麦秋の水のせてゐる忘貝 市川薹子
浜辺を歩いているとき、二枚貝の片方が離れて一片ずつになった貝殻をよく見かける。それを「忘貝」というそうだ。離ればなれになった二枚貝の片方が、他の一片を忘れるという意の名称だという。また、ワスレガイという名の二枚貝もあるそうだ。「忘貝」の音の響きにはどこか郷愁を感じさせるものがある。
掲句、小さな貝にのった、ほんのひとしずくの水にちがいない。初夏の澄んだ空気の中で、忘貝にのった水は、丸くふくらみ、光り輝いていただろう。周囲の緑も映していただろうか。ささやかな発見。
麦秋の水をのせ、小さな器となった貝を一句に仕立てる作者の繊細な手腕と心延えを思う。
「麦秋」「水」「忘貝」が心地よく響き合う。
「忘貝」は、忘れていた懐かしい世界を思い出させてくれるのかもしれない。
〈句集『たう』(2017年/ふらんす堂)所収〉