2017年8月5日土曜日

続フシギな短詩145[橘上]/柳本々々


  イズミは走るのが速かった。誰も見たことはないけれど、走るのが速かった。
 
 …イズミは月をみた。その時、月を見たのではなく、イズミが月を見たのが、その時だった。

 …イズミは答えの出ているクイズしか知らない。答えを知らないクイズを何一つ知らない。  橘上「イズミ」

詩「イズミ」はイズミの不思議な生態がめんめんと綴られていく。ただし、イズミは語り手によって一方的に記述されるだけではない。語り手の「僕」とイズミは詩のなかで視線を介して関係をもつ。

  イズミ。僕がつぶやくと、別のイズミが僕の方を見た。

視線によって僕とイズミは関係をもつのだけれど(ただ「別のイズミ」なので間接的関係だが)、この詩では視線が対象と独特な関係をもつことで、ここにしかありえない世界を構成していく。

たとえば引用箇所。「イズミは月をみた」が、イズミは「月」を見たのではなく、「イズミが月を見たのが、その時だった」と語り手は述べる。ここでは対象を見ることそのものよりも、「その時」という視線をめぐる出来事性が叙述されている。

この詩において、見ることは、見ることでなく、出来事を掘り起こすことである。

  死んだ六角形を見た。それを見てイズミは生まれていないと言った。

イズミは「死んだ六角形」を見て、生きているか・死んでいるか、ではなく、生まれているか・いないかをみている。イズミは、よりふかく、出来事の深奥へと先行=潜行しているのだ。

この詩には、素朴な〈まなざし〉は展開されない。まなざしにどうしても貼りついてしまう出来事性がビビッドなかたちで、周波数を強めながら、展開されている。しかしそのまなざしに、僕たちはたどりつけない。なぜなら、「別のイズミが僕の方を見た」とあるように、イズミに見られた僕はすでにイズミの出来事にとりまかれているからだ。僕は、イズミに、たどりつけないだろう。

  どのイズミも死ぬ前に、生きることを忘れ、そのことを思い出さないものはいなかった。

最終的にイズミは死んでしまうのだけれど、イズミは、生きることをわすれることで、そのことを思い出す、という、複雑な生死のアクロバティックを展開させながら、死んでいった。

イズミが教えてくれたように、詩とは、ふだんは素朴にされている行為、たとえばまなざしが、アクロバティックに展開される場所なのかもしれない。

わたしたちは詩を読みながら、ふだん、抑圧し、シンプルにしている行為を、曲芸的に展開していく。

わたしたちは、詩によって、微分的にふだんの行為にかかわることになる。むずかしいことではない。それは、わたしはわたしであり、わたしはわたしでないことによって、わたしにかかわろうとする態度のことである。詩はその態度を表明する。だから、イズミはイズミだし、イズミはイズミではない。それはやぎもとがそう言ったのではなくて、そう、詩の冒頭に、やぎもとが読んだときに、書いてあった。

  イズミはイズミと呼ばれていた。他に呼び名もあったけれど、皆イズミと呼んでいた。


          (「イズミ」『ユリイカ』2016年11月 所収)