草の実になるなら盗人萩がよい 大石悦子
11月初旬、田圃の畦道を抜け、里山を歩く。道すがら、いろいろな草が実を結んでいた。桜蓼、小蜜柑草、屁屎葛、鵯上戸、石美川、牛膝、そして盗人萩などなど。いずれもかわいらしい小さな実である。
これら草の実は、野趣に富み野山を彩るが、あまり人々に注目されることもなく、束の間に消えてしまう。
掲句、〈草の実になるなら〉 はそんな草の実への、作者の愛情の表れのような気がする。自分が草の実になるのを想像するのは楽しい。選択肢は豊富だ。すてきな遊びだと思う。また、人間もしょせんは草の実と同じ存在なのだという感懐も感じられる。
作者は〈盗人萩がよい〉という。いささか物騒な名前からして愉快だし、名の由来となる実の形、なるほど盗人の忍び足に似ていて面白い。衣服に付いてもチクチクしないので、棘のある実ほどは嫌がられないだろう。旅人の服や鞄にくっついて、その相手と一緒に思わぬところまで移動し、旅先で落ちて、その地に芽吹くというロマン。盗人萩いいなあ。では、私は小蜜柑草に。
〈月刊『俳壇』12月号(2019年/本阿弥書店)所収〉