-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
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2017年8月16日水曜日
続フシギな短詩157[きゅういち]/柳本々々
縁取りにぬるいファンタをたててゆく きゅういち
川柳と食べ物の話をもう少し続けてみよう。きゅういちさんの句集『ほぼむほん』から食べ物の句をひろってみる。
りかちゃんに湯船に満ちる生卵 きゅういち
算数の本のりんごが落ち・・・チャイム 〃
「ぬるいファンタ」は「縁取り」のために使われ、「生卵」は「湯船」に満ち、「算数の本」から「りんご」が「落ち」ると「チャイム」がなって授業が終わる。「ファンタ」「生卵」「りんご」は〈空間〉を規定するちからをもっているようだ。
ただ食べ物たちは静かに〈空間規定〉しているわけではない。なにか得体の知れないものをかすかに引き出し・あふれださせながら空間規定しているのも特徴的である。
「ぬるいファンタをたててゆく」の「ゆく」という意志。「りかちゃんに湯船に満ちる生卵」の「りかちゃん《に》」の志向性、「りんごが落ち・・・チャイム」の「・・・」の得体の知れない沈黙。
食べ物は空間を規定するのだが、その規定された空間から、どろどろとなにかが出ている。
《空間は、じっといていない》と言ったらいいか。
情念を語るソーセージの金具 きゅういち
「ソーセージの金具」は「ソーセージ」を拘束していたが、しかしそのようにソーセージを空間規定していた金具が「情念」を語りだす。これもじっとしていない空間からあふれだしていくひとつのどろどろである。
句集タイトル『ほぼむほん』の表題句をみてみよう。
ほぼむほんずわいのみそをすするなり きゅういち
ずわい蟹の「みそをすする」行為、蟹の甲羅という空間からどろどろしたもの(蟹味噌)を引き出す行為が、「ほぼむほん」という心性のありかたを引き出している。謀反には、反逆の意味のほかに、ひそかに計画して事を起こすこと、の意味もある。空間は、ずっとなにかを計画し、ときにどろどろしたものをあふれださせながら、反逆する。これをヒントにきゅういちさんのこんな句群をピックアップしてみよう。
たらちねの農農たらり農たらり きゅういち
体毛をふふふほほほと風姉妹 〃
鼻なんよのびるのびるのびるのびるんよ 〃
羊合う呼び合う見合うおい小池 〃
買いの手の手の手の果ての浅瀬の鯨 〃
走りたい逢いたい痛い人体図 〃
逆さですあふれそうです鶴見えます 〃
空間は反逆すると述べたが、定型もひとつの空間である。その空間に〈謀反〉を起こさせるにはどうしたらいいだろう。ひとつには、《言葉の自走的暴走》を起こさせるというやり方がある(ちなみに以前、このフシギな短詩で取り上げた中家菜津子さんの歌集『うずく、まる』の歌や詩には言葉の自走性があらわれている。「うずく、まるわたしはあらゆるまるになる月のひかりの信号機前/中家菜津子」)。
「たらちね/たらり/たらり」、「ふふふほほほ」、「のびるのびるのびるのびるのびるんよ」、「合う/呼合う/見合う」、「手の手の手の果ての」、「たい/たい/痛い/人体」、「です/です/ます」。言葉が音を介して暴走し、どろどろした意味があとから追っかけてくる。これもひとつの、定型への、意味へのむほんではないか。
しかしそれは完全なむほんではない。なぜならきちんと定型は遵守されているからだ。されてはいるのだけれど、反復された文字と音によって錯覚が起きてあたかも定型が崩壊しているようにもみえる。定型は〈まもられている〉のに、定型に反逆がおきて、定型が〈崩壊した〉ようにみえたら、それはもう、こういうしかない。《ほぼ》むほん、と。
輪を叩きつけて天使は出ていった きゅういち
(『ほぼむほん』川柳カード・2014年 所収)