2017年8月5日土曜日

続フシギな短詩147[種田山頭火]/柳本々々


  分け入つても分け入つても青い山  種田山頭火

高倉健最後の主演作品となった降旗康男監督の映画『あなたへ』は、高倉健演じる主人公が死んだ妻の真意を知るために長崎県まで旅をする物語なのだが、その旅の途上でおなじく旅をしている国語教師と名乗るある男に出会う。その男は北野武が演じているのだけれども、北野武は高倉健に種田山頭火について話してくれる。こんな内容だ。

旅と放浪の違いはわかりますか。芭蕉は旅をしたひとです。山頭火は放浪をしたひとでした。要するに旅と放浪の違いは、《目的があるかないか》なんですよ。

そして北野武は山頭火の「分けいっても分けいっても青い山」の句をつぶやく。つまり、放浪しても放浪しても目的がないのでどこまでも「青い山」が続くということだ。どこにもたどりつかない。それは「青い」という絵画的修飾が示すようにまるで遠景からとらえられた「山」なのだ(ほんとうに今わけいっている人間が「青い山」だなんて認識するだろうか?)。

そう、この句には「分けい」るという近距離なのにもかかわらず、近距離と遠距離がないまぜになっていく瞬間そのものが描かれている。近距離と遠距離がごたまぜになって見境がつかなくなる倒錯的〈放浪〉のしゅんかんが。

もちろん繰り返すがそれはどこにもたどりつかない。

でも、それは、いい。

今回気になったのは自由律についてである。映画のなかの北野武は、この句の内容に沿って「目的」がないことを「放浪」といったが、しかしそれはむしろ形式面においていえることなのではないか。

定型は17音と音数が決まっている。その意味で、定型は、しっかりとした目的のある目的論的形式である。17音にむかってわたしたちはことばを紡ぐのだ。

でも、自由律はちがう。自由律は、「自由」の名のとおり、非目的論的形式である。そこには「目的」がない。つまり「自由律」とは「自由」が目的というよりは、目的論的形式のレールから逸脱しつづけることが唯一の非目的的目的と言える。もちろんそれは込み入った考え方だ。しかし「分け入つても分け入つても」そのものは込み入っている。大事なことなので二回も「分け入つて」込み入っていく。しかしそれでもぜんぜん対象物は近接せずに、「青い山」として遠景化されていく。こうした目的志向(分け入つて)が非目的物(青い山)としてたえず逸脱してしまう非形式的形式こそが自由律なのではないか。

北野武は実は「国語教師」ではない。車上荒らしの犯罪者である。警察に取り押さえられた彼は「旅をしているうちに目的を見失ってしまいました」と高倉健にむかって悲しそうに笑う。でもそれこそが、まさに「分け入つても分け入つても山」の体現そのものなのである。目的志向を反復するうちに、非目的志向の内側にとらえられてしまう。むしろ目的としていたはずのそれそのものから自分自身が被目的化されてしまう。「青い山」が遠景になったのは、目的を見失ったからではない。みずからが被対象化されてしまったのだ。《こちら側》が遠景になってしまったのである。だから、たどりつかない。

自由律とは、どこかで、遠近の倒錯なのだ。だから、

  墓のうらに廻る  尾崎放哉

映画のなかの北野武は旅のもうひとつの特徴を語っていた。「旅とは、帰るところがあるということです」と。

でも、遠近が倒錯してしまった人間には帰る場所なんてない。だから自由律の人間は、いつも、さみしい。あるいてもあるいてもまっすぐな道なのにぜんぜんどこにもたどりつかない。たどりつけない。歩いても歩いても。

  まつすぐな道でさみしい  種田山頭火


          (降旗康男『あなたへ』東宝・2012年 所収)

続フシギな短詩146[今井和子]/柳本々々


  ネコバスで走る運動会の真ん中  今井和子

宮崎駿『となりのトトロ』に出てくる猫のバス=ネコバスに関して以前から少し気になっていたことがある。ネコバスにはわたしたちがふだん使うバスのように前方に行き先が表示されているのだが、その行き先には「めい」と書いてる。「めい」というのは『となりのトトロ』で迷子になった登場人物なんだけれども、注意したいのはネコバスは〈場所の力学〉に沿って動くわけではなく、〈人間の力学〉に沿って動いている点である。ひと、が行き先になるとはそういうことなのだ。だからネコバスはたえず流動的であり、行路も進行方向も自由であり、遊牧的にそこかしこを横断しつづけるのだ。

