ラベル 楢崎進弘 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 楢崎進弘 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2017年8月30日水曜日

続フシギな短詩187[北野岸柳]/柳本々々


  歳時記の中で密会してみよう  北野岸柳

飯島章友さんがたしかそう書かれていたのだと思うのだが、川柳でも季語は使われることはあるのだけれど、川柳においては季語は〈私的(プライベート)〉に活用されるのだという。だから俳句にとって季語は公的でありオフィシャルなものなのだが、川柳においては季語はアンオフィシャルなものなのだ。この指摘をきいたとき、わたしは、なるほどなあ、と思った。俳句と川柳では、季語にたいする態度がちがうということ。

変な話なのだが、もし川柳に私性というものがあるのだとするならば、それは〈私的活用〉という意味での〈私性〉なのではないか。

私が今すぐ思いつく季語の入った川柳にこんな句がある。いちど取り上げているけれど。

  わけあってバナナの皮を持ち歩く  楢崎進弘

「バナナ」が夏の季語である。わけあって「季語」を持ち歩いている語り手。この句が、川柳の季語に対する態度をとてもよくあらわしているのではないかと思う。「わけあって」と「季語」を所持している理由はプライヴェート(私秘的)に隠されている。おまえには関係がない、と。こうして季語は、《私的活用》されている。

長い前置きになってしまったが、岸柳さんの掲句をみてみよう。「歳時記の中で密会してみよう」。これはまさしく〈季語が展開する場〉を「密会」の場として〈私的活用〉する句と言えないだろうか。俳句で、密会ということばを使うのは危うい。たぶん、俳句で「密会」ということばを使うと、季語の「歳時記性」のような公共性が保てないのではないかとおもう。ところが川柳ではよく「好き」や「逢う」を使う。こうした偏りのある〈私的(プライヴェート)」な動詞を使っていいのが川柳である。だから、「密会」も使う。

  川柳は詩になりそうもないどんな言葉でも使い、季語に束縛されない。この自由があるかぎり、どんな不可能な、不気味な、奇妙な、あいまいな場所にも踏み込んでいくことができる
  (樋口由紀子『MANO』4号)

だからそうした公共的な場所である「歳時記」も密会の場所として私的活用してしまう。もしかしたら川柳の眼目というのは、このあらゆるものの〈私的活用〉にあるのかもしれない。以前、取り上げたこんな句を思い出してみる。

  非常口セロハンテープで止め直す  樋口由紀子

  非常口の緑の人と森へゆく  なかはられいこ

「非常口」は公共性のあるものだが、つまり決して私的活用されてはならないものだが(私的活用されては非常口にならない。それでは、〈勝手口〉である)、これら句では〈私的活用〉されている。セロハンテープで止め直すのも私的活用だし(そんな非力な耐久性では公共性は守れない)、非常口の緑の人と森へいってしまうのも〈私的活用〉である(緑の人に逃げられては非常口を指示する記号がなくなるので公共的に困る)。

「歳時記の中で密会してみよう」という〈公共性〉と〈私秘性〉の出会いそのものをあらわしたような句は、まさにこの俳句と川柳のジャンルの違いそのものをあらわしているようにも、おもう。

ただ問題がある。川柳は私的活用が非常にうまいのだが、だんだん〈私尽くし〉のようになってきて、〈私地獄〉の世界になってゆくのだ。私がゲシュタルト崩壊してゆくというか。だから、こんな、句がある。

  何処までが私で何処までが鬼で  北野岸柳

          (『動詞別 川柳秀句集「かもしか篇」』かもしか川柳社・1999年 所収)

2017年8月15日火曜日

続フシギな短詩154[楢崎進弘]/柳本々々


  次の世がメロンパンでもかまわない  楢崎進弘

メロン、ってなんなんだろうな、っておもう。
いや、そうじゃなくって、川柳にとってメロンってなんだろうな、とおもう。

たとえば現代川柳にはこんなメロンの句がある。

  こっそりとエステサロンへ行くメロン  赤松ますみ

  メロンパンだって内面と外面  オカダキキ
   (『川柳文学コロキュウム』77号、2017年7月)

赤松さんの句には「こっそりと」の部分にメロンがふだん隠している内面がある。メロンは「エステサロンへ行」きたいほどになにかを恥ずかしがっている。恥ずかしがるのは、メロンに内面があるからだ。

だから、オカダさんの句ではそのまま「メロンパンだって内面と外面」と書かれている。メロンパンの多層構造をこんなふうに表現したのかもしれないけれど、「内面」と書かれることによってあたかもメロンパンに感情があるように描かれている。

こんなふうに川柳のなかのメロンはとてもていねいに扱われている。内面が描かれるほどに。

楢崎さんの掲句。「次の世がメロンパンでもかまわない」と言い切っている。一見すると、捨て鉢のようにも見える。もう次の世なんてどうなったっていいと。今回のこの世をがんばりますと。でも川柳の枠組みにしてみれば、メロンには内面があり、ていねいにあつかわれるのだから、もし次の世がメロンパンだったとしても、私は川柳をやっていて、ちゃんとメロンパンのことをわかっているのだから、安心しているのです、と受け取ることだってできる。川柳をする、ということは、メロンと向き合うということでもあるのだ。

  苦しくていとこんにゃくを身にまとう  楢崎進弘

  彼方より飛来するもの茄子を焼く  〃

だから。

楢崎さんの川柳においてはとっても大切な人生のシーンにおいて、食べ物が飛来する。「彼方より飛来するもの茄子を焼く」と書かれているが、実は人生の大切な場面にそのつどそのつど飛来しているのは、メロンパン、いとこんにゃく、茄子などの食べ物たちだ。

川柳は、食べ物に、食べ物以外の、なにかを見出そうとしている。それがなんなのかはわたしにもわからない。わからないから川柳のことを考え続けているのだが、でもどうして川柳は食べ物になにかを見出そうとしているのだろう。わかったひとはぜひこのフシギな短詩のコーナーにお便りください。あてさきはないんですが。

  わけあってバナナの皮を持ち歩く  楢崎進弘

          (「8月」『あざみエージェントオリジナルカレンダー』2017年 所収)