2017年8月10日木曜日

続フシギな短詩152[芥川龍之介]/柳本々々


  蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな  芥川龍之介

暑い。
内田百閒が芥川龍之介の自殺についてこんなふうに書いている。

  芥川君が自殺した夏は大変な暑さで、それが何日も続き、息が出来ない様であった。余り暑いので死んでしまったのだと考え、又それでいいのだと思った。
  (内田百閒『私の「漱石」と「龍之介」』)

「それでいいのだと思った」と書くのが内田百閒らしいのだが、芥川と〈暑さ〉についてこんなふうに結びついて言説化されているのは、芥川の有名な掲句を思い出すとちょっと面白いとおもう。

思いつきでしかないけれど、もしかしたらこの「ゼンマイ」という螺旋状のどこにもゆきつかない感じに芥川の〈死(因)〉をみたひともいたのかもしれない。

妻・芥川文が夫・芥川龍之介を回想した本に『追想 芥川龍之介』がある。そのなかに、この蝶の舌の句が直される前の句とともに並べられている。

 旧 ゼンマイに似て蝶の舌暑さかな
   蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

旧作をみるとわかるように、当初、蝶の舌の句は「蝶の舌」に重心があった。まず「蝶の舌」が「ゼンマイ」に似ているなという発見があり、いったん切れて、「暑さ」に接続される。これだと「蝶の舌」の印象が強くなるが、「暑い」感触は弱くなる。あんまり暑くない感じだ。思考の入り口や出口がちゃんとわかる。

直された句はどうだろう。「蝶の舌」でいったん切れて、そこから「ゼンマイに似る暑さ」と「暑さ」に修飾がほどこされることで「蝶の舌」と同時に「暑さ」にも重心がでるようになった。旧作では、「暑さ」は独立していたのに対し、直された方では「ゼンマイに似る暑さ」と暑さがうだるような長さになり螺旋状のどこにもゆきつかさい感じが「蝶の舌」をぶきみな感じにもしている。つまり、この螺旋状のぐるぐるした暑さのせいで、このひとは「蝶の舌」を幻視しているんじゃないかという気すら、する。この句なら、このひとは、まずいんじゃないか、死んじゃうんじゃないかという気もしてくる。思考の入り口も出口も失って。

旧作の「ゼンマイ」と「蝶の舌」が似ているという認識は、カタチの類似であり、わりあいふつうでありまっとうである。でも、「暑さ」が「ゼンマイ」に、「蝶の舌」に、似てきたときに、そこに感覚が形象に類似してくるという〈なんかヤバい感じ〉が出てくる。ただ暑いすごく暑い、と思うのはいいが、この暑さはこれに似ている、という思考回路は〈帰ってこられない思考〉のようにも思う。「暑い」を形象と同一化するのは思考のルールが逸脱しているかんじというか。

妻・文は、「妙な悪い予感」のもと、夫・芥川龍之介が死ぬんじゃないかという思いにとらわれていた。

  大正十五年の初秋の或日、私は部屋にいましたが、妙に悪い予感がして、主人が死ぬような気がして淋しくてたまらず、思わず二階へかけ上りました。
  主人は机に向って、やせ細って坐っておりました。…主人は、
  「何だ?」と言います。
  私は、
  「いいえ、お父さんが死んでしまうような予感がして、淋しくて、恐ろしくてたまらず来て見たのです」
  と言ったら、主人は黙ってしまいました。
  (芥川文『追想 芥川龍之介』)

あなたがなんだか死ぬような気がするんです、というのは、できればせっかく生きているのだから、言われたくない言葉だが、芥川龍之介はのちに、遺稿「歯車」の中でこのシーンをこんなふうに、〈言われた立場〉から書いている。

  「どうした?」
  「いえ、どうもしないのです。……」
  妻はやっと顔をもたげ、無理に微笑して話しつづけた。
  「どうもしたわけではないのですけれどもね、ただ何だかお父さんが死んでしまいそうな気がしたものですから。……」
  それは僕の一生の中でも最も恐ろしい経験だった。
  (芥川龍之介「歯車」)

「どうもしたわけではない」のだけれども「死んでしまいそうな気がした」と面と向かって言われたひとは、この翌年の「大変な暑さ」の夏にほんとうに自殺してしまった。


          (『追想 芥川龍之介』中公文庫・1981年 所収)