-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
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2017年8月28日月曜日
続フシギな短詩180[塚本邦雄]/柳本々々
春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状 塚本邦雄
戦争と川柳・俳句について前回少し話をしたがそのときずっとこの短歌について考えていた。よくかんがえる。
電車の中でもセックスをせよ戦争へゆくのはきっときみたちだから 穂村弘
鶴彬の川柳の戦争を通過した身体は手足がもがれることで当事者性が出ていたが、渡辺白泉の俳句の身体は「銃後という不思議な町」というそれよりも後景で、しかしアクロバティックな身体を展開していた。
穂村さんの歌になると戦争はもっと後景になり、戦争をめぐる身体性も「きみたち」に委託される。ここでは手足をもがれる過激さは、公共圏としての「電車の中」で「セックス」をする過激さとなり、倫理の手足がもがれることになる。ただ、前回も話した江戸川乱歩の「芋虫」が、戦争身体と性的身体のオーヴァーラップの物語だったことを考えると、この歌の戦争とセックスの重なりは興味深い。
そこには、キリキリと廻る、生きたコマのような肉塊があった。そして、肥え太って、脂ぎった三十女のぶざまなからだがあった。それがまるで地獄絵みたいに、もつれ合っているのだ。なんといういまわしさ、醜さであろう。だが、そのいまわしさ、醜さが、どんなほかの対象よりも、麻薬のように彼女の情欲をそそり、彼女の神経をしびれさせる力をもっていようとは、30年の半生を通じて、彼女のかつて想像だもしなかったところである。
(江戸川乱歩「芋虫」)
妻は、戦地から帰ってきて「芋虫」のようになってしまった夫の身体にみずからのセクシュアリティの新たな位相を〈発見〉する。戦争身体を発見するということは性的な身体がなんなのかを考えることにも通じている。
タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう 鶴彬
「産めよ殖やせよ」の戦時のスローガンのとおり、戦争はセクシュアリティを管轄しようとするからだ(たぶんここにはこうの史代さんの『この世界の片隅に』の戦争身体と性的身体をめぐる問題も関わってくる気がする。あのキスはどの位相でなされたのか)。
ちょっと遠回りをしたが、掲出歌。塚本邦雄にとっての戦争の位相はどこなのだろう。岡井隆さんがこんな発言をしている。
ぼくは十七歳で戦争が終わったからそういうことはひっかかってこなかったけど、みんな何を考えていたかというと、兵隊に行かないようにするにはどうしたらいいかってことなんですよ。黙っているけどみんな考えているのはそれなんです。だから理系に行ったほうがいいとか、文系はやばいとか。そういうことをみんな考えていて、でも口に出すと非国民になるから言わない。一方で、友人が死んだりするし、日本が滅びたりしていいと思っているわけではないから、吉本隆明さんがお書きになるような愛国少年的な面も片方にはある。その複雑さがあるんだよね。
(岡井隆『塚本邦雄の宇宙』)
戦争はいやだし行きたくはないのだが、でも、それを口には出せないので、黙っている。黙ってはいるが、思ってはいる。思ってはいるのだが、でも、愛国心もある。この国を滅ぼしたくないという気持ちもある。手足を失うわけでもないが、「きみたち」に託すほど後景にいるわけでもない。戦争のまっただなかにいるわけではないが、戦争が終わった場所にいるわけでもない。
このとき、「召集令状」に対する戦争への召集への、応答としてのその発話は、「あっ」しかないようにも思うのだ。よかった、でも、わるかった、でもない。「あっ」と叫ぶしかない。意味でも非意味でもない。意志でも感情でもない。言葉でもないし、内面でもない。叫びでもない。が、メッセージでもない。独語でも語りでも話でもない。「あっ」
この歌に関して島内景二さんがこんな解説をしている。
歴史的仮名遣いでは、促音の「っ」(小さな「っ」)も「つ」と大きく表記するのが原則。だから、「あっあかねさす」という例外的な表記には、「あっ」と叫ばずにはいられない。破格・破調の大波乱の歌である。
(島内景二『塚本邦雄の宇宙』)
歴史的仮名遣いで「つ」と表記すべきところを、《わざわざ》「っ」と叫ぶように表記されたという。「あっ」。
この「あっ」の位相は、どこにあるんだろう。というよりも、「あっ」を位置づけられることができるのだろうか。しかし、歴史には、たぶん、おおくの位置づけられなかった「あっ」がある。そして、その「あっ」は「あっ」でしかないのに、ひとの生き死ににおおきく関わっているし、いく。
「あっ」って、なんだろう。戦争、も。
戦争が廊下の奥に立つてゐたころのわすれがたみなに殺す 塚本邦雄
(「序数歌集解題」『塚本邦雄の宇宙』思潮社・2005年 所収)