そう考えたときに、ネコバスのネコバスらしさとはなにかといえば、それは〈非境界性〉なのではないかと思うのだ。そしてその点においてネコバスはやはり〈猫〉なのだと。

わたしたちが猫をいまだに把握も把持もできず、謎めいた存在として受け取っているのは、猫の境界の把握の仕方が犬よりもわからないからである。猫は境界をもっているらしいことは、わかる。でもそれは非規則的であり、ときに、とうとつだ。たとえば猫が中空をみつめて、なにかや誰かに向かって鳴いているとき、そこにはわたしたちが見えない境界があるだろう。わたしたちには絶対に引くことのできない〈境界〉が。わたしたちは、たぶん、猫から〈境界〉の教育を受けるひつようが、ある。

掲句は、運動会の真ん中に「ネコバス」が〈境界〉を引いていく。もちろん、「運動会」とはなにかといえば、ゴールテープや競技のための白線が示すとおり、〈境界の祭典〉的な場所である。そこに境界を無尽に散らしつつも、境界を引き直していく〈境界のアナーキーな猫〉がやってくる。ここでは、境界(運動会)と非境界(ネコバス)が十字状に交錯する。

〈1〉という一本の絶対的な線に向かって走っていく競技者が特権的な運動会と、〈人〉(=めい)というラインがわかれた線にならない線に向かって走っていくネコバス。

わたしたちは、今、境界が暴走するまっただなかにいる。いや、もしそう思えるなら、あなたはもうネコバスに乗っているんだよ、という今回はそういう話なんだと、思う。

(「Cat Avenue」『猫川柳アンソロジー ことばの国の猫たち』あざみエージェント・2016年 所収)

続フシギな短詩145[橘上]/柳本々々


  イズミは走るのが速かった。誰も見たことはないけれど、走るのが速かった。
 
 …イズミは月をみた。その時、月を見たのではなく、イズミが月を見たのが、その時だった。

 …イズミは答えの出ているクイズしか知らない。答えを知らないクイズを何一つ知らない。  橘上「イズミ」

詩「イズミ」はイズミの不思議な生態がめんめんと綴られていく。ただし、イズミは語り手によって一方的に記述されるだけではない。語り手の「僕」とイズミは詩のなかで視線を介して関係をもつ。

  イズミ。僕がつぶやくと、別のイズミが僕の方を見た。

視線によって僕とイズミは関係をもつのだけれど(ただ「別のイズミ」なので間接的関係だが)、この詩では視線が対象と独特な関係をもつことで、ここにしかありえない世界を構成していく。

たとえば引用箇所。「イズミは月をみた」が、イズミは「月」を見たのではなく、「イズミが月を見たのが、その時だった」と語り手は述べる。ここでは対象を見ることそのものよりも、「その時」という視線をめぐる出来事性が叙述されている。

この詩において、見ることは、見ることでなく、出来事を掘り起こすことである。

  死んだ六角形を見た。それを見てイズミは生まれていないと言った。

イズミは「死んだ六角形」を見て、生きているか・死んでいるか、ではなく、生まれているか・いないかをみている。イズミは、よりふかく、出来事の深奥へと先行=潜行しているのだ。

この詩には、素朴な〈まなざし〉は展開されない。まなざしにどうしても貼りついてしまう出来事性がビビッドなかたちで、周波数を強めながら、展開されている。しかしそのまなざしに、僕たちはたどりつけない。なぜなら、「別のイズミが僕の方を見た」とあるように、イズミに見られた僕はすでにイズミの出来事にとりまかれているからだ。僕は、イズミに、たどりつけないだろう。

  どのイズミも死ぬ前に、生きることを忘れ、そのことを思い出さないものはいなかった。

最終的にイズミは死んでしまうのだけれど、イズミは、生きることをわすれることで、そのことを思い出す、という、複雑な生死のアクロバティックを展開させながら、死んでいった。

