2017年8月30日水曜日

続フシギな短詩188[神野紗希]/柳本々々


  コンビニのおでんが好きで星きれい  神野紗希

川柳と「好き」「逢う」「密会」の話が出たので、この句をとりあげてみたい。私は神野さんのこの句をはじめてみたときから、なんだかこの句に俳句のあたらしい秘密があるような気がして、ことあるごとに思い出しては、考えてきた。というか、俳句なのに「好き」という言葉があったのが、とても衝撃的だったんだとおもう。もちろん俳句に「好き」という言葉はでてくる。かつてとりあげた池田澄子さんの句、

  屠蘇散や夫は他人なので好き  池田澄子

ここにも「好き」があるのだが、「夫は他人」と言う認識によって、また「屠蘇散」という薬の季語によって、「好き」の位相はズラされている。ここには、ベタッとしたままの「好き」はない。夫は他者であり、季語も他者である。

神野さんの句の面白いところは、句のなかの「好き」が〈ほんとう〉に「好き」なんじゃないかと思うところだ。この語り手は「コンビニのおでん」がほんとうに「好き」なんじゃないかと。しかもここにはなんの他者もいないんじゃないかと。そう思われるのが、「コンビニのおでんが好きで」の後に続く「星きれい」だ。この語り手は、「コンビニのおでん」がためらいなく好きなひとで、かつ、「星」がためらいなく「きれい」だとおもうひとだ。

この助詞の「で」をどうとるかは実は難しいのだが、ひとつ言えることは、「コンビニのおでんが好き」という感情=内面と「星きれい」という風景が助詞「で」によってためらいなく等価につながってしまうということである。つまりここにはその「で」という連絡=接続を阻止する他者はいないのだ。

ただもっと面白いのが、そうした他者を埋め込まない句によって、句そのものが〈他者〉を呼び込んでくるところである。たとえば、「コンビニ」と表記するか「コンビニエンスストア」と表記するか(俳句の書記意識をめぐる問題)、ほんとうに「コンビニのおでん」をおいしいと思うかどうかもっとちゃんとしたところで食べたい(俳句をめぐる階層的問題)など、この句そのものが「コンビニのおでんが好きじゃなくて星もきれいじゃない」と思うような〈他者〉を呼び込んでくる(俳句の《そもそも》をみんなが考えはじめてしまう)。

とすると、私がこの句にみた俳句のあたらしい秘密は、この句が、たまたまそういう俳句の臨界のようなところに、ふっと身をおいてしまったことにあるのではないかとおもうのだ。でもそういった臨界の俳句は、他ジャンルの他者に呼びかけてもいく。えっこんな俳句があるの、と。なんでだろう、と。そもそも俳句ってなんだったのか、と。自分が知らないうちにずいぶん古池蛙から遠くなってる、と。

  この国で、わたしが眠るのと地続きの地面で、これからも生きて、働く、それがむくわれてあなたは幸せになる。絶対に。ねえ、これまでのようにこれからも、ときどきでいい、たいせつな、日本語で、わたしに話しかけて。わたしはそれ以上、なんにも望まない。
  (岡田利規『現在地」)

ただ私は同時に現代の〈かえるの飛び込む水の音〉はこんなところにあるような気もしている。なにも考えずに、あえて意図的に意識をもたずに、無意識のなかで、じぶんの生活意識を〈録音〉した場合、ふっとこのような意識を録音できてしまうのではないだろうか。ああなんかほんとこれおいしいのかよと思って買ったけどコンビニのおでん意外にめっちゃおいしいしなんかふっと帰り道空みあげたらなんかなんていうかめっちゃつきぬけたように星きれいだったしなんかいいこともわるいこともなんにもないけど明日もまたコンビニのおでん帰り道買おうかなソーセージなんかもあれ入ってたよなおでんなのにソーセージってなんなんあれになんかいろんなものを吸わせてるのそのなんかおでんの養分みたいなうまくいえんけどなんかきづくとあれめっちゃ星、と。それが現代の意識の水の音のような気もしている。直感だけど

でも、意識に、実は、他者はいらない。他者は意識を阻害するので。他者は、その句の、外にいて、外からやってきて、たえずその句にふれればいいのだ。だから、気になって、なんどもこの句に帰ってくる。わたしもよく思い出す。毎日、コンビニにいくので。あのひと毎日コンビニにくるよなあとおもわれてるしそれはそれでぜんぜんいいって中腰でお餅の入ったグラタンとか手にしながらおもうし、それにコンビニはぜんぜん滅びるようすはないし、おでんも毎年絶対にわすれないアニバーサリーのようにやってくる。なんかわたしが気にかけなくてもおでんはむこうからわたしの意識のなかにやってくるし意識いじくるし、なんか、あの、わたしたちの意識は、コンビニやおでんや帰りになにげなくみあげた星にあるような気もしているし、なんかいまや、古池の意識作用は、コンビニにあるのではないだろうかと思うし、なんかめっちゃ思うし、なんか。

  ともかくむかしむかし、天から降り立ったコンビニな、それが変えたんだよ人類を。人類を、深夜小腹減ったって問題から救った、それから、夜道暗くてこれ心細いぞって問題からも救った、くわえて、どこでバイトしたらいいんだ問題、僕のわたしのバイトできるとこありません問題からも救った、ようするに、人類のすべての問題を、コンビニは解決したってことだ!
  (岡田利規「スーパープレミアムソフトWバニラリッチ」『悲劇喜劇』2015年1月)

          (『光まみれの蜂』角川書店・2012年 所収)