2017年9月2日土曜日

続フシギな短詩194[佐佐木幸綱]/柳本々々


  のぼり坂のペダル踏みつつ子は叫ぶ「まっすぐ?」、そうだ、どんどんのぼれ  佐佐木幸綱

佐佐木幸綱さんの短歌がなしたことに、〈垂直〉の〈縦の身体性〉を、〈立つ〉ということを、しっかり短歌として定着させるということがあったのではないかと思う。この〈立つ〉身体性があらわれている歌をひいてみよう。

  サンド・バッグに力はすべてたたきつけ疲れたり明日のために眠らん  佐佐木幸綱

  一生は待つものならずさあれ夕日の海驢(あしか)が天を呼ぶ反り姿  〃

  噴水が輝きながら立ちあがる見よ天を指す光の束(たば)を  〃

  噴き出ずる花の林に炎えて立つ一本の幹、お前を抱(いだ)く  〃

垂直に立つ「サンド・バッグ」にすべてのエネルギーをたたきつけ眠る語り手、天を呼ぶ反り姿の屹立したアシカ、天を指す光の束としての立ち上がる噴水、一本の幹のようにもえ立つ抱かれるお前。

ここにあるのは、あらん限りの〈立つ〉ことへの関心だと思う。この〈立つ〉ことの身体性を短歌に定着させることが佐佐木さんの短歌のひとつの力強さだったのではないかと思う。

それがなにが大事なのかというと、そうやって強く定着した〈立つ〉ことの運動性があってこそ、〈横〉の運動性が、またそれに反響してつながってくるからだ。たとえばここで取り上げたものでいうと、

  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい  穂村弘

決して〈立ち上がる〉ことのない「横」の運動性しかもたない(あるいは螺旋)「象のうんこ」に話しかける、もう倒れそうな語り手の〈横〉性。

  たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく  山田航

「横」向けになったペットボトルを補充しつづける親の収入を超せない「横ばい」どころか「下降」してゆく「僕たち」。冒頭の掲出歌とこの歌を比較してみてほしい。ここには「まっすぐ」も「どんどんのぼれ」もない。それは永遠の横への補充であり、その永遠のゲームに生き残れても生き残れなくても、どちらにしても、どんどんあとは下降してゆくだけだ。

  玉川上水いつまでながれているんだよ人のからだをかってにつかって  望月裕二郎

玉川上水にながれつづけるからだ。やはりこれも横の身体性であり、かつこの身体には「人のからだをかってにつかって」と身体の主体性も剥奪されている。

こうした〈横の身体性〉がとても効果的に感じられるのは、定着された〈縦の身体性〉と響きあってこそではないかと思うのだ。こうした縦から横への身体の系譜があって、その系譜ごと、これらの短歌を〈感じている〉部分があるのではないかと思うのだ。

あなたがたとえ絶望しつっぷしているときも、あなたはもしかしたら身体の系譜学のなかで、歴史的身体性のなかで、つっぷしているかもしれないということ。

  満開の桜ずずんと四股を踏み、われは古代の王として立つ  佐佐木幸綱


          (『語る 俳句 短歌』藤原書店・2010年 所収)