イズミが教えてくれたように、詩とは、ふだんは素朴にされている行為、たとえばまなざしが、アクロバティックに展開される場所なのかもしれない。

わたしたちは詩を読みながら、ふだん、抑圧し、シンプルにしている行為を、曲芸的に展開していく。

わたしたちは、詩によって、微分的にふだんの行為にかかわることになる。むずかしいことではない。それは、わたしはわたしであり、わたしはわたしでないことによって、わたしにかかわろうとする態度のことである。詩はその態度を表明する。だから、イズミはイズミだし、イズミはイズミではない。それはやぎもとがそう言ったのではなくて、そう、詩の冒頭に、やぎもとが読んだときに、書いてあった。

  イズミはイズミと呼ばれていた。他に呼び名もあったけれど、皆イズミと呼んでいた。


          (「イズミ」『ユリイカ』2016年11月 所収)

2017年8月4日金曜日

続フシギな短詩144[藤本玲未]/柳本々々


  終電の銀色のやつが過ぎていくあたしの夜をおいてっちゃやだ  藤本玲未

前回、『短歌ください』ではじまった話だったのでもう少し続きを。私が「短歌ください」に投稿しはじめたときに、とても目を引いたのが藤本さんの歌だった。藤本さんの歌集帯文に東直子さんが「知的で、醒めていて、苦いのに、ほんのり甘くてやわらかい」と書かれているが、ほんとうにそのような複合体としての感性を感じさせるのが藤本さんの歌で、この「知的/醒めて/苦い/甘い」というバランスをもった複合体の感性が歌として昇華されると不思議な強度をもった歌になる。あえて誤解をおそれずに一つの言葉であらわせば〈残酷さ〉という強度もそこには感じられた。

たとえば。上の歌では「終電」といったん名詞で対象が確保された〈にもかかわらず〉、そこから〈もういちど・わざわざ〉「終電」は「やつ」と語り直されていく。これは「電車」に対する〈残酷さ〉のまなざしではないか。

しかしなぜ残酷にまなざすのか。理由も語られている。「あたしの夜をおいってっちゃ」うからだ。それが「やだ」なのだ。ここには「あたし/おいてっちゃ/やだ」という強い主観性がある。その強い「あたし」の主観性は「やつ」と共振している。

「あたし」の世界にとって「電車」は「やつ」になるのだ。そういう主観性の強度を「電車」から「やつ」へと歌のなかでスパークさせるのが藤本さんの歌のひとつの魅力なのではないかと思う。

主観性の一気に加速する強度によって世界は変質する。

  ここでもう安心してもいいですかキャベツはあなたの頭蓋に似てる  藤本玲未

「キャベツ」と「あなたの頭蓋」は〈わたし〉の「安心」を介して相互置換される。しかし非対称的な置換であることにも留意したい。いま、わたしは、「あなたの頭蓋」をもっているのではなく、「キャベツ」をもっているのだ。だから「あなたの頭蓋」はここに欠落している。「キャベツ」があるだけだ。いまここにいない「あなた」はいま「キャベツ」に置換されている。そしていま「あなた」はここにいなく、「キャベツ」だけしかいないのに、語り手は「安心」しようとしている。《あなたがいなくてもキャベツがあればいい》という主観性の強度がある。

でもたとえばこの歌の次にはこんな歌が並べられている。

  別居するように野菜を選ぶけどわたし、わたしがいなくてもいい  藤本玲未

「安心」した〈わたし〉の主体性は即座に次の歌が否定してゆく。「野菜を選ぶけど」「わたしがいなくてもいい」と。〈わたし〉は「わたし」に対しても〈残酷さ〉がある。

「短歌ください」ですごく印象的だった歌がある。

  マンホールにひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった  藤本玲未

歌集の最後の方にのっている歌だが、歌集冒頭で「銀色のやつ」に「おいて」いかれそうになった語り手は、こんどは逆に、「星」をあとにしようとしている。「マンホール」に「ぬいぐるみ」をおいて。「この星だいすきだった」と感慨をいだいて。

でも「だいすき」だけれど「この星」を「おいて」いかなければならない。このとき、残酷さの位相は複雑なうねりをみせる。だれが・なにを追い出し・おいていき・おいていかれ・なにからだれがおいていかれ、「やだ」といったり「だいすき」といったりするのか。

