2017年8月17日木曜日

続フシギな短詩159[生駒大祐]/柳本々々


  花の中をゆつくり歩いてゆかなくてはね  生駒大祐

青木亮人さんのNHKカルチャーラジオ文学の世界「俳句の変革者たち-正岡子規から俳句甲子園まで」の最終回のいちばん最後を青木さんは生駒さんの次の句でしめくくった。

  秋燕の記憶薄れて空ばかり  生駒大祐

青木さんは、私の記憶がたしかならば、こんなふうにこの句について評されていた。

記憶が薄れて空ばかりがひろがっている。その空のむこうから俳句の変革者は俳句史にかならずあらわれるはずだ。それは俳句史の蓄積を知っている者かもしれないし、俳句史をぜんぜん知らないものかもしれない。

私がこの青木さんの締めをきいて面白いなと思ったのが、生駒さんの句が締めにふさわしいような〈全体性〉をもっていることだった。どうしてこの句は全体性をもっているんだろう。

この句は「空ばかり」と「空」に向かって終わっている。全体が空にみちておわっている。ところが、「記憶薄れて」とあるように、根っこのところ、根本的な生成の現場が言及され、それを通して、空にむかっている。底(そこ)と空(そら)がここには同時に描かれている。だから全体的な空間をうんでいる。「記憶」が「薄れ」た人間は、「空」にむかうという逆説的倒立の世界。

以前、宮本佳世乃さんとお話していたときに、生駒さんの俳句の〈底〉への感覚がおもしろいと言っていた。それを聞いて、なるほど、そこ(底)から生駒さんの俳句をみてみるのは面白いかもと思った。

たとえば掲句。七七七の句なのだが、妙に「底」感がないだろうか。「花の中」なのでおそらく語り手は桜がふるなかを歩いているのだが、定型をこれでもかと目一杯使い、ゆっくりゆっくり歩いていく。「花の中」という空の方向が意識されながら、〈底〉がゆっくりゆっくり意識されている。まるで全体を背負い込みながら歩いていくような句だ。最後の「ゆかなくてはね」の「ね」は〈根〉なのかもしれない。だからこんな句。

  つまづきて土這ふ花の根と知れり  生駒大祐
   (「花」『オルガン』9号、2017年5月)

つまずいて空間が反転する。空は地になり、「土」を這う「花の根」を感受する。

  塵取の裏や花屑張り付きある  生駒大祐

空から降った桜の花びらだ。でもいまはこうしてちりとりのうらに張り付いている。花はあたらしい底を見いだし、語り手もあたらしい底をみいだしている。花をとおして〈底〉を発見してゆくこと。しかしそれが全体性への言及になること。

生駒さんの俳句には底からの全体性の立ち上げがあるのかもしれない。

  幹つめたしこの満開の中にあれど  生駒大祐

桜「満開」のなかで「幹」の「つめた」さを気にかけているひと。「あれど」の「ど」は、やはり、「土」ではないのか。

連作のタイトルは「花」だったのに、「根」のことをたえず気にかけるひと。「根」のことを気にかけていたのに、「空」を感受していたひと。

  車窓から桜のやうな噓のやうな  生駒大祐

          (「花」『オルガン』9号、2017年5月 所収)