2015年11月25日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 26[高橋淡路女]/ 依光陽子




掃きとるや落葉にまじる石の音   高橋淡路女


落葉を掃いている人がいる。作者か他の誰か。静かに耳を澄ませて句を読んでみる。箒の先が地面を軽く引掻く音、乾びた落葉と落葉がぶつかりながら立てる音、それらの軽い音の中にカツンと硬い石の音。

落葉を掃いていて石が混じっているというモチーフは珍しくない。山ほどある。しかし「掃きとるや」の上五が書けそうで書けない。「掃く」と「掃きとる」は全く違う。塵取りにザッとのった一瞬の音の混在を作者は書分けているのだ。音だけではない。石は重く落葉の下に隠れて、掃きとっている人の目には映らない。視覚的には落葉が見えているだけだが、音でその下に石があるのだとわかる。落葉の一つ一つの在り様まで見えてくる。

他にも、
冬ざれやものを言ひしは籠の鳥>籠の鳥の声がした前後に何も音のない空間。心の中にまで及ぶ「冬ざれ」という季題の効果。<白菊のまさしくかをる月夜かな>この「まさしく」が白菊の凛とした白と芳香をこれ以上ない程に表している。<渋柿のつれなき色にみのりけり>「つれなき色」などという言葉、どこから出て来るのだろう。心底驚かされる。

高橋淡路女は明治23年神戸に生まれたが12歳ごろ東京佃島に転居。大正2年に結婚したものの翌年夫と死別している。本格的な作句は大正5年から。「ホトトギス」を経て、大正14年に飯田蛇笏に師事。「雲母」「駒草」(阿部みどり女主宰)に拠る。掲句を含む第一句集『梶の葉』は明治45年から昭和11年までの作品のうち蛇笏選870句を収録する。「○○女」という俳号は月並で、名前からのインパクトが薄いという点で淡路女は損をしていると思う。870句の打率は決して低くない。蛇笏にして「その実作に於ける芸術価値といふものが、幾多彼女等の追随をゆるさぬ、独自な輝きを示すところがある」(『梶の葉』序)と言わしめただけの内容である。

序文における蛇笏の力の入れようを、もう少し引いておこう。
蛇笏は故人女流俳家二三者として千代女、園女、多代女の句を引用した後にこう続ける。

要するに彼女等の諸作が持つ薄手のクラシカルな芸術味に比し、これを咀嚼し、而してこれを滲透し、より高踏的に、若干の近代味をもつてコンデンスされた俳句精神の顕揚が、著しく淡路女君のそれを高所におくことを瞭かにすると思ふのである。 
(句集『梶の葉』序 飯田蛇笏)

また、同世代の女流に対しても、たとえ天稟の才能があっても時に地に足が着かない憾みを感じていたという蛇笏が、淡路女については、その自覚的矜持を深く秘めながら女性的常識を失うことなく「実に生命的な、うつくしくして厳かなるものであることを反復せなければならない」と賛辞している。

淡路女の句は一読、平明淡白だが、読むほどに情感の豊かさ、言葉の抽斗の多さと的確さ、素材の掴み方に目を瞠る。彼女の巧みな言葉遣いにかかるとなんでもない景に光が与えられる。
俳句とは何かと考えるとき、淡路女の句に学ぶところは多い。


春寒しかたへの人の立ち去れば 
花曇り別るる人と歩きけり 
かんばせのあはれに若し古雛 
まはりやむ色ほどけつつ風車 
居ながらに雲雀野を見る住ひかな 
炎天を一人悲しく歩きけり 
風鈴に何処へも行かず暮しけり 
ふくよかに屍の麗はしき金魚かな 
むかし業平といふ男ありけり燕子花 
家出れば家を忘れぬ秋の風 
うきことを身一つに泣く砧かな 
紫陽花の色に咲きける花火かな 
草市やついて来りし男の子 
ぽつとりと浮く日輪や冬の水 
冬の蠅追へばものうく飛びにけり