もしかしたらそれを「残酷」という言葉で語るのは不適当で、まだそれにあたいすることばは、この地球にはないのかもしれない。

  死なせたら死んだままだと気付かずにあなたにずっと話しかけたい  藤本玲未

          (「駅のひだまり」『オーロラのお針子』書肆侃侃房・2014年 所収)

続フシギな短詩143[陣崎草子]/柳本々々


  好きでしょ、蛇口。だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ  陣崎草子

まだ短歌をつくっていなかった頃に図書館の椅子にすわってなにげなく『短歌ください』を読んでいたらこの歌が私の眼に飛び込んできてすごくおどろいたことがある。

短歌ってこういうことなんだ、ってすごくびっくりした思いだったのではないか。具体的に、みてみよう。

出出しの7音の「好きでしょ、蛇口。」。たぶんほとんどのひとが「蛇口」を「好き」ではないと思う。というか、関心すらないのではないか。わたしたちが詩性を感じるのはその蛇口からほとばしる水のほうなのであり、水のひかりやゆらめきの方なのだから、「蛇口」には詩的には用がないのだ。

ところが語り手は「好きでしょ、蛇口。」ではじめた。「いいでしょ、蛇口。」ではない。「好き」が前提になっている。ここで「好き」でないひとはまずこの歌からはじきだされる。その強さをもった7音だ。「好きでしょう、蛇口。」の5音はじまりでは、弱い。ここは個性をもった7音で「好きでしょ、蛇口。」とはじまるから、強い。

蛇口がなぜ好きなのかその理由もこの歌では説明されている。「だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ」。たしかに蛇口は「飛びでている」。しかしそれは蛇口を形からとらえた場合であり、意味をぬいた蛇口に出会わなければならない。わたしたちは蛇口から機能をぬいて、意味もぬいて、形としてみたときに、この語り手が出会っている蛇口に出会える。

しかしその蛇口のなんと遠いことか。わたしたちはこのような蛇口に出会えるのだろうか(そもそも、いま、あなたが毎日使っている家の蛇口の形状を思い出せますか? わたしはむりでした)。

ただこの歌はさいごに「蛇口」のよさを翻訳してくれている。それが「光っているわ」だ。わたしたちは光によって像を認識するが、きらきらと光っている蛇口をみて、それまでにはなかった蛇口に気がつくことはできるかもしれない。光というのは、形式を翻訳しなおすのだ。印象派の絵画を思い出そう。たとえばモネの絵画には輪郭がない。点描である。でも、「光」に沿って世界をみると輪郭の溶けた世界になる。人がいる。花がある。傘をもっている。と意味で世界をみるのではなく、光のうつろいによって世界をみるからだ。

光は世界の輪郭を再構築する。ここですでに取り上げている堂園昌彦さんの光にあふれた歌集も、田島健一さんの光に満ちた句集もそうだ。

光は、世界の翻訳を、再要請する。

だからこの歌は、光によって蛇口を翻訳しなおした歌だったのではないか。でもそこに「好きでしょ」という賭金が用意されたことがこの歌の強度だ。「わかるでしょ」ではない。「好きでしょ」なのだ。

この歌は、あなたに理解ではなく、跳躍を求めている。世界への飛躍を。歌を、世界を、イメージを、光をとおしてのひやくを。

  指を入れてはいけないと目を閉じる星降る夜にまわるミキサー  陣崎草子


          (「指を入れてはいけない」『春戦争』書肆侃侃房・2013年 所収)

