で。

わたしは、ひとりでは、うらがえらない。うらがえられない。ひとは〈うらがえる〉ことを、ひとと、家族と、まなぶ。うらがえると、おなじ・ちがう顔をした、また、家がある。

家族と生きるって、なんですか。

  終点の起点に同じ立夏かな  山田露結


          (『ホームスウィートホーム』邑書林・2012年 所収)