2017年8月18日金曜日

続フシギな短詩162[川柳少女]/柳本々々


  そういえば私玉ネギだめだった  川柳少女

『川柳少女』という四コマ漫画があるのだが、柄井高等学校に通う雪白七々子という女子高生が主人公になっている。

特徴的なのは五七五系女子である彼女が川柳を介してしか他人とコミュニケーションがとれないことである。彼女はひとことも声を発しない。だから常に句箋を持ち歩いており、川柳によって他者とコミュニケーションしている。別にだからといって悲しいことが起こるわけではなくて、むしろコメディタッチで物語はすすんでゆく(ほっこり文化系ショート漫画)。

ひとつ面白いなと思うのが、俳句少女ではなくて、川柳少女だったことである。たとえば主人公の発話を奪い取り575のみのコミュニケーションにした場合、俳句少女だったらどうしても季語がコミュニケーション・ノイズとして入ってきてしまう。俳句とは〈挨拶〉=始まりの文芸であるため、コミュニケーションのキャッチボールのなかでの〈やりとり〉のなかでの発話には向いていない(俳句は、「発」句である)。

ところが川柳はこう言ってしまうとあれなのだが、〈なんでもあり〉の文芸である。たとえばそもそもこの主人公が通ってる高校の名前、柄井高等学校は、柄井川柳という川柳のジャンル勃興に関わっている人間の名前からとられているはずだが、しかし柄井川柳という人名が川柳ではそのままジャンル名になっているのである。これは、奇妙なことではないか。俳「句」や短「歌」というジャンル名を思い出してみてほしい。川柳は、人名がジャンル名になっているのだ。結果、句でも歌でもないものになったのだ。なんでもありの。

浜田義一郎は川柳という名称について次のように述べている。

  川柳という名称はジャンル名を兼ねているのでまことに都合が悪い。文学史上の用語として明治中にこの名称に定着したが、一般には狂句の名称が行われ、むしろこの称が適切なのにと思われる。実は初代川柳在世中から適当な名称がないため、他文芸にあらわれている用例を見ると、「川柳が前句」「川柳点」「川柳が選」「川柳が句」「柳樽風の発句」「かの川柳が所謂」など種々雑多である。正確にいえば初期は「川柳点の前句附」であるが、長すぎて実用的でないので色々に表現され、まして初代川柳死後は川柳の前句・点・選・句ではなくなって一層困ったため、三一篇からは文日堂が川柳風という新語を作った。芭蕉の蕉風に対する川柳の川柳風の意である。「川柳風」の語は一般化しなかった。流派(スクール)名の感じでジャンル名としてふさわしくなかったのであろう。
  (浜田義一郎『岩波講座日本文学史9』)  

川柳はどういうわけか「狂句」という名称が定着しなかった。ほんとはそういう未来もあったはずなのだが。私も不思議なのだが、だからこそ、句でも歌でもない現在の〈なんでもあり〉の川柳が成立し、枝分かれし、不思議なことになっているようにも思われる(カオス、アナーキーな状態に)。柄井川柳の亡霊がそのまま生き続けているような。

もちろん、〈なんでもあり〉というと怒り出す川柳人はいると思う。いるだろうけど、この四コマ漫画にかんしていえば、〈なんでもあり〉だからこそ、七々子は日々、川柳で他者とコミュニケーションをかわし、たくましく生きているのである。

七々子をみていると、川柳は、かなしいでもたのしいでもない。それは、五七五で他者と結びつく〈なにか〉なのだとおもってしまう。もしかしたら、川柳は、意味論ではなく、意味行為論的なパフォーマティヴなものかもしれない。あなたとふっとつながるための。

  じゃあここで私も一緒に食べていい?  七々子

          (五十嵐正邦「五七五系女子」『川柳少女』講談社コミックス・2017年 所収)