2017年8月24日木曜日

続フシギな短詩173[瀧村小奈生]/柳本々々


  まだすこし木じゃないとこが残ってる  瀧村小奈生

小奈生さんの川柳にとって「木のとこ」と「木じゃないとこ」を確認するのはとても大切な作業になる。たとえばこんな句がある。

  息止めて止めて止めて止めて 欅  瀧村小奈生

〈そう〉なろうと思えば、息を止めつづけることで「欅」になれてしまう体。体は容易に逸脱する。やり方さえわかれば。だから、「木のとこ」と「木じゃないとこ」をいちいち確認する作業は大切になってくる。

容易に変化・変態してしまうからだをめぐって、こまかく、すこしずつ気づいていく認識。

  小春日を起毛してゆく声がある  瀧村小奈生

  心外なところで声は折れ曲がる  〃

  三日月にさわった指を出しなさい  〃

  あやふやな湾岸線をもつからだ  〃

起毛する、折れ曲がる声。三日月にさわった指。あやふやな湾岸線をもつからだ。からだは〈わたし〉を超えて変化する。

川柳において、からだは、形態変化する。その形態変化を《事後的》に記述するのが川柳だともいえる。だから、川柳の主体は、ときに、〈人外〉が、事後的に・語ったような語り口ともいえる。非主体化していく主体がそれでもかろうじて「まだすこし木じゃないとこ」を語ったように語るのが川柳ともいえるのである。

たとえば次のような短歌と比較してみるとわかりやすいかもしれない。

  毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡  東直子

短歌においては、主体変化は起こらない。たとえばこの歌なら、主体と「楡」の一致は起こらない。主体は「楡」を見いだすが、それは主体変化としてではなく、主体観察として、みいだす。「妹のすっとんきょうな寝姿」はまるで「楡」だと。

  夜はわたし鯉のやうだよ胴がぬーと温(ぬく)いよぬーと沼のやうだよ  河野裕子

夜の「わたし」は、胴がぬーとぬくくて、沼のようで、「鯉」のようだという。これも夜のわたしの主体観察だといっていい。もちろん「鯉」なのではない。鯉の「やう」なのである。

短歌においては、私→A、という働きかけになる。そういう主体観察になる。

一方、川柳においては、私=A、という主体のありようが語られる。主体変化が記述される。

どうしてそうなのかは私もちょっとわからない。ひとついえるのは、よくもわるくも、川柳においては〈わたし〉が育たなかった、ということが言えるかもしれない。育たなかった〈わたし〉は容易に変化してしまう
ピノキオのような主体である。息をとめただけで、木になってしまう。比喩じゃなく。そう、なってしまう。

精神分析学者のラカンの言葉を使えば、短歌は、言葉によって主体が確立されている〈象徴界〉的な文芸、川柳は、イメージによって主体が変化する〈想像界〉的な文芸、と言うこともできるかもしれない。

そして、定型の〈外〉には、〈象徴〉しても〈想像〉してもふれられない〈現実〉がある。そのふれられない〈現実〉をめぐって詩が機能してしいることにおいては、どちらも共通しているようにも、おもう。

たとえば、〈なに〉が「そうですか」なのかは、ふれられない〈現実〉。「中央にあるべきもの」とは〈なん〉だったのかは、ふれられない〈現実〉。無意識のとぐろのように、まっくらな穴のように、ひろがる〈現実界〉の深淵へ。

  そうですかきれいでしたかわたくしは小鳥を売ってくらしています  東直子

  中央にあるべきものがない空だ  瀧村小奈生

          (「木じゃないとこ」『川柳ねじまき』2014年7月 所収)