ネコバスで走る運動会の真ん中 今井和子
宮崎駿『となりのトトロ』に出てくる猫のバス=ネコバスに関して以前から少し気になっていたことがある。ネコバスにはわたしたちがふだん使うバスのように前方に行き先が表示されているのだが、その行き先には「めい」と書いてる。「めい」というのは『となりのトトロ』で迷子になった登場人物なんだけれども、注意したいのはネコバスは〈場所の力学〉に沿って動くわけではなく、〈人間の力学〉に沿って動いている点である。ひと、が行き先になるとはそういうことなのだ。だからネコバスはたえず流動的であり、行路も進行方向も自由であり、遊牧的にそこかしこを横断しつづけるのだ。
そう考えたときに、ネコバスのネコバスらしさとはなにかといえば、それは〈非境界性〉なのではないかと思うのだ。そしてその点においてネコバスはやはり〈猫〉なのだと。
わたしたちが猫をいまだに把握も把持もできず、謎めいた存在として受け取っているのは、猫の境界の把握の仕方が犬よりもわからないからである。猫は境界をもっているらしいことは、わかる。でもそれは非規則的であり、ときに、とうとつだ。たとえば猫が中空をみつめて、なにかや誰かに向かって鳴いているとき、そこにはわたしたちが見えない境界があるだろう。わたしたちには絶対に引くことのできない〈境界〉が。わたしたちは、たぶん、猫から〈境界〉の教育を受けるひつようが、ある。
掲句は、運動会の真ん中に「ネコバス」が〈境界〉を引いていく。もちろん、「運動会」とはなにかといえば、ゴールテープや競技のための白線が示すとおり、〈境界の祭典〉的な場所である。そこに境界を無尽に散らしつつも、境界を引き直していく〈境界のアナーキーな猫〉がやってくる。ここでは、境界(運動会)と非境界(ネコバス)が十字状に交錯する。
〈1〉という一本の絶対的な線に向かって走っていく競技者が特権的な運動会と、〈人〉(=めい)というラインがわかれた線にならない線に向かって走っていくネコバス。
わたしたちは、今、境界が暴走するまっただなかにいる。いや、もしそう思えるなら、あなたはもうネコバスに乗っているんだよ、という今回はそういう話なんだと、思う。
(「Cat Avenue」『猫川柳アンソロジー ことばの国の猫たち』あざみエージェント・2016年 所収)