(『梶の葉』昭和12年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年11月13日金曜日

黄金をたたく27  [西東三鬼]  / 北川美美



水枕ガバリと寒い海がある  西東三鬼

 出世作、そして三鬼が俳句に開眼した有名句である。読むほどに大胆。三鬼句の魅力は直観の鋭さと予測できない大雑把な感覚表現にあると思う。

 「水枕」と「寒い海」の取り合わせが相当衝撃な上、「ガバリ」が飛びぬけて唐突だ。水が大きな音をたてる擬声音、突然物事が起きる擬態音のどちらにもとれ、どれがどちらでも佳いことのように豪快で大袈裟な感覚が残る。加えてカタカナ表記が蛍光点滅して見えてくる。(初出の京大俳句投句時は「がばり」である。)
  
  リアリズムとはなんぞ葡萄酸つぱけれ (全句集・拾遺)

 三鬼ひいては新興俳句が文学上のリアルについて意欲的に考察した。外来語を多用した三鬼だが、副詞的用法のカタカナ表記が生き生きと臨場感ある表現として効いている句は後世にもまだ掲句のみかもしれない。

三鬼が積極的に関わった「新興俳句運動」は モダニズム、ダダイズム、ニヒリズムとも合流し反伝統を旗印にし、時を越え、蛙が飛び込む水の音さえ「ガバリ」と聞えてくる。

 ウルトラ怪獣として命名されたダダ、ブルトンは三鬼句には登場して来ないにしても掲句はバルタン星人の作句と思える衝撃が今もある。

以上 面115号(2013年4月)から加筆転載
<昭和11 年作の句 『旗』所収 西東三鬼全句集 沖積舎>

2015年11月11日水曜日

 目はまるで手のように言葉に触れる 25[中尾白雨]/ 依光陽子




ふる雪にみなちがふことおもひゐる    中尾白雨


雪が降っている。次々と現れては目の前を落ちてゆく雪片。まっすぐ落ち、風に撓り、枝に懸る。大きな雪片。小さな雪片。光。翳。

掲句は「療養所の人々」と前書がある。療養所の箱の中の、更に一つ部屋の中の人々。四角い窓の外に雪片の絶え間ない運動が見えているだろう。窓辺に立って見ている人はガウンのようなものを羽織っているだろうか。重ね着とはいえ痩せた身体は寒々としているだろう。ベッドに横たわって天井を見つめている人もいるだろう。瞼を閉じている人もいるだろう。世界は白く、ベッドのパイプも白く、人々の着衣も白く、後姿も白いことだろう。

雪が降っている。
その日、その時の雪を見ている人。その誰もが違うことを思っているだろう。それはそうだ。人それぞれ違うのだから。だが療養所に入っている人の想いは、決して明るいものとは限るまい。雪のひとひらに命を重ねただろうか。雪の美しさに永遠を思っただろうか。しかし掲句は単にその事実を述べているだけではない。療養所の人々の「おもひ」に引きつけながら、彼等の姿を突きつけてくる。雪の降るある日の白々とした空間と静寂を。命ある者らは動かず、命なき雪のみが動き続ける、静と動の、生と死の逆転を。


中尾白雨は明治44年生まれ。明治学院中学部卒業後、教員となるが病のため昭和5年に退職。昭和7年より作句開始。わずか2年後に第三回馬酔木賞を受賞。昭和11年11月26日喀血により死去した。享年25歳。掲句所収の『中尾白雨句集』は昭和8年から昭和11年までの三年間の作品と推測され(『現代俳句大系』解説に拠る)、白雨没後に刊行された。序文はなく、一句目の「妹に日夜のみとりを感謝しつつ」という前書のある<汝が吊りし蚊帳のみどりにふれにけり>に始まる184句全て病床俳句と思われる。


水原秋櫻子の跋文を引く。

妹さんの見舞の手紙を受け、その返事として詠んだといふ前書のある、 
紫陽花に手鏡おもく病むと知れよ 

といふ句は僕の特に感心してゐる句だが、この手鏡は無聊さに折々顔を見る用をしてゐるのだらうと思つてゐた。ところがある日訪ねて見ると、白雨君はその手鏡を持つてゐて、それを顔の上にかざし、庭の景色をながめてゐるのであつた。仰臥ばかりつづけてゐる人の哀しい発明で、僕はつくづく気の毒に思つたことがあつた。
 
(『中尾白雨句集』跋文「白雨君のこと」水原秋櫻子)

