2017年8月15日火曜日

続フシギな短詩154[楢崎進弘]/柳本々々


  次の世がメロンパンでもかまわない  楢崎進弘

メロン、ってなんなんだろうな、っておもう。
いや、そうじゃなくって、川柳にとってメロンってなんだろうな、とおもう。

たとえば現代川柳にはこんなメロンの句がある。

  こっそりとエステサロンへ行くメロン  赤松ますみ

  メロンパンだって内面と外面  オカダキキ
   (『川柳文学コロキュウム』77号、2017年7月)

赤松さんの句には「こっそりと」の部分にメロンがふだん隠している内面がある。メロンは「エステサロンへ行」きたいほどになにかを恥ずかしがっている。恥ずかしがるのは、メロンに内面があるからだ。

だから、オカダさんの句ではそのまま「メロンパンだって内面と外面」と書かれている。メロンパンの多層構造をこんなふうに表現したのかもしれないけれど、「内面」と書かれることによってあたかもメロンパンに感情があるように描かれている。

こんなふうに川柳のなかのメロンはとてもていねいに扱われている。内面が描かれるほどに。

楢崎さんの掲句。「次の世がメロンパンでもかまわない」と言い切っている。一見すると、捨て鉢のようにも見える。もう次の世なんてどうなったっていいと。今回のこの世をがんばりますと。でも川柳の枠組みにしてみれば、メロンには内面があり、ていねいにあつかわれるのだから、もし次の世がメロンパンだったとしても、私は川柳をやっていて、ちゃんとメロンパンのことをわかっているのだから、安心しているのです、と受け取ることだってできる。川柳をする、ということは、メロンと向き合うということでもあるのだ。

  苦しくていとこんにゃくを身にまとう  楢崎進弘

  彼方より飛来するもの茄子を焼く  〃

だから。

楢崎さんの川柳においてはとっても大切な人生のシーンにおいて、食べ物が飛来する。「彼方より飛来するもの茄子を焼く」と書かれているが、実は人生の大切な場面にそのつどそのつど飛来しているのは、メロンパン、いとこんにゃく、茄子などの食べ物たちだ。

川柳は、食べ物に、食べ物以外の、なにかを見出そうとしている。それがなんなのかはわたしにもわからない。わからないから川柳のことを考え続けているのだが、でもどうして川柳は食べ物になにかを見出そうとしているのだろう。わかったひとはぜひこのフシギな短詩のコーナーにお便りください。あてさきはないんですが。

  わけあってバナナの皮を持ち歩く  楢崎進弘

          (「8月」『あざみエージェントオリジナルカレンダー』2017年 所収)