2017年8月9日水曜日

続フシギな短詩151[浅沼璞]/柳本々々


  チェーホフ劇の台詞は、それぞれが独白に近く、散文的な論理からすれば、すれ違っています。けれど、たんねんに読み込むならば、そこに詩的な繋がりを発見することができるはずです。これを連句的に解説すると、チェーホフ劇の台詞は、表層的な「意味付け」ではなく、もっと深く中層域に根ざす「匂い付け」であるといえるのです。  浅沼璞

連句研究者の浅沼璞さんの本、『「超」連句入門』には「超」と冠がついているように、連句を〈超えて〉連句の視野からみた文学や文化についても語られている(あらゆる文学・文化・思想が〈連句〉の視野から総動員されていく)。

たとえば浅沼さんは『三人姉妹』を例にあげている。

  ナターシャ まあ乱暴な、無教育な人!
  マーシャ いま夏なのやら、それとも冬なのやら、気もつかずにいる人は幸福ね。

「無教育な人」というナターシャの〈前句〉は、マーシャの「気もつかずにいる人は幸福ね」という〈付句〉で、転じながらも・続いていくことになる。マーシャは、「そうね。そうだわ」と同意はしない。そこに連なりながら・ひらくのである。

この連句の、連なりながらも・決しておなじ雰囲気をまとうことをしない、という「匂い付け」の感じは、チェーホフ劇にとってもよく合う。

なぜチェーホフ劇には対話がないのか。どうしてみんなほとんど独り言を言っているのか。どうしてみんなだらだら会話を続けているのか、しかしなんとなく共に生きてしまっているのか。そしてどうしてみんな、後戻りできずに、終局やゆるい破滅に向かうのか。

それが連句的といえば、とても連句的なのだ。

「歌仙は三十六歩也、一歩も後に帰る心なし」と芭蕉は述べたそうだが、連句は、前の句やその前の句で使った言葉や漢字は使わない(「同字」を避ける)。「後戻り」をしない。そういう決まりになっている。いちどはじまったら、前進するしかないのだ。

  前の句とは別の世界に移動すること、前進あるのみ。しかし、「付ける」という条件がつく。
  (坂本砂南+鈴木半酔『はじめての連句』木魂社、2016年)

これはそのままチェーホフ劇の説明になっているのではないか。

チェーホフの『桜の園』でこんなシーンがある。

  ガーエフ ねえお前、むかしはお前といっしょに、ほれこの子供部屋で寝たもんだが、今じゃわたしも五十一だ、なんだか妙な気もするがなあ……
  ロパーヒン さよう、時のたつのは早いものです。
  ガーエフ なんだって?
  ロパーヒン いや、時のたつのは早い、と言ったので。
  ガーエフ この部屋は、虫とり草のにおいがする。
  アーニャ わたし、行って寝るわ。おやすみなさい、ママ。(母にキスする)
  ラネーフスカヤ わたしの可愛い子。(娘の手にキスする)おまえ、うちに帰って嬉しいだろうね? わたしは、まだほんとのような気がしないの。

商人のロパーヒンは破産の危機を回避させようと、ガーエフたちに話しかけるが、「なんだって?」とロパーヒンの話をだれもきこうとはしない。ただ〈聞いてはいない〉のだが、みなが「時のたつのは早いものです」に連なっている。「今じゃわたしも五十一だ(人生の時間)」「おやすみなさい(一日の時間)」「わたしは、まだほんとのような気がしないの(認識の時間)」。

ここに出てくる地主一家さんにんがそれぞれにそれぞれのやり方で「時のたつのは早いものです」に連なっているのに、誰もロパーヒンには同意しようとはしない。

ここには対話はない。しかしなにげなくやりとりされた会話の深層に、時間意識が連なり、ひしめきあっている。それを連句的時間ともいえるかもしれない。「同字=同意」は避けながら、しかし破滅する「連衆」として一体化してゆくこと。

浅沼さんがよく書かれていることなのだが、連句は「発想が違う発句と平句という二つの詩形式をずっと抱えこんできた」。「二律背反の濃い塊り」が連句である。切れのある発句と切れのない平句。チェーホフにこれをうつせば、キレのある現実にシャープなロパーヒンと、平凡なお花畑の認識の地主一家が、おたがいに〈会話〉を連ねながら、破滅していくのが『桜の園』である。『桜の園』はひとつの歌仙なのかもしれない。

ちなみにこの戯曲『桜の園』には不思議なポイントがひとつある。ロパーヒンがいつ舞台に登場するのか書かれていないのだ。訳者の神西清はこんなふうに注釈をつけている。

  (訳注 原書には示していないが、ロパーヒンもこのとき登場するらしい)

いつ舞台にあらわれたのかわからないロパーヒン(宮沢章夫さんがこの視点からロパーヒンと速度というおもしろいロパーヒン論を書いている)。ロパーヒンは、この戯曲そのものを〈超越〉しているところがある。超越といえば、連句には「捌き」という超越的な〈進行役〉がいる。連句の規則に照らしておのおのが提出した句をチェックし修正させていく。ロパーヒンは、「捌き」だったのかもしれない。

『桜の園』をわが手中におさめ歓喜するロパーヒンのセリフで終わりにしよう。声にだして読んでみると、『天空の城ラピュタ』のムスカみたいで、けっこう興奮する。ムスカのように声に出して読んでみよう。

  ロパーヒン わたしが買ったんです! ……(笑う)…まんまと落したんです。桜の園は、もうわたしのものだ! わたしのものなんだ! (からからと笑う)ああどうしたことだ、皆さん、桜の園がわたしのものだなんて! 言いたいなら言うがいい、わたしが酔っているとでも、気が変だとでも、夢を見てるんだとでも……(足を踏み鳴らす)…おおい、楽隊、やってくれ、おれが聴いてやるぞ! みんな来て見物するがいい、このエルモライ・ロパーヒンが桜の園に斧をくらわせるんだ、木がばたばた地面へ倒れるんだ! ……楽隊、やってくれ!

          (「「超」ジャンル」『「超」連句入門』東京文献センター・2000年 所収)