2017年7月20日木曜日

DAZZLEHAIKU6[長谷川晃]渡邉美保



夜半の夏畳の縁を獏が行く   長谷川晃


初めて動物園のバクを見たとき、「これが夢を食べる動物なのか」と妙に感心した。しかし、動物園のバクと「悪夢を食べる霊獣」の獏とは別物であるらしい。
小さな目と間延びした鼻(吻)、奇妙な格好のこの動物は、本来、森林ややぶで暮らし、薄明・暮時に活動、草や芋、果実を食べるが、近年、絶滅の危機にあるという。
さて、掲出句の獏、「夜半の夏」「畳の縁」とくれば、やはり、悪夢を食べる獏なのだろう。とはいえ、映像としては、動物園のバクの姿が浮かぶ。
真夏の夜ふけ。夢なのか、夢から覚めた瞬間なのか、現実と夢の間に畳の縁を行く獏を見た。獏は何処へ行くのだろう。想像上の霊獣と言われる獏であれば、畳の縁が、異質な世界からの通路になっているかのようで、「畳の縁を行く」という表現に妙にリアリティを感じる。
悪夢を食べてくれる獏には、どこへも行かず、ここにとどまって欲しいものである。これから見るかもしれない悪夢を食べてもらいたい。悪夢は夜ごとに増えていく。


(句集『蝶を追ふ』邑書林2017年所収)

2017年7月15日土曜日

続フシギな短詩142[北山まみどり]/柳本々々


  歩かなきゃパセリが森になる前に  北山まみどり

北山まみどりさんともろとさんの句集『川柳と少女マンガと…』。まみどりさんの句にもろとさんが少女マンガタッチの絵をつけている。

少女マンガ言説とは、なんだろうか。どうしてわたしたちはある絵をみたとき、この絵は〈少女マンガ的〉だとわかるんだろう。

それがこの句集を読んでいると少しわかってくる。まず少女マンガは、多彩な背景のスクリーントーンの使用が、怒濤のように移り変わっていく少女の内面の推移をあらわしている。少女の内面を描いているのは背景の特殊なスクリーントーンの効果による(つまり、背景に特殊なきらきらなどを入れるとギャグタッチの画でも少女マンガ言説にすることができる)。

少女はコマという背景全体で人生を生きている。だから、好きな相手(それが男性である場合もあれば女性である場合もある)から否定されるときは、この背景全体が否定されることになる。少女マンガにおいては、読者はコマ全体とともに少女の内面に寄り添うことになる。

この背景の推移が少女の内面に同調していくことにまみどりさんの句はよくあっている。掲句をみてほしい。

「パセリが森に」と背景の推移が描かれている。「パセリ」ならまだ引き返せるが、「森」のように奥深い背景になったらもう引き返せない。だから「歩かなきゃ」ならない。この「なきゃ」も少女マンガ言説に同調している。「~しなきゃ」と思うのは、想いを寄せる仮想の相手がいてその相手に価値観をあわせることを意味している。

  笑わなきゃもっとどんどん太らなきゃ  まみどり

笑顔も身体も〈見せる〉ためにあるのだ。見られるわたしは、わたしを見るあなたを意識する。そこに「~なきゃ」という内面が生じる。

ためらい、迷い、しかしそのなかで、複数の「~しなきゃ」を見つけながら、それをなんとか実践しようとしながら、少女は〈あなた〉を振り向かせようとする。

逆に言えば、〈あなた〉がふりむいてしまうと、到達してしまうと物語は終わるので、少女マンガは迷いつづけねばならない。どんなに平坦な、らくな、かんたんな、まっすぐの道でも、あなたがいるおかげで、迷いつづけねばならない。

  真っ直ぐな道で迷ってばかりいる  まみどり

          (『川柳と少女マンガと…』2011年 所収)

続フシギな短詩141[三宅やよい]/柳本々々


  眩しくて鶫がどこかわからない  三宅やよい

田島健一句集『ただならぬぽ』にはこんな句がある。

  鶫がいる永遠にバス来ないかも  田島健一

なんでバスが来ないように感じられるんだろう。「鶫がいる」からだ。でもなんで鶫がいるとバスが来なくなっちゃうんだろう。

とにかくこの句からわかることは、「鶫」を通して〈アクセスできないなにか〉を感触してしまうことだ。ふれられないものを感触してしまうこと。それを〈現実界〉といってもいいが、ともかくふれられないものにアクセスしてしまいそうになっている。

やよいさんの句をみてみよう。語り手は「鶫」をみようとした。ところが「眩しくて/わからない」。この句では「鶫」そのものにアクセスできない。鶫自体がふれられないもの、アクセスできないもの、現実界になっている。

