2017年8月8日火曜日

続フシギな短詩149[吉岡太朗]/柳本々々


  ようわからんひとがしっこをするとこを見にきてしかもようほめる  吉岡太朗
  
吉岡さんの歌集『ひだりききの機械』には、排便や排尿がたくさん出てくる。

 嘔吐、排便、排尿から神々が生成する。
  (レヴィ=ストロース『今日のトーテミスム』)

とレヴィ=ストロースは語っているが、排便や排尿は考えてみれば〈生成の現場〉でもある。

  しっこするとことうんこするとこの階がちゃうなんてどないやねん  吉岡太朗

「しっこするとこ」と「うんこするとこ」の「階」が「ちゃう」ことに気付いたときにそこには〈わたしの身体〉に対する「どないやねん」という身体的認識がうまれる。

たしかに、いっしょでもいいじゃないかとおもう。でもそこには身体の弁別があるのであり、身体の弁別があるからには、そこには意味や記号の弁別があるのだ。

つまり、〈排便の記号学〉とでもいうべきものがあり、吉岡さんの歌集はそれをたちあげている。

  コンビニで便をしながらわしかって Potenza(潜勢力)を蓄えている  吉岡太朗

Potenza はジョルジュ・アガンベンの思想用語かもしれない。潜勢力は、潜在的なために、見過ごされがちだが、語り手は排便を、いまだみえてはいないが・いつか顕在化するちからのメタファーとして語っている。ただここで注意したいのが「コンビニで」である。語り手は潜勢力を普遍的に語ろうとするわけではなく、「コンビニ」といった〈ローカル〉な、局所的な場所から語ろうとしている。

これは、この歌集のタイトル『ひだりききの機械』とも照応しあっている。「機械」はマニュアルに沿って使えば誰もが使えるように普遍的なものだが、その「機械」に〈ひだりきき〉というローカリティ=局所性を持ち込む。この歌集のほんとうの潜勢態はこうした〈ローカリティ〉にちからをみなぎらせていくところにある。

尿道や肛門が身体のローカルなら、さらにそのローカルを「コンビニ」というローカリティにかけあわせる。しかしそこでも「便」という人間の生産性はやむことがない。そして「便」という点において、言語・ジェンダー・階層・セクシュアリティは関係がない。だれでも便はするんだから。あなたもわたしも例外なく。

冒頭の掲出歌をみてみよう。「ようわからんひと」が〈わたし〉が「しっこをするとこを見に」くる。現在進行形の〈わたしの排尿〉を介して〈わたし〉は匿名の理解も共感もできない人物と関係を築きかけている。しかもその人間は〈わたしがしっこをする〉のを「ようほめる」。

ここには関係性のローカリティがあらわれている。相手は「ようわからんひと」であり、しかもひとの「しっこをするとこ」を見ているのであり、さらに一方的に「ようほめる」。排便がローカリティに置かれながら、排便を介して関係がマッピングされる。〈わたし〉はその非対称的関係をどう思ったかは語られない。〈わたし〉のそのときの内面はこの歌ではずっと〈潜勢態〉としてとどまっている。それは読み手が、排便のときに、思いだし、かんがえることだ。

  もらさんことに執着しとる人々よ ほらあんたもさうなんやろ  吉岡太朗

便は誰もがする点において〈普遍性〉をもつのだが、その〈便〉をめぐる記号学は、関係性や局所性がつきまとう。でも、排便はふだんは潜勢的なのであって、ひとは語らない。だから、なんどもなんども短歌という形式で語り直さねばならない。それが排便の詩学になる。

〈排便〉はだれと・どこでされるときに・だれのものになるのか。排便はわたしのものなはずなのに・わたしのものでなくなることがこの世界にはある(介護や人工肛門がそうだろう)。それはなんなのか。でもなぜそれが語られないのか。語られたら語られたでなぜ一様の語りなのか。そうした世界に対する「構造」的な「本当は誰のもんやろ」という疑義がここにはつきつけられている。トイレは個室なんかじゃなかったのかもしれない。

  本当は誰のもんやろ構造上流れんはずのわしん涙は  吉岡太朗

          (「おりづる」『ひだりききの機械』短歌研究社・2014年 所収)