2017年8月28日月曜日

続フシギな短詩183[河野裕子]/柳本々々


  手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が  河野裕子

河野裕子さんで有名な歌に、

  たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか  河野裕子

という歌があるのだが、すごく「君」への求心力が強い歌だ。〈例え〉として話し始めたことではあったが、その〈例え〉は「ガサッと落葉すくふやうに」と非常に具体的かつ強力で、さらにそこに例えだけではなく、「私をさらつて行つてはくれぬか」という率直な行為の記述が入る。それは落ち葉をすくうようにというたとえではもはやすまされていない。たとえ話をしながらも、そのたとえを超克し、「私をさらえ」と言っているのだ。

だから「たとへば君」のこの「たとへば」は「たとへば」なんかでは、ぜんぜん、ない。「たとへて」はいないのだから。「たとへ」るというよりは、「君」と名指しされた「君」がためされる歌だ。たとえば、ですますのか、たとえば、ですまさないのか。どっちなのか、と。

そうかんがえると、この一字アキもとても効果的だとおもう。なぜなら、「君」に少し考える時間を与えてあげているから。この一字アキは残酷である。試される時間だからだ。この歌のいちばんの強度は「君」の横にある永遠ともいえそうなこの一字アキになるような気もする。夏目漱石『それから』で主人公の代助が答えることのできなかったおそろしい問いかけである。

掲出歌は、河野さんの最後の作と言われている。この歌で私がとてもインパクトを受けたのが、「あなたとあなた」という「あなた」の反復だった。「手をのべて/触れたき」というとき、ふつうは慣性として「君」というひとりの人間に語られるのではないだろうか。あなたにも・あなたにも触れたい、という発想ではなくて。

ところがこの歌では「あなたとあなた」と〈あなた〉が複数形になっている。まるで河野さんはみずからの代表歌の「君」を〈ズラす〉ように「あなた」の横に「あなた」を添えている。そしてその複数の「あなた」に対応するように下の句には複数の「息」がでてくる。

落葉の歌は、「君」と「私」という単数の歌である。でも河野さんが最後にたどりついた歌は、「あなたとあなた」、「息」と「この世の息」という複数に語りかける複数的な場所をめぐる歌だった。

大澤真幸さんが愛をめぐる関係を次のように述べている。

  愛の関係においては、指示の究極的な帰属点は、私(自己)であると同時にあなた(他者)でもある。一方においては、私こそがあなたを愛しているのであり、あなたを愛する対象として指示する営みの帰属点が私であるという構成は解消されはしない。が他方、私の任意の指示が、ただあなたの宇宙の中の要素としてのみ意味を有するのであれば、私の指示をさらに指示している他者の方に最終的な帰属点が委譲されてもいることになる。だから、ここには、眩暈を誘うような、指示の帰属点の終わりなき反転がある。
  (大澤真幸『恋愛の不可能性について』)

愛の関係は、究極的に「私」か「あなた」に回収される。「私」「あなた」「私」「あなた」とお互いがお互いをガサッとさらい続けるような眩暈のような関係が愛の関係でもある。

でもここに「あなたとあなた」ともうひとりの「あなた」を介入させたら、このめまぐるしい愛の関係はどうなるのだろう。もうひとりの「あなた」は彼でも彼女でもない。それは第三者ではない。「あなた」である。「あなた」にもうひとり「あなた」が加わったのだ。それは、さらい・さらわれる関係でもない。河野裕子の短歌はこうした新しい愛の関係を短歌で発見したのではないかとおもう。「あなたと彼を愛したい」ではなく、「あなたとあなたを愛したい」。その愛の関係は、なんなのか。

とてもずっと考えたいと、おもう。

  まみ深くあなたは私に何を言ふとてもずつと長い夜のまへに  河野裕子

          (『日本文学全集29 近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)