「鶫」というのはなぜこんなにもアクセスしがたさを生み出すんだろう。ちょっとふしぎである。

というか、ですよ。今これを読んでいるあなた、この「鶫」って読めますか? 私は読めなかったんですよ。

以前、イラストレーターの安福望さんからこんなふうに聞かれたことがある。「この『鶫』ってなんて読むんですか?」
わたしは答えた。「ああ、これは、「ひよどり」って読むんですよ」「へえ、そうなんですね。なるほどなあ」

でも、ぜんぜんちがったのだ。ひよどり、なんかじゃないんだ。ぜんぜんちがうんだ。違ったことはまだ安福さんには伝えていないので安福さんはいまだこの「鶫」を「ひよどり」と読んでいる。まあそれはそれでいいと思うけれど、でもふつうのひとは読めるんだろうか。私にはわからない。読めないんじゃないかと、おもう。読めますか。

で、あらためて考えてみると、俳句の句集というのは、季語にルビをふらない。これは煩瑣であることを避けるためかもしれないが、そもそも季語というのは、俳句をする人間なら脳内で同期されているデータベースのようなものではないかと思う。だから、わざわざ、そこにルビをふるようなことはしない。それはそもそも共有されているものだからだ(たぶんですよ)。

ところが一般の感覚では、「鶫」は読めない。ひよどり、と読んでいるような人間もいる。この「鶫」という字は季語のアクセスしがたさを象徴していないだろうか。

やよいさんの句のように、なんとなく「鶫」がいることはわかる。「鶫」という漢字は読めなくたって認識はできるんだから。でも、読めない。なんとなく、鳥だというのはわかる。鳥っていう字があるからね。でも、読めない。アクセスできない。読めないということは、この漢字を解凍できないということであり、そこにいるのはわかるのに〈眩しくて/わからない〉ようなものなのだ。

わたしは「鶫」は季語へのアクセスしがたさの象徴なのではないかと思う。認識はできるのだ。「鶫」と。でもその認識できたファイルを解凍できない。ルビがふれない。だから、バスはやってこない。くるかもしれない。でも、やってこないかもしれない。いつか読める日がくるかもしれない。こないかもしれない。

ところで正解はまだ言ってないんですが、鶫って、読めますか?

          (「船団」104号・2015年3月 所収)

2017年7月14日金曜日

続フシギな短詩140[中村冨二]/柳本々々


  では私のシッポを振ってごらんにいれる  中村冨二

しっぽとは、なんなのだろう。

『オルガン』9号・2017年5月号の「座談会 斉藤斎藤×オルガン」のなかに〈しっぽの話〉が出てくる。

  尾のあれば春の闇より目を凝らす  鴇田智哉

人称をめぐる話のなかで鴇田さんがあげたこの句を斉藤斎藤さんは「三人称的私性」だと述べている。

  三人称的一人称というのは「私」を三人称的に、外から見て説明してるということです。たとえば「ぼくは高校生だ」は、文法的には一人称ですが、実質的には三人称ですよね。ふだん高校生は「ぼくは高校生だ」と意識していない。わざわざそう思うのは、自分について客観的に振り返ったり、他人に説明したりするときぐらいです。それと同じで、「尾のあれば」とわざわざ言っているということは、尻尾が生えた「私」を三人称的に意識しているということになりますし、成り代わりというか、もともと尻尾が生えてたんではない感も出てると思うんですね。……で、そういう意味で俳句の「私」はどうしても、三人称的一人称になりがちな気がするんです。
  (斉藤斎藤「座談会 オルガンからの質問状」9号、2017年5月)

もともと尻尾が生えていたなら、尻尾を意識することはない。「尾のあれば」という言説は出てこない。「尾のあれば」という言説が出てくるのは、〈尻尾があるわたし〉を意識して〈三人称的〉に語っているからということになる。〈一人称的〉に語るなら、〈尻尾の意識〉を持つ必要がないからだ。たとえばこう考えてみてもいい。わたしに指があるのでわたしはせっけんをつかむ。こんなふうに意識して、指の意識をもって、わたしたちはせっけんをつかむだろうか。ただ・単に、つかむのではないだろうか。つかむ、ということさえ意識せずに。

ここで「人称」の話をめぐって〈しっぽの句〉が提出されたのが興味深いと思うのだが、〈しっぽ〉とはもともと私たちが持っていないものである。だから〈しっぽ〉にどう言語的対応をしていくかで、人称や主体のバランスが変わってくる。

