2017年8月15日火曜日

続フシギな短詩155[赤松ますみ]/柳本々々


  魔法だと思うこの世に生きている  赤松ますみ

川柳のなかの不思議な食べ物の関係について前回書いたのだが、そもそも川柳という装置自体がマジカルなことを内包している。たとえば現代川柳観というものを一言でいうなら、赤松さんのこの句そのものなんじゃないかと思う。すなわち、「魔法だと思うこの世に生きている」。

以前、川柳の大会で佐藤文香さん自身が川柳を選ぶ際の基準としてこんなふうに述べられたことがある。とても印象的な一言でよく思い出している。

  自分が選ぶときに大きな基準があることがわかりました。それは、その句がこの社会でどれだけ貢献しないか、ということです。
  (佐藤文香『バックストローク』33号)

どうして「社会でどれだけ貢献しないか」が現代川柳を選ぶ際の基準になるのだろう。ふつう、逆ではないか。しかし文香さんはそうかんがえた。「その句がどれだけ社会に貢献しないか」と。

わたしはそれは川柳が「魔法」だからじゃないか、とおもう。魔法はこの社会になくていいものである。私はかつてテーブルクロスからサンドイッチくらいは出せる魔法を拾得しようとしたが挫折している。水をかけられたら溶けて消えちゃうような低級な魔法使いでいいのでお願いします、といったのだが、だめだ、と言われた。魔法はこの社会にはいらない。コンビニに行けばおいしい玉子サンドもある。

でも魔法はみんな使うことはできないけれど、この社会や世界のどこかがマジカルな部分で成り立っていることもたしかなことだ。たとえば赤松さんの句。

  ともだちの数をときどき足しておく  赤松ますみ

これは一般的には「友達の数がふえた」といわれることだが、「ともだちの数をときどき足しておく」と〈数〉として〈足されるもの〉として、「ともだち」をみることによって、それまでの社会や世界から少し軋んだ感覚としてとらえかえされていく。なぜ「足しておく」のか、そのとき「ともだち」の主体性はどうなるのか、そういった不穏な感じが次々と派生してくる。

こんなふうにわたしたちは〈ふだんやっていること〉でも少しだけ構文を変えるだけで、不穏になることができる。それを、魔法、と呼んでもいいんじゃないだろうか。少し世界を軋ませるのである。それは、ハッピーにもアンハッピーにもなれるような魔法である。どちらに転ぶかはわからない。

  暗闇で最後の段を確かめる  赤松ますみ

  きらきらとするまでたっぷりと眠る  〃

その魔法が暗闇のおわりを呼ぶのか、きらきらの始まりを呼ぶのか、それともすべてのおわりを呼ぶのか、わからないが、しかし川柳は社会に貢献できない〈死角〉を暗闇で、眠りながら、可視化しようとしているようだ。

みえないからこそ社会に貢献できないのだが、しかし、みえないものにはみえないからこその永続的な希望も、ある。たとえば見えないところでこんなふうに言われる。ひかりなさい。

  光りなさいと星のマークをつけられる  赤松ますみ

          (「鳥になる」『セレクション柳人 赤松ますみ集』邑書林・2006年 所収)