-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
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2017年9月21日木曜日
超不思議な短詩227[レイモンド・カーヴァー]/柳本々々
夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らは《ある種の》救済へと到達するのだ。 村上春樹
村上春樹はレイモンド・カーヴァーの短編「ささやかだけれど、役にたつこと」についてこんな解説を書いている。
夫婦はパン屋に押しかける。そして彼らは互いの苦しみを夜があけるまで語り合う。そして、彼らは《ある種の》救済へと到達するのだ。……すべては失われ、損なわれてしまっている。子供は死んでいる。ケーキは腐っている。夫婦はうちのめされている。パン屋の人生は破綻している。救済はどこにもない。でもそれはいうなれば救済があるはずの空白なのだ。そこでは救済は「救済の不在」という空白の形をとって姿を表す。つまり不在というかたちをとった存在である。そう、そこには《救済があってもよかったのだ》。
(村上春樹「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」『ささやかだけれど、役にたつこと』)
真夜中、夫婦は、事故で死んだ子どもの腹いせをするかのようにパン屋に押しかける。でも、夫婦は《ほんとうに思いがけなく》その場で・そのとき、パン屋とパンを通して、非言語的に和解する。なんて言ったらいいか誰にもわからないような啓示的な瞬間が訪れる(「大聖堂」や「ぼくが電話をかけている場所」や「ダンスしないか?」なども同じ構造をとっている)。
以前に、カーヴァーと鴇田さんとの親近感のようなものを書いたのだけれど、わたしが気になっている句にこんな句がある。
うすぐらいバスは鯨を食べにゆく 鴇田智哉
(『凧と円柱』)
最近、この句について考えていたときに、ふっとまた思い出したのが、カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」だった。いったい、なにが、親近しているのだろう。
トークのときに鴇田さんが話されていたのを聞いたのだが、たしかこの鯨の句は、〈吟行句〉だったと思う。たしかに、バスってうすぐらいときがあるし、バスに乗って鯨を食べにゆくような経験をすることがひとにはあるとおもう。〈そのまま〉読もうと思えば、〈そのまま〉読める句である。
カーヴァーの短編も同じで、なにかが起こっているのだが、しかしなにか超常現象のようなことが起こるわけではない。SF的なことが起こるわけでもない。ただパン屋はあたたかいパンを真夜中にこどもを亡くし怒っている夫婦に提供しただけで、怒り心頭の夫婦はそのあたたかい糖蜜たっぷりのパンをもくもく食べただけだ。
だから、なにも起こっていないのだが、なにかが起こっているようにも思える。
なんでか、あえて、かんがえてみたい。
たとえば、カーヴァーの小説でいえば、パン屋は〈世界の果て〉と等価になっている。そこは、ふつうのひといとってはただのパン屋だが、夫婦はパン屋にとっては世界のぎりぎりの果てである。だからこの世界の果てで命を養うということが神秘的な意味をもつことになる。まるで世界がむしゃむしゃパンを食べ、世界自体が栄養補給し回復の途上にあるような感覚になるのだ。それが、啓示として感じられるのではないか。パン屋という部分で世界という全体をあらわすこと。それを提喩的、といってもいいかもしれない(提喩とは、皿が食べ物をあらわすといった、部分が全体をあらわすたとえ)。
鴇田さんの句をみてみよう。「うすぐらいバス(に乗ってわれわれ)は鯨(料理)を食べにゆく」という意味なのだが、定型で省略されることによって、「うすぐらいバス」自体が生命をもちあたかも「鯨」をまるごと食べにゆくようなダイナミックな構図になる。その「うすぐらいバス」は、カーヴァーのパン屋のような世界の縮図になっている。「うすぐらいバス」というバスが〈自然〉に還ってゆくようなミニマルな世界が、みずからのエネルギーを補給するかのように鯨をくらいにゆく。
そのまま読めばそのままなんだけれど、そのまま読むと省略された世界の縮図のようなものに関わってしまい、自分でも意識しないかたちで〈啓示〉にふれてしまうこと。そのようなことが、鴇田さんの句にもあるのではないだろうか。
世界の終わりの風景のなかの箱船としてのバス・その世界と等価としての〈聖書物語〉的な鯨・食べる、という根源的行為。でも、そのまま読めば、そこには、なんにもない風景。なんにもないけれど、すべてがあること。
彼は二人がそれぞれに大皿からひとつずつパンを取って口に運ぶのを待った。「何かを食べるって、いいことなんです」と彼は二人を見ながら言った。「もっと沢山あります。いっぱい食べて下さい。世界中のロールパンを集めたくらい、ここにはいっぱいあるんです」
(レイモンド・カーヴァー『ささやかだけれど、役にたつこと』)
ここは何処だらうか海苔が干してある 鴇田智哉
(「レイモンド・カーヴァーの早すぎた死」『ささやかだけれど、役にたつこと』中央公論社・1989年 所収)