2017年8月18日金曜日

続フシギな短詩161[廿楽順治]/柳本々々


  でもただしいものに踏まれたのだからしかたない
               泣いて感動しなさい
              (あ、なんだこの虫)
     最後まで手足が漢字みたいにうごいている
               これは文学になるぞ
                   さようなら
            廿楽順治「妖虫のさいご」

『現代詩手帖』の廿楽さんの連載詩「鉄塔王国の恐怖」には毎回、挿絵が全面的にレイアウトされている。そもそも廿楽さんの詩は引用でわかるように、文頭ではなく、《文末》がそろえられている。そのことによってはじめから詩のレイアウトへの意識が非常に高いということが形式的に指示されている。だから廿楽さんの詩はたえず図像的意識を喚起している。意味だけでなく。

この図像への意識の鋭さは、挿絵を挿絵のままにしておかない。

そもそもテクストと絵の関係はどのように成り立つのだろうか。かつてイラストレーターの安福望がギャラリートークにおいて、短歌に絵をつけるときに、その短歌の文字テキストを絵のどこにおさめていいかわからなくなるときがある、絵の外に、絵の外の壁にテキストを直接書き付けられればいちばん安心する、と述べていたが、絵とテキストの関係は、おそらく、意外にも、やっかいなのである(だから絵とテキストを形式的に分離してくれるTwitterメディアは安福望にとって、ひとつの理想的な〈額縁〉だった)。

廿楽さんの詩における絵の役割はどうなっているのだろうか。第六回は、宇田川新聞さんの版画が詩にそえられているが、それはそえられているというよりも、詩テクストと画のどちらが〈主従〉なのかわからないように画が全面に展開されている。そのことで、画に挿詩されているのか、それとも詩に挿絵されているのか、わからないようになっている。

画のなかにテキストが侵入し、画を境界のように使いながら詩が展開され、詩と画をわかつものが〈感覚的〉にしかとらえられないようになっているのである(ある意味この詩においてはイメージが言語の魔宮になっている。言語的境界が意味ではなくイメージによって果たされるのだ)。

たとえばギザギザの吹き出しのなかに、詩とは分離した「あ、/なんだ/この虫」というテキストが入ることによって、テクストと画の主従関係がかきまぜられる。

それはこの詩の形式がそもそもそうで、まるでマンガのコマの外に描かれた作者の欄外注のように縁取られた枠線の外には「【ペンフレンド募集】字の書ける人ならどなたでも。顔をうしなった友だちになりませう。理想の」「物語の途中で明智先生が消えてしまった。わたしたちに何もいわず。」と上下左右にテキストが確認できる。

この詩と画が相互に〈挿入〉されていき、主従関係を解消していくさまが、ここでは〈詩〉として働いている。詩は垂直にも水平にもベクトルを形作らず、画と干渉しあいながら、読者の特異点を分解しようとする。

この連載詩「鉄塔王国の恐怖」は、「探偵詩篇」と名づけられているが、レイアウトそのものが〈探偵=ミステリー〉的なまなざしのミスリードと混淆におかされている。「最後まで手足が漢字みたいにうごいている/これは文学になるぞ」の通り、ここではたえず文字が手足や虫のように「うごいて」おり、その〈うごく〉なにかが読者に〈文学になる〉かもしれない〈なにか〉を喚起させる。しかしそのなにかは、「探偵詩篇」である以上、〈なにか〉なのであり、そして

  そのくるしみの手はずっとこちらへ振られている
             でも言語的には虫だから
          なにがいいたいのかわからない
                    親戚一同
           だれがどの顔だかわからない
           (廿楽順治「妖虫のさいご」)


          (「第六回 鉄塔王国の恐怖 妖虫のさいご」『現代詩手帖』2012年8月 所収)