-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
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2017年9月13日水曜日
超不思議な短詩217[笹田かなえ]/柳本々々
夢に見る猫はわたしの夢を見る 笹田かなえ
教師と生徒の言語が渡り合う世界の話を前回したが、じゃあ、ひとと猫が渡り合う世界は、どうだろう。
そうしたひとと猫がからまりあいながらひとつの世界をあらわす句としてかなえさんの句をあげてみたい。
よく猫は擬人化され、飼い主が猫の〈内面〉をしゃべってしまっていることがある。猫はしゃべらないにも関わらずひとが猫の言語を代弁してしまい、猫の内面を奪い取ってしまうのだ。そこにはひとと猫、しゃべることのできる人間、しゃべることのできない猫の微妙な非対称性がある。猫はしゃべらないのだから、猫の言語に寄り添おうとするならば、わたしたちも黙るしかない。
でも、夢、ならどうか。かなえさんの句では、わたしが猫を夢にみている。だがその猫はわたしの夢をみている。わたしは猫の夢の存在かもしれない。猫はわたしの夢の存在かもしれない。どちらも夢の存在かもしれない。
ここには非対称性はない。ここにあるのは、どちらかがどちらかをどうこうする構造ではなく、猫とわたしをめぐる螺旋=スパイラル構造だ。そして、わたしがきえるとき猫もきえ、猫がきえるときわたしもきえるような関係がここにはある。
もしわたしたちが動物と関係をもてるならば、こういうところにあるのではないだろうか。動物の言語を代弁してしゃべるのではなく、共にあらわれ・共にきえるような関係。わたしがきえればあなたもきえるし、あなたがきえればわたしもきえますという、生と死のらせんを共に生きるような関係。
わたしはこんなひとと動物の生き死にの螺旋構造をかつて眼にしたことがあった。
ぴしゃというように鉄砲の音が小十郎に聞えた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のように黒くゆらいでやって来たようだった。…と思うと小十郎はがあんと頭が鳴ってまわりがいちめんまっ青になった。それから遠くでこう言うことばを聞いた。
「おお小十郎おまえを殺すつもりはなかった」
もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見えた。
「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ」と小十郎は思った。それからあとの小十郎の心持はもう私にはわからない。
…栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環になって集って各々黒い影を置き回々教徒の祈るときのようにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりで見るといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったようになって置かれていた。
(宮沢賢治「なめとこ山の熊」)
生活のために熊を撃ち殺していた小十郎だが、熊に殺されるときに、小十郎は、「熊どもゆるせよ」としんでいく。熊も小十郎に対し「おまえを殺すつもりはなかった」といいながら、「があん」と小十郎を殴り殺す。
そして小十郎の死体を円心に「回々教徒の祈」りのような熊たちの螺旋ができる。ここにも、ひとと動物と生と死のスパイラルがある。ともにいき・ともにしぬような関係が。
共生、ということばがある。でも、かなえさんの句や「なめとこ山の熊」にみられるように、共生という概念は、じつは、共死をも含むというとてもラディカルなものなのではないだろうか。いっしょにいきてゆきましょう、が、いっしょにしんでゆきましょう、をふくみもつような。しぬときはべつべつだよ、ではなくて。
セーターをほどくみたいに、わたしとあなたが共にいて、いっしょにいきたり、しんだりしている。
セーターをほどくみたいに逢いましょう 笹田かなえ
(「前菜」『お味はいかが?』東奥日報社・2015年 所収)