2019年7月1日月曜日

DAZZLEHAIKU35[榎本 亨]  渡邉美保



  飛んでくる蠅に大らか烏賊を干す     榎本 亨


 海辺の町の「烏賊を干す」というイメージは鮮やかだ。
 ずらりと一列に干された烏賊の白い身が光り、その向こうに青い空と青い海が広がっている。潮風がときおり、干された烏賊を揺らす。
 そこへ、匂いを嗅ぎつけてか、蠅が飛んでくる。不衛生ということで、嫌われることの多い蠅であるが、ここでは多分、想定内の許容範囲。いちいち気にしてはいられないのだ。
 烏賊を干す作業、飛んでくる蠅、その一部始終を見ている作者の眼差しもまた大らかで、一句一章の伸びやかな景に懐かしさを覚える。
 衛生管理の行き届いた設備の中、機械的に乾燥させた干し烏賊よりは、少々蠅がとまろうとも、天日を浴び、潮風に吹かれた烏賊の方が断然美味しいと思う。

〈季刊『なんぢゃ』[夏]45号(2019年)所収〉


2019年5月17日金曜日

DAZZLEHAIKU34[市川薹子]  渡邉美保



  戸袋の鳥の巣壊したる夕べ  市川薹子
  
 近所に、いつも二階の雨戸が閉まっている家がある。その庭には大きな柿の木があり、小鳥たちの格好のたまり場になっている。
 二階のベランダから、その木に来る小鳥を見るのが、楽しみでもある。春の終わり頃、雨戸の辺りがことに騒がしくなる。その開かずの雨戸の戸袋に椋鳥が巣を作っているのだ。仲間の椋鳥も大勢やってきて騒ぐ。
 親鳥と思われる二羽が、ひっきりなしに餌を運んでいる。親鳥が戸袋の隙間に身を入れるやいなや、雛鳥たちの一斉に囃し立てるような鳴き声がきこえる。親鳥が出ていくとたちまちシーンとなる。しばらくすると、別の一羽が戸袋に入り、再びピチュピチュざわざわ。その繰り返しが続く。親はたいへんである。
 親鳥二羽のうち、一羽は慎重派で、餌を運んできてもすぐに巣に入らないで、一旦、近くの屋根や庇に着地、周りを見回して安全確認後、巣に入る。しかし別の一羽は、何の用心もせず、さっと来てすっと巣に入る。慎重派と大胆派、どちらが母鳥なのか、興味深い。
 掲句、戸袋の鳥の巣を壊したという、ただそれだけが述べられている。しかし、その言葉には、作者の忸怩たる思いが滲んでいるように思う。これから命を育もうとする鳥の営為を阻むことは決して作者の本意ではない。できればそういうことはしたくないのだ。しかし、日常的に使用する戸袋であれば、鳥の巣を看過することはできない。悲しい「夕べ」が暮れていく。


〈句集『たう』(2017年/ふらんす堂)所収〉

2019年4月9日火曜日

DAZZLEHAIKU33[福田鬼晶] 渡邉美保



  放哉忌うみ凪げば凪ぐ寂しさも    福田鬼晶     

 尾崎放哉は、大正十五年(1926年)四月七日小豆島の庵で息を引取った。享年四十二歳。
 四月初旬の頃の天候は、不安定である。
 風が吹き、海が荒れている日もあれば、陽光が降りそそぐ、穏やかな日もある。
 掲句、作者が今見ている海は、穏やかに凪いでいる。
 凪いだ海を見ていると、心もおだやかになるがその反面、凪いでいることが寂しく思えてくるという。
 その寂しさに、作者の放哉への思いの深さが感じられる。

 また、海が「うみ」と平仮名表記されることによって、「うみ」は眼前の海であると同時に、かつて晦冥の世界であり死者の国でもあったという「うみ」も想起される。
 凪いだ海を見ている寂しさは、放哉にもあるのではないか。
 作者が思う放哉も「うみ」の凪を見ながら寂しさを募らせているのではないのだろうか。と思われてくる一句だ。

〈句集『リュウグウノツカイ』(2018年/ふらんす堂)所収〉

2019年3月21日木曜日

DAZZLEHAIKU32[嵯峨根鈴子] 渡邉美保



  もう人にもどれぬ春の葱畑     嵯峨根鈴子     

   葱畑で主人公は何になっていたのだろう。どうして人に戻れなくなったのだろう。葱畑で、主人公に何があったのか。
 つぎつぎと疑問が膨らむ。
 春の葱畑。そこは駘蕩として、葱も長けていることだろう。畑土と葱の混じり合う匂いがする。葱の一種独特の匂いは、どこか官能的でさえある。その中で、人ではない何者かに変身した主人公の姿を想像する。
 「もう人にもどれぬ」というのっぴきならぬ情況。
 「ああ、どうしよう」という困惑や後悔。しかしそこには、「もう人に戻りたくない」(戻れなくてもいい)という願望も含まれていそうな気がする。
 春の葱畑には、誰も覗くことの出来ない深い愉楽の世界が潜んでいるに違いない。

 葱畑に行ったきり帰ってこなくなった人が、どこかにいたのではないかと、ふと思う。
  
〈句集『ラストシーン』(2016邑書林)所収〉

2019年2月22日金曜日

DAZZLEHAIKU31[柘植史子] 渡邉美保


  冴え返る紙のコップに水摑み     柘植史子     

  水の中に手を入れ、手のひらを思いっきり広げ、エイヤッと摑んでも水は逃げてしまう。当然のことながら水は摑めない。それでも水を摑みたいという願望がどこかにある。
掲句の「水摑み」に妙に納得させられた。紙のコップに入った水は摑めるのだ。
 水の入った紙コップを持った時の、あの危うい感じが指先に甦る。そしてその冷たい感触。まさしく「水摑み」だと共感する。
 暖かくなり始めた早春の頃、折からの寒さがぶり返してきて、気持ちの上でも寒くなる感じを「水摑み」と重ね合わせられている巧みさに惹かれる。
 また、紙コップを使う場面は、日常的なものでなく、何かの集まりなのかもしれない。そんな集まりの中での、ある種の疎外感や寂寥感をも感じられる一句だと思う。

〈句集『雨の梯子』(2018年/ふらんす堂)所収〉

2019年1月22日火曜日

DAZZLEHAIKU30[岡田一実] 渡邉美保



 夜の森や濡れてマフラー置かれある  岡田一実     

   これは確かにどこかで〈見た〉景色です。
   現実に、想念に〈見た〉景色です。


と「あとがき」にある。掲句を読むと、作者が〈見た〉景色を作者の眼を通して見ているような不思議な感覚になる。
 夜という時間、森という場所、濡れたマフラー。
 ただこれだけの情報から私たちは、それぞれが自分の記憶を頼りに物語を作り始める。
 そんな仕掛けが施されているかのようだ。
 寒い夜の森の中。切株の上に置かれた一本のマフラー。
 月の光に照らされて、マフラーはまるで生き物のように、しっとりと息づいている。現実から遠く離れたこの光景に、何故か懐かしさがこみ上げてくる。
 誰もいない森の中で、動物たちもこのマフラーを首に巻いて遊んだのだろうか。
 夜の森の湿った空気の中でマフラーは濡れている。その濡れたマフラーを私も首に巻いてみる。ひやりとする感触。巻いた瞬間、マフラーと同時に私も消えてしまった。そんな夢をみた。

〈句集『記憶における沼とその他の在処』(2017年/青磁社)所収〉