庭のものを見るために身体を起こすのではなく手鏡を使う。なんという創作熱だろう。跋文によると、白雨は相談相手もなく独り作句し、その度に熱を出し苦しんでいたという。彼の作品は多くの病床俳句の作者たちの尊敬を集めた。そしてそれはさぞや大きな励ましとなったことであろう。石田波郷は白雨に手向け、次の言葉を残している。「僕の心に俳句の住まふ限り、而してこの国に俳句の滅びざる限り静謐なる精神の華の不易なるすがたをのこすであらう。僕は僕なりに、莞爾として、中尾白雨氏の壮絶の死を送るものである」(「馬酔木」昭和12年2月号)

てのひらにのせるとうち透けてゆく雪片のような透明な詩魂だと思った。

手花火の香のきこえたるふしどかな 
朝顔はひといろなれどよく咲きぬ 
この冬を花菜さくてう君が居は (病友H君へ) 
病み耐へてをさなごころや金魚飼ふ 
朝顔の鉢のかづあるついりかな 
紫陽花に胸冷しつつわれは生く 
寒燈下脈奔流のごとく搏ちぬ 
薔薇培り詩をつくりみな若きひとよ 
荒園に落葉とぶ日ぞ病みおもる 
ひややかなひとたまゆらを菊に佇つ

(『中尾白雨句集』昭和12年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)

2015年11月5日木曜日

人外句境 25 [岡田幸生] / 佐藤りえ


春の簞笥の口あけている  岡田幸生

春になったら更衣だ。かさばる冬物たちが取り出され、 簞笥の引き出しは束の間空洞化を許される。

あるいは、単に慌てた主人が閉じ忘れた引き出しなのかもしれない。

またあるいは、引越の際、引き出しを外して先に運び、最後の大物として担ぎ出されるのを待っている、 簞笥本体の姿を描写しているのかもしれない。

春の簞笥が「口」をあけているのは、そういうことなのではないか。

主に不動の、壁の一部ともいえる、いつでもそこにいてくれる家具としての簞笥への安心感が意識されずとも我々にはある、と思う。

だからなのか、この簞笥はねむっている、とも思う。束の間の午睡。人気のない春の部屋で、 簞笥が眠っていてくれる。

 春雲の詰まったような簞笥より妻の下着を探しておりぬ  吉川宏志『海雨』

春と簞笥、という二つのキーワードから思い出した短歌を添える。こちらは手術、入院した妻の着替えを探す夫の歌。「春雲の詰まったような」とは、はにかみと戸惑いをなんとも上品に表している。「妻の下着」という不可解が、 簞笥のなかにひねもすのたり、と詰まっていたのである。

「 簞笥」と春がかように響きあう存在であることを、ふたつの詩歌が教えてくれる。

〈『無伴奏』ずっと三時/2015〉

2015年11月4日水曜日

目はまるで手のように言葉に触れる 24[松藤夏山]/ 依光陽子




水鳥の水尾引き捨てて飛びにけり 松藤夏山


水鳥は冬、水上にいる鳥の総称。北方から越冬のために渡って来た鳥だ。春になって生殖地である北方へ再び帰るまでの一冬を水の上で躰を休める。大抵は頸を背の羽根に埋めて浮き寝しているが、あたたかな日には水面に線を描きながら泳いだり、時には鳥同士の小競り合いも。そんな冬の光の中に繰り広げられる鳥たちの世界は見ていて飽きることはない。

掲句は、水から別の水へ飛び移るところだろうか。一旦水を離れて空へ移る。空を飛ぶという鳥の本分を掲句は改めて読者に確認させる。水鳥を観て和むのは人間の勝手で、水鳥は野生の厳しさを忘れているわけではない。「引き捨てて」の措辞に現されている。射貫くほどにモノを見て摑んだ言葉だ。

松藤夏山は明治23年生まれ。大正5年ごろに俳句を始め、昭和7年「ホトトギス」同人となる。虚子提唱の花鳥諷詠の忠実な使徒でありつつ、虚子が携わった歳時記の編集にあたり手足となって働いたという。手元にある改造社版『俳諧歳時記 春之部』を開いてみたところ、解説に当った者のリスト33名の中に夏山の名も確かにあった。

君は命がけで俳句を作つた。俳句は君にとつては、決して趣味や道楽ではなかつた。句会に出ても、制限の句数だけはとにかく耳を揃へるなどといふ遊戯的なやり方は、絶対に君の採らざるところであつた。苟も君が発表するほどのものは、悉く君の肺腑から絞られる、生き血の垂れるやうなもののみであつたといつていい。
(『夏山句集』序文より 富安風生)