「尾のあれば」は、「今の私には尾があるので」であり、「尾がないわたし」が想定されている。この「尾のあれば」という言説によって、尾があるわたしを外からみているわたしという三人称的一人称がたちあがる。

ちなみに鴇田さんは「三人称」感とは逆にこの句を「『私が』という主語で読める句であり、作者もそういうつもりで提出しています」と自解している。この「尾のあれば」の唐突な切り出し方は、(あ、わたしにいま尻尾がある!)感もある。(あ、わたしにいま尻尾がある!)で突然語り始めたならそれは潜在的には一人称的一人称とも言える。俳句の短さがその唐突さを用意し、その唐突さが俳句に三人称的一人称だけでは割り切れない微妙な人称性の揺らぎなりショックを与えているとも言える(ただし、鴇田さんの俳句が一般の俳句とは異なり〈人称の微妙な不安さ〉をそもそも抱えているのだとも言えるかもしれない)。

中村冨二の川柳では〈しっぽ〉にどう向き合っているだろう。冨二の句は、「では私のシッポを振ってごらんにいれる」と現代川柳によくある口語体がとられている。口語体なので〈あなた〉に話しかけているのであり、この場合、わたしの発話としての一人称的一人称になっている(ただこれも微妙で発話というのを一人称的一人称にするか三人称的一人称にするかという問題はあると思う)。また「では」という応答の接続詞が入ることにより唐突さもなくなっている。ただし、575定型は破調し音数は長くなっている。口語体の発話である点と、接続詞の準備により、〈一人称的一人称・的〉になっている。

しっぽの話にしては複雑なので、今回のしっぽの話をまとめてみよう。

まず「しっぽ」を私たちは持っていない。だから、しっぽの私を語るとき、わたしたちはその語り方によってさまざまな人称のバランスに分かれていく。

その分かれ方に関しては、どれだけの音数でしっぽを語れるか、またどのような言葉のつなぎ目(助辞、言辞)をもってしっぽを語るかで、三人称的一人称のしっぽの私になったり、一人称的一人称のしっぽの私になったりする。なったりするのだが、どうしても〈他ならない・この人称〉と割り切れないのは、しっぽが〈わたしのもの〉でありつつも〈わたしのものじゃないもの〉だからだと思う。言わばしっぽとは、私のはんぶんはんぶんなのだ。

犬のしっぽ、とか、猫のしっぽ、とかならいいのだが、〈わたしのしっぽ〉となった場合、それは〈わたしのものじゃないもの〉でありつつも〈わたしのもの〉になっている。

谷山浩子「しっぽのきもち」という歌にあるように、「スキというかわりにゆれる」のがしっぽであり(いい歌だ)、それはわたしの身体やわたしのきもちの半分を受け持ちながら、わたしを、半分、ないがしろにしていく。しっぽのほうがわたしを先行するのだ。

だとしたら、しっぽは、〈何〉人称なんだろう。


          (「むだい」『かもしか川柳文庫第二十集・童話』野沢省悟編集、かもしか川柳社・1989年 所収)


2017年7月3日月曜日

DAZZLEHAIKU 5 [長谷川晃]渡邉美保



梅雨真中抜いた歯根の長きこと  長谷川晃


虫歯のせいなのだろうか。痛み出した歯はついに抜くことになる。口の中にある時は歯根のことなどあまり意識していないが、歯の下に隠れている歯根は予想外に長い。抜いた歯を医者に見せられた時の、ちょっとした驚きと屈折。この歯根が歯を支えていたのだという感慨もあったかもしれない。
「梅雨真中」という季語から、この季節特有の鬱陶しさが、歯痛の鬱陶しさを増幅している。
「抜いた歯根の長きこと」しか述べられていないが、歯根の形を思い浮かべると、少しおかしく、少し切ない。そして、歯を抜くに至るまでの疼きや、抜かれる時の緊張感、抜いてしまった後の喪失感(たとえ歯の一本といえども…)や悔恨など、もろもろの思いが想像される。口中には、抜歯の際の麻酔のしびれが、まだ残っているにちがいない。


〈句集『蝶を追ふ』2017・5邑書林収〉