2017年10月3日火曜日

超不思議な短詩233[シルバー川柳]/柳本々々


  寝てるのに起こされて飲む睡眠薬  シルバー川柳(瀬戸なおこ)

ある俳句の方が、俳句の認識における〈過入力〉の話をされていて面白いなと思ったことがある。

俳句は〈短い〉ので過剰な入力を施すことで、〈過剰な認識〉が形式化される。例えば雑に言えば、古池やカエルの飛び込む音が過剰に意識される。過剰に意識されるだけ、のことである。しかし、それが俳句になってしまう。俳句って、なんだろうか。

俳句が認識の過入力をほどこすのだとしたら、川柳は身体に対して過入力をほどこすのかもしれない。以前、詩性川柳とサラリーマン川柳の共通点は〈悪意〉だと述べたことがあるけれど、これは身体への悪意としての過入力時だということもできる(考えてみると、意地悪とは、過入力である)。

「寝てるのに」わざわざ「起こされて」(過入力)、「睡眠薬」を「飲」まされる(過入力)。シルバーの身体が過入力に遭い、それが悪意の形式化として詩になっている。川柳は、悪意と身体への過入力ではないか。

  紙おむつ地位も名誉も吸いとられ  シルバー川柳(厚木のかずちゃん)

「紙おむつ」というそれまでの人生にはなかった「過入力」が「地位も名誉も」剥ぎ取っていく。

  「君の名は?」老人会でも流行語   シルバー川柳(はだのさとこ)

新海誠の映画『君の名は。』の「流行」は、「老人会」に密輸され、「老人」たちの認知をめぐる〈過入力〉(=過出力)となっていく。シルバーな認知=脳をめぐる過剰。

浅沼璞さんとの往復書簡で私は俳句や川柳は〈人称の強度〉と関わりがあるのではないかと述べて、あとで自分でこれ宿題にしていかないといけないなあ、と思ったのだが(それは人称のグラデーションの比較的少なさでそう述べたのだが)、過剰入力や過剰出力のありかた、過剰認知や過剰身体というのは、俳句や川柳と関係しているかもしれないと、おもう。

俳句/川柳は、過剰であるという地平。

  付いて来い言った家内に付いていく  シルバー川柳(山本敦義)  

  

          (『シルバー川柳7』ポプラ社・2017年 所収)