『夏山句集』は著者32歳から病没する45歳までの13年間の588句を収録、作者の死後上梓された。虚子は次の弔句をしたためている。<この寒さにくみもせずに逝かれけん 虚子>。「寡黙ではあつたけれども、その頬辺には、いつも柔かく温かい微笑をたたへてゐた。(富安風生)」という夏山の人柄が偲ばれる一句だ。夏山の句は一読、派手さからは遠く静かな句ばかりだが、読み込むほどにじわじわと沁みてくる。何物もをいとおしむような包容力、十七音の中のたっぷりとした“間”、衒いのない言葉遣い。

花鳥諷詠句でも詠み手の姿が見えてくるのが俳句。そんなことを考えた句集だった。

霧雨の雫重たや桜草
傾きて蠟燭高き燈籠かな
草刈女帰るや蓮を手折り持ち
洗ひ障子赤のまんまに置きにけり
初冬やここに移して椅子に倚る
封切れば溢れんとするカルタかな
鶸の群小鳥の網をそれにけり
案内図に衝羽根の実を添へてくれし
大漁の鯨によごれ銚子町
足どりに春を惜しめる情(こころ)あり
立葵声をしぼりて軍鶏啼きぬ
暖かき日となりにける炬燵かな
同じ日が毎日来る柿の花
風邪の子に着せも着せたる紐の数
蛆虫のちむまちむまと急ぐかな

(『夏山句集』昭和12年刊。『現代俳句大系 第2巻』所収)


2015年11月1日日曜日

黄金をたたく26  [矢上新八]  / 北川美美



行秋やこないなとこに人の家  矢上新八

過ぎ去って行く秋の景に、人家をみつけた。「こないなとこ」の大阪・京都あたりの関西弁が面白い。はんなりとした響きがある。しかし、繰り返し読み続けると、移り変わる季節、その次に世の中の殺伐とした全体の景が浮かび、その風景の中にいる「こないな」を使う人が貴族的階級の人なのではないか、という想像が働く。河原、人里離れた山奥、船着き場の片隅、はたまた工事現場、ゴミ置き場や不法地帯、ビル屋上、地下の秘密基地、ツリーハウス、テントなどもそれにあたるだろう。もしかしたら格差社会の底辺かもしれない人たちの様子に驚き、生きることのたくましさに感心し、同じ暮らしは出来ない、と腹をくくっているようにも読める。

句集のところどころに話し言葉ともいえる大阪弁が駆使されている。NHK時代劇「銀二貫」朝ドラ「マッサン」で久々に大阪弁を身近に感じられたばかりだったが、作者は大阪弁での句を30年以上も作っておられ、生れも大阪北区の商家のお生まれである。

身一つがどないもならん秋の暮
なんやはじまる山懐の笛太鼓
行く夏に捨るもんほって昼寝かな

「どないもならん」「なんや」「ほるもん」「むさんこ」「よおさん」・・・やわらかいだけでなく、どこか女性的な響きがある。調べると、大阪弁の中には船場言葉といわれる商人の言葉があり、京都の女言葉が交じり、商いや取引で必要な丁寧・上品さがあるといわれている。 助詞の「が」「を」が省略され、例えば「目が痛い」は、「目エ痛い」となる。句のイントネーションは、もしかして「秋の暮」が「アレ」になるべきなのか考えた。いや違う、「身一つ」の句は、船場言葉では「身イひとつ」で五音となるべきだろうが「が」が入り「身一つが」として「どないもならん」に重きがかかっている。他では代用が効かない大阪言葉を観念として駆使するのは簡単にはいかないだろう。認知度の高い大阪弁、それもある程度の階級意識が高いといわれている船場言葉だからこその世界を創り出している。 

ちなみにインターネットの質問箱検索で大阪弁の「こない」を検索してみると、現在、四十代以下は使用していないという回答が多く寄せられていた。「こないなとこ」は、もはや消えてゆく方言に分類され、むしろ、古典表現になるのかもしれない。


掲句は住む世界が異なれば言葉も異なった大阪弁により不思議な物語を紡ぎ出す。


( 作者は巻末に「方言の索引」として「大阪ことば辞典」他を参照に解説をつけていらっしゃる。何処にも船場言葉とは記載していない。)


<「浪華」2015書肆麒麟所収>