2017年9月11日月曜日

超不思議な短詩215[加藤久子]/柳本々々


  私って何だろう水が洩れている  加藤久子

以前、サラリーマン川柳は主体がはっきりしているのに対して、現代川柳(詩性川柳)は主体がはっきりしていない、それは現代川柳というジャンルが主体性を支えているんじゃないかという話をしたのだが、例えば、加藤さんの掲句。

「私って何だろう」と〈わたし〉を問いかけた瞬間、「水が洩れている」。主体が主体たろうとして主体的に主体である〈わたし〉自身に問いかけた瞬間、主体は損壊してしまう。この主体性のなさというよりは、非主体性への本領発揮の仕方は、川柳が発句である俳句と違って、付句からきているところ、〈付く〉ところからきているのかもしれないが、それにしても、縦横無尽にばらばらに損壊していくのが現代川柳なのである。

だから現代川柳が〈人間を描く〉という言説は、どこか当たっているような気がしながらも、どこかで致命的に間違っているような気もする。ポスト構造主義のフーコーが〈人間の終わり〉を唱えたような、終わってからのばらばらのドゥルーズ的器官のような人間が現代川柳には描かれているのではないかと思うこともあるからだ。

  人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明品にすぎぬ。そしておそらくその終焉は間近いのだ。
  (フーコー『言葉と物』)

対して、現代川柳は〈他者〉としての「異人」にはとても関心を示している。これは他者を見いだして、その他者との二項対立から自身を逆照射して主体性をみいだそうとしているのだろうか。

  白菜をさくりと割って異邦人  加藤久子

  レタス裂く窓いっぱいの異人船  〃

そう言えば以前、現代川柳によってはじめて凄まじく遅れに遅れた〈近代〉が来たのではないかとちょっととんでもないことを言ったりしたが、実はそうではなくて、近代がこなかった現代川柳はそのまま未分化のままでポスト近代(ポストモダン)につっこんでいったという見方もできるのではないかと思っている(本当は近代とかポスト近代とかかんたんに使ってはいけないのは承知のうえで)。

  言語を用いてごまかすこと、言語をごまかすこと。たえず変遷回帰する言語活動の輝きにつつまれた、この健全なごまかし、この肩すかし、この壮麗な罠、私としては、それを文学と呼ぶのである。
  (ロラン・バルト『文学の記号学』)

現代川柳は、ポストモダンやポスト構造主義とこのうえなく、相性がいい。というか、現代川柳は《そのまま》現代思想の直感的で体感的なわかりやすい解説書になっているところがある。たぶん、デリダもドゥルーズもアルチュセールもラカンもフーコーもロラン・バルトだって、現代川柳をすごく愉しんで読んだと、おもう。きっと、そう、おもう。

わたしはロラン・バルトがずっと好きだったので、バルトに、いま、きいてみたい。わたしってなんなんですか。

  ノートに佇っている貌のない私  加藤久子

  この俺、何がどうなっちゃったんだろう。
   (ロラン・バルト『現代思想』1984年3月)

          (『動詞別川柳秀句集「かもしか篇」』かもしか川柳社・1999年 所収)