2017年9月12日火曜日

超不思議な短詩216[千葉聡]/柳本々々


  「おはよう」に応えて「おう」と言うようになった生徒を「おう君」と呼ぶ  千葉聡

千葉さんの歌集は教師の日常の風景が歌で詠まれたものが多いのだが、面白いのは教師の言語風景と生徒の言語風景がセッションするときだ。語り手みずからの言語世界が、生徒の言葉の風景と渡り合うのである。

掲出歌をみてみよう。「おはよう」と言う教師の挨拶に対して「おう」と言うようになってきた生徒。ここで語り手はその「おう」を「お(はよ)う」にはたださずに、その「おう」をその生徒自身のアイデンティティとして付与してしまう。「おう君」と。

この教師から生徒への「あだ名づけ」=名付けからいろんなことがわかってくる(そもそも「あだ名」とは言語世界同士のセッションのようなところがあるのかもしれない)。

まず、教師である語り手にとって挨拶とは、ただ単に機械的に交わされるだけの言語ではなく、そのひと自身を体現していくものであるということだ。だからこそ「おはよう」に「おう」と返されてもそれを矯正するようなことはしない。むしろ「おう」でも返答してくれたことのほうが大事なのであり、その返答してくれた生徒自身を「おう君」として尊重する。

また「おう」と言うように《なった》と語られていることからもわかるようにこの「おう」としての《ここ》に来るまでには時間がかかっている。たぶん「おう」以前はまだ名付けられることもできないような状態であり、「おう」にいたってはじめて言語が人格化できるような状態に達したことをあわらわしている。

そして、「おう君」と相手を名付けてしまうことは、みずからの言語分節よりも、相手の言語分節=言語世界を優先することのあらわれである。名付けられた相手は、みずからの「おう」の言語分節を忘れず、そうして教師とのやりとりをしたことが自分の生きられる身体「おう君」になったことを忘れないだろう。

もちろん、「おう君」とあだ名をつけられた生徒本人の気持ちはここではわからない。嬉しかったのか嫌だったのかそれはわからない。わからないけれど、「「おう」と言うようになった」からは教師と生徒がなんらかの関係をはぐくんでいることが感じられる。また「おう」はそのうち「おはよう」に変わることもありうるかもしれない。そのとき、「おう」はまた違った意味をもつことになるだろう。

  「大丈夫だ」何も大丈夫じゃないが教員ならばそう答えるのだ  千葉聡

教師の言語分節とはなんだろう。千葉さんの歌集を読んで思うのは、自らの言語分節が優先されない世界が教師の言語分節である。「大丈夫じゃない」と思っても「大丈夫だ」という言語分節を行う。それが教師だ。ところがそのように優先された言語分節は、生徒との関わりのなかで、生徒の言語分節と、ずれ、かさなりつつ、出会う。

  「大丈夫、大丈夫だ」と熱のある子は僕に寄りかかってそう言う  千葉聡

大丈夫じゃないのに大丈夫という生徒。このとき、教師の言語分節における「大丈夫」と生徒の言語分節における「大丈夫」がぶつかりあい、かさなりあい、ずれ、共振する。大丈夫じゃないのに大丈夫と言う教員。大丈夫そうじゃないのに大丈夫という生徒。「大丈夫」ということばが教師と生徒の関係のなかで、ずれ、ゆれ、ぶつかり、かさなる。

このときの「大丈夫」は「大丈夫」にあるのではない。わたし(教師)とあなた(生徒)の間にある「大丈夫」であり、関係が明滅しながらあらわれ、「大丈夫」自体を問いかけるような「大丈夫」である。

あなたとわたしの、わたしとあなたの、言語分節に敏感になること。

  」杜子春は恐怖のあまり目を閉じた。括弧の中には入れないのだ。「  千葉聡

みずからの言語世界の発展〈だけ〉ではなく、他者と言語世界を切り結びながら《そこにしかない》言語世界をつくりあげていく場所がこの世界にはある。いや、あった。わたしもずっと忘れていたのだが、その場所を「学校」と言う。

  T君は僕を「先生」とは呼ばない 「ねえ」とも言わない 「ん」とにらむだけ  千葉聡



          (「非実力派教師の日常」『そこにある光と傷と忘れもの』風媒社・2003年 所収)