2017年8月4日金曜日

続フシギな短詩144[藤本玲未]/柳本々々


  終電の銀色のやつが過ぎていくあたしの夜をおいてっちゃやだ  藤本玲未

前回、『短歌ください』ではじまった話だったのでもう少し続きを。私が「短歌ください」に投稿しはじめたときに、とても目を引いたのが藤本さんの歌だった。藤本さんの歌集帯文に東直子さんが「知的で、醒めていて、苦いのに、ほんのり甘くてやわらかい」と書かれているが、ほんとうにそのような複合体としての感性を感じさせるのが藤本さんの歌で、この「知的/醒めて/苦い/甘い」というバランスをもった複合体の感性が歌として昇華されると不思議な強度をもった歌になる。あえて誤解をおそれずに一つの言葉であらわせば〈残酷さ〉という強度もそこには感じられた。

たとえば。上の歌では「終電」といったん名詞で対象が確保された〈にもかかわらず〉、そこから〈もういちど・わざわざ〉「終電」は「やつ」と語り直されていく。これは「電車」に対する〈残酷さ〉のまなざしではないか。

しかしなぜ残酷にまなざすのか。理由も語られている。「あたしの夜をおいってっちゃ」うからだ。それが「やだ」なのだ。ここには「あたし/おいてっちゃ/やだ」という強い主観性がある。その強い「あたし」の主観性は「やつ」と共振している。

「あたし」の世界にとって「電車」は「やつ」になるのだ。そういう主観性の強度を「電車」から「やつ」へと歌のなかでスパークさせるのが藤本さんの歌のひとつの魅力なのではないかと思う。

主観性の一気に加速する強度によって世界は変質する。

  ここでもう安心してもいいですかキャベツはあなたの頭蓋に似てる  藤本玲未

「キャベツ」と「あなたの頭蓋」は〈わたし〉の「安心」を介して相互置換される。しかし非対称的な置換であることにも留意したい。いま、わたしは、「あなたの頭蓋」をもっているのではなく、「キャベツ」をもっているのだ。だから「あなたの頭蓋」はここに欠落している。「キャベツ」があるだけだ。いまここにいない「あなた」はいま「キャベツ」に置換されている。そしていま「あなた」はここにいなく、「キャベツ」だけしかいないのに、語り手は「安心」しようとしている。《あなたがいなくてもキャベツがあればいい》という主観性の強度がある。

でもたとえばこの歌の次にはこんな歌が並べられている。

  別居するように野菜を選ぶけどわたし、わたしがいなくてもいい  藤本玲未

「安心」した〈わたし〉の主体性は即座に次の歌が否定してゆく。「野菜を選ぶけど」「わたしがいなくてもいい」と。〈わたし〉は「わたし」に対しても〈残酷さ〉がある。

「短歌ください」ですごく印象的だった歌がある。

  マンホールにひとりひとつのぬいぐるみ置いてこの星だいすきだった  藤本玲未

歌集の最後の方にのっている歌だが、歌集冒頭で「銀色のやつ」に「おいて」いかれそうになった語り手は、こんどは逆に、「星」をあとにしようとしている。「マンホール」に「ぬいぐるみ」をおいて。「この星だいすきだった」と感慨をいだいて。

でも「だいすき」だけれど「この星」を「おいて」いかなければならない。このとき、残酷さの位相は複雑なうねりをみせる。だれが・なにを追い出し・おいていき・おいていかれ・なにからだれがおいていかれ、「やだ」といったり「だいすき」といったりするのか。

もしかしたらそれを「残酷」という言葉で語るのは不適当で、まだそれにあたいすることばは、この地球にはないのかもしれない。

  死なせたら死んだままだと気付かずにあなたにずっと話しかけたい  藤本玲未

          (「駅のひだまり」『オーロラのお針子』書肆侃侃房・2014年 所収)