2017年6月17日土曜日

続フシギな短詩126[吉井勇]/柳本々々


  かにかくに祗園はこひし寝(ぬ)るときも枕の下を水のながるる  吉井勇

加藤政洋さんの『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』(ナカニシヤ出版、2017年)を読んでいたら面白い指摘があった。

上の吉井勇の歌は有名な歌で短歌のアンソロジーなどを読んでいるとよく眼にする歌である。たぶん「枕の下を水のながるる」という比喩が現代的でいまだに有効だからじゃないかとも思う(ちなみに枕って音響装置的役割をすることが本当にあるのだ。たとえばマンション暮らしをしていると枕に耳をつけて眠ると下の階の話し声が聞こえたりする時もある。枕の下には世界が広がっている)。

で、加藤さんが指摘しているのは、この吉井の歌と谷崎潤一郎の歌の比較である。谷崎潤一郎は著作の中でこの吉井の歌を引用している。ところが谷崎は〈まちがって〉引用しているらしいのだ。

  吉井勇の歌に、「かにかくに祗園はうれし酔ひざめの枕の下を水の流るゝ」と云ふ吟詠があるのは、……
  (谷崎潤一郎「青春物語」)

吉井の歌の第2句・3句の「こひし寝るときも」が、谷崎引用バージョンでは「うれし酔ひざめの」になっているのだ。

吉井勇の歌では「こひし」だった箇所が、谷崎が引用した歌では「うれし」になってしまった。この谷崎の〈引用間違い〉によってなにが言えるだろう。

  「恋し」は、距離を前提する語句だから…、今はもうそこにいないという空間的な次元と、時間的な事後性とを含意する。つまり、恋しい《祗園》を離れている状態でうたわれているものとみるべきであろう。
  (加藤政洋、同上)

だから吉井の歌の語り手は、祗園から離れている。ところが谷崎の歌の「うれし」は、

  酔いの醒めるのが夜半であれ、明け方であれ、あるいは翌朝であっても、その場の満足感をうたっている
  (加藤政洋、同上)

だから谷崎の引用歌の語り手は、《祗園そのものの場》にいることになる。

つまり、わたしは恋しい、と、わたしは嬉しい、の語り手の位置性の違いである。恋しいというひとは離れた場所にいるが、うれしいというひとは今・そこにいる。

  吉井は祗園《で》ではなく(no-where)、祗園《を》うたった。それに対して、谷崎の「酔ひざめ」には、「今・ここ」性がある(now-here)。
  (加藤政洋、同上)

谷崎にとってこの歌は、〈今・ここ〉的な歌だったのだ。

この加藤さんの指摘からわかることはなんだろう。

わたしは別に引用を間違えることを推奨するわけではない。でも、引用を間違えたとき、そこにはなんらかの〈当事者性〉が入るということは考えてもいいのではないかと思う。〈わたし〉や〈あなた〉の問題として。

短歌の引用は、よく間違えるし間違えられる(私もできるだけ気をつけているのだがやはり間違えることがある)。間違った引用は直さなければならないが、直す時にあなたがその歌の引用の〈当事者〉としてどうして〈そう〉間違ったかを考えてみてもいいかもしれない。あなたが〈だれ〉であったのかを。

わたしは昔、木下龍也さんの「鯛飯タイムマシン」の歌(ラップ)を「蛸飯タイムマシン」と〈まちがえ〉てこんなことを言ったことがある。

  たぶん自分に鯛飯文化がなかったんだとおもうんですよ。たこめししかしらなかったっていう。それでそのときのことを歌にしたら蛸飯タイムマシンになったんですよ。でもたぶんあの場にいないとまちがいはおこらないじゃないですか。なんかだからそういう体験の歌なんだとおもって。その場にいるからこそ間違いっておこるんです。そう、おもったんですよ。
 (「鯛と蛸」『きょうごめん行けないんだ』食パンとペン、2017年)

何度も言うが間違いは正当化されることなくちゃんと直さなければならない。それをふまえた上で、でも〈間違ったじぶん〉がどうして〈間違った〉のかも考えてみてもいいかもしれない。それはあなたが、そのとき・そこに・あなたとして・そういうかたちでしかいられないかたちで・いた、ということにもなるかもしれないから。

わたしたちは別に短歌でなくても、日々、だれかの、テレビの、ネットの、ほんの、まんがの、えいがの、言説を引用している。でも引用されていくうちに、引用者の〈当事者性〉が塗り重ねられていく。わたしたちは歴史的な存在だから、そこにわたしたちの今・ここが塗り重ねられる。

引用者は透明な存在ではない。いや、わたしたちは透明じゃない。どんなに透明であろうとしても、あなたは透明ではない。そこにはかならず〈あなた〉がいる。その〈あなた〉にときどき出会ってみてもいいんじゃないか。そう、おもうんだけど。


          (「祗園はうれし酔ひざめの……《祗園新橋》の強制疎開」『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』ナカニシヤ出版・2017年 所収)