2017年8月27日日曜日

続フシギな短詩178[大岡信]/柳本々々


  名前にさわる。
  名前ともののばからしい隙間にさわる。
  さわることの不安にさわる。
  さわることの不安からくる興奮にさわる。
  興奮がけっして知覚のたしかさを
  保証しない不安にさわる。  大岡信「さわる」

大岡信さんの有名な詩で、戦後詩のアンソロジーなどでも掲載されていたりする。詩のタイトルは「さわる」だが、詩の一行目も「さわる。」から始まり、さいごまでその「さわる」をめぐって詩がつづられていく。

この詩では、「さわる」行為が、どんどん抽象化していく。「さわ」ろうとすると「さわ」れなくなっていって、むしろ「さわる」とはなんなのかがせり出してくる。

記事冒頭に引用した詩の箇所、「名前にさわ」っている。これだけでも抽象的なのだが、「名前にさわ」ったときにそこには「名前ともののばからしい隙間」ができる。だから今度はそこに「さわる」。さわるは具体にふれられないどころか、さわる対象は増幅される。「さわることの不安」として。

だから今度はその「さわることの不安にさわる」。すると「さわることの不安」という抽象を通して増幅され、「さわることの不安からくる興奮」がうまれる。そしてさらにその「さわることの不安からくる興奮にさわる」。さわることが、さわるものを、呼び込んでくる。

そして、問いが、提出される。

  さわることはさわることの確かさをたしかめることか。
  (大岡信、同上)

「さわる」ことが「見る」ことにも「知る」ことにも「たしかめる」ことにもたどりつかない。

さわる、ということは、逆にわたしたちをどこにもたどりつかないものにさせる。

  さわることをおぼえたとき
  いのちにめざめたことを知った
  めざめなんて自然にすぎぬと知ったとき
  自然から落っこちたのだ。
   (同上)

「さわること」で「いのちにめざめ」るのだが、しかし「さわること」で「自然から落っこち」る。わたしたちは「さわ」ったことで、なにか決定的な欠落をもってしまう。それは、なんだろう。さわれないなにか、か。こんな歌を思い出した。

  生命を恥じるとりわけ火に触れた指を即座に引っ込めるとき  工藤吉生

「火に触れ」て「指を即座に引っ込める」。そのときにじぶんが生きているということ、「生命」であるということを「恥じる」。

倒置法で語られているように、ここにあるのは条件反射的な「恥」だ。まずとっさに「生命を恥じる」。そのあとでその「恥」の理由がくる。

この歌がおもしろいのは、「指を即座に引っ込める」という条件反射が、いちばん後ろに置かれ、「生命を恥じる」と突然切り出された「恥」が〈むしろ〉条件反射のようになっているところだ。条件反射的感情が、条件反射的形式をうんでいる歌なのではないかとおもう。

さわって、恥ずかしいと思った仕組みがわかる歌だ。でも仕組みがわかっても、たぶん、またさわったら同じことをするだろう。それもまた「恥」をなす理由になっている。「さわる」ことは理屈がわかっても、おわらないのである。火に触れたとき、また即座にひっこめるだろう。さわるには、果てはない。でもなにかそこには感情や意味や理由がうまれる。でもその感情や意味や理由は「さわる」にたどりつかず、またおなじ根本の「さわる」がうまれる。

  さわる。
  時のなかで現象はすべて虚構。
  そのときさわる。すべてにさわる。
  そのときさわることだけに確かさをさぐり
  そのときさわるものは虚構。
  さわることはさらに虚構。
   (大岡信「さわる」)

「さわる」なかで「さわるもの」も「さわること」も「虚構」になっていく。でも「さわる」行為そのものは「虚構」になりきれない。わたしたちは何度でもまた「さわる」にかえっていく。工藤さんの短歌も、言説として理解はできる。だけれども、たとえ意味として理解としたとしても、また「火に触れた指」は「即座に引っ込め」られる。また「さわる」がやってくる。理屈ではない。もしかしたらその人間の代え難い〈底〉のような部分に気付いてしまうことが、〈恥ずかしい〉ということなのではないか。

  さわることの不安にさわる。
  不安が震えるとがった爪で
  心臓をつかむ。
  だがさわる。さわることからやり直す。
  飛躍はない。
   (大岡信、同上)

さわることに、「飛躍はない」のだ。さわってもさわっても、飛ぼうとしても飛ぼうとしても、なんどでも、また「さわる」にもどっていってしまう。飛躍は、ない。


          (「さわる」『ユリイカ臨時増刊 大岡信の世界』2017年7月 所収)