2017年8月30日水曜日

続フシギな短詩186[萩原朔太郎]/柳本々々


  まつくろけの猫が二疋(にひき)、
  なやましいよるの家根のうへで、
  ぴんとたてた尻尾のさきから、
  糸のやうな《みかづき》がかすんでゐる。
  『おわあ、こんばんは』
  『おわあ、こんばんは』
  『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
  『おわああ、ここの家の主人は病気です』
          萩原朔太郎「猫」

この詩で気になっているのが、語り手はいったい《どこ》にいるのかということだ。朔太郎の書いたものには、この《どこ》がつきまとっているのではないか。たとえば、萩原朔太郎に「猫町」という猫の町に迷い込んでしまう散文がある。しかしこの語り手が、また、怪しい。

  久しい以前から、私は私自身の独特な方法による、不思議な旅行ばかりを続けていた。その私の旅行というのは、人が時空と因果の外に飛翔し得る唯一の瞬間、即ちあの夢と現実との境界線を巧みに利用し、主観の構成する自由な世界に遊ぶのである。
  (萩原朔太郎「猫町」)

猫の大集団がうようよと歩いてい」て、「家々の窓口からは、髭の生えた猫の顔が、額縁の中の絵のようにして、大きく浮き出して現れてい」る猫町に迷い込んだ語り手は、冒頭、「主観の構成する自由な世界に遊ぶ」語り手なのだとみずからの位置性を語っている。この「猫町」はそういう人間が迷い込んだ猫町なのである。これは、主観と客観の合間の物語だともいえる。だから、きょうあなたがコンビニにゆきがてら、猫町行こっかな、というふうには行けないのだ。主観と客観のさかい目がなくなるくらい、クレイジーにならなければいけない(クスリを使うと簡単にいけるのだが、実際この語り手もクスリを使っている。でも、クスリ、ダメ、ゼッタイ)。

冒頭の詩は、「猫」という詩である。「猫が二疋、/なやましい夜の家根のうへで」と「猫」を観察している描写があり、また、「夜」をなやましいと叙述しているので、これは、「夜」をなやましく思う語り手が「猫」を観察しながら語っている詩だということができる。「なやましい夜」を過ごす人間が、この詩を語っている。視覚化してしみよう。

 ●(悩ましい詩を語ることのできる人間)→★★(黒猫二匹)

さらにその語り手は、猫をこえて、「糸のやうなみかづき」をみている。かすんではいるが。奥に三日月がある。

 ●→★★→△(かすんでいる三日月)

ここで語り手が猫の「ぴんとたてた尻尾のさき」をみた瞬間、「みかづき」に視線が即座に《移ろって》しまっていることに注意したい。この語り手は、じっとなにかを静止してみつめているタイプではない。視線がさっと瞬間的にうつろってしまうタイプの語り手なのである。なやましい夜を過ごしていて、きょろきょろしてしまうそういう語り手がこの詩には設定されている。

猫たちの会話の次の言葉でこの詩はおわる。

  『おわああ、ここの家の主人は病気です』

この〈病気の主人〉は、なやましい夜を過ごしながらきょろきょろしてしまう語り手に対応してしまう。語り手は「ここの家の主人」なのか。違うかもしれないし、違ってもいい。もし語り手がここの家の病気の主人でないならば、ここらあたりは〈病人〉でいっぱいだということである。

気になるのが猫たちの会話は、「こんばんは」「こんばんは」「ここの家の主人は病気です」とコミュニケーションが成立しているのに、『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』だけ、不可解な言葉になっているところだ。でもその不可解な言葉に《ちゃんと猫は答えている》。つまり、猫は『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』をちゃんと意味として、問いかけとして、受け取っているのだ。

だとしたら、なぜ、語り手にとってはそれは意味として、翻訳できるものとして、聞こえなかったのだろうか?

ひとつこんな推測をしてみたい。それは、語り手にとって、《聞いてはいけない言葉》だったんじゃないかと。たとえば、ここの猫のことばが実は、『おぎゃあ、ここの家の主人は病気なんですか?』という問いかけだったとしよう。しかしその問いかけを語り手はスルーしてしまった。というよりも、この『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』という苦悶のうめきのようなものが、《そのまま》なやましい語り手の声そのものになってしまった。だから、ここを、あえて。人間の意味に訳す必要はなかった。この『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』は語り手が〈翻訳〉する必要なんてなかった語り手の苦悶のうめき声である。そしてそれは、語り手にとって、問いにならない言葉だ。その言葉をもう生きてしまっているので。

でも、わからない。推測だから、それは推測でしょう、と言われれば、推測ですね、というしかないのだが、ただ冒頭で記したとおり、朔太郎は、「猫町」に迷い込む際に、主観と客観の境界に入り込むことを大切にしていた。じぶんが「見た」っていえば、それは「見た」ことになるんだと。「聞いた」といえば「聞いた」ことになるんだと。現象の絶対化。厄介である。

  だが私は、たしかに猫ばかりの住んでる町、猫が人間の姿をして、街路に群集している町を見たのである。理屈や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない。
  (萩原朔太郎、同上)

この「猫町」には冒頭に、《蠅そのもの》ではなくて《蠅の現象》を潰すショーペンハウエルのエピグラフがあるのだが、感覚世界や現象世界があらわれたとき、その感覚や現象は当事者にとっては〈絶対〉のものとなる。というより、わたしたちは、実は「蠅そのもの」(カントは物自体と呼んだ)には、一生涯かかっても、ふれられていない可能性もある。現象をみて、現象にふれ、現象にまんぞくし、現象的にしんでいく。そういう可能性だって、ある。一生、《物(モノ)》にふれられずに。

でも、現象には、穴がある。物そのものがときどきコポコポと音をたててあらわれてきてしまうのだ。それがこの詩では『おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ』の箇所なのではないかとおもう。それは、意味や現象にならないなにかである。語り手が、〈物そのもの〉に出あってしまうシーン。現象の裂け目を、裂け目のままに、おぎゃあおぎゃあおぎゃあ、と無意味のままに、うめきのままに、おいたセンテンス。

だから心配しなくても、死のまえに、は、やってくる。はやってきて、あなたにふれる。

  夢──壁には唯物の穴ポコポコあき  中村冨二

          (『近現代詩歌』河出書房新社・2016年 所収)