-BLOG俳句新空間‐編集による日替詩歌鑑賞
今までの執筆者:竹岡一郎・仮屋賢一・青山茂根・黒岩徳将・今泉礼奈・佐藤りえ・北川美美・依光陽子・大塚凱・宮﨑莉々香・柳本々々・渡邉美保
2017年9月17日日曜日
超不思議な短詩221[井上法子]/柳本々々
煮えたぎる鍋を見すえて だいじょうぶ これは永遠でないほうの火 井上法子
短詩のなかで〈鍋〉は〈鏡〉のようにとても大きな意味を持っている。
わが思ふこと夫や子にかかはらず大鍋に温かきものを煮ながら 石川不二子
「大鍋に温か」いものを煮ながらわたしの「思」うことがせり上がってくる。わたしの「思」うことは「夫や子にかか」わらない〈わたし〉のことだ。煮る、という行為は、時間をかけて物を少しずつ変成させていく行為だ。それが、内面の醸成とも関わってくる。そう考えるとちょっとこわいことだが、妻は「夫や子」のために料理をつくりながら、「夫や子」以外の〈何か〉を考えている。料理は、短歌によって、〈奉仕〉されえない思いの叙述になる。
短詩において、ひとは(というよりも〈女性主体〉は)、鍋の前で、食べ物ではなく、みずからの〈内面〉に降りてゆく。
茹でる、だが、こんな歌もある。
十六夜の寸胴鍋にふかぶかとくらげを茹でて君が恋しい 鯨井可菜子
「くらげを茹で」るという、料理に一見似つかわしくない表現が採用されることで、「君」への「恋」しさが不思議な感情としてあらわれる。寸胴鍋にくらげが「ふかぶかと」漂う海中の幻景が一瞬あらわれながらも、「くらげを茹で」これから食べようとしているのだという激しい感情も同時にここにはたたえられている。川上弘美のこんな一節を思い出す。ふわふわしたものを、煮ること。食べること。
長い間の片思いのひとから、「好きなひとができました。これから一生そのひととしあわせに暮らします」という葉書がきた。泣きながら、いちにち花の種を蒔いた。途中少しの間気を失い、それからいくらか元気が出たので、夕飯には蛸を煮た。
(川上弘美『椰子・椰子』)
石川不二子さんの歌は1976年刊行『牧歌』からだが、1960年代に定着した典型としての「専業主婦」像=「良妻賢母」像が崩壊しはじめる1970年代後半からの歴史状況とあわせて考えることもできる。フェミニズム全盛の時代だ。「妻」ではなく、料理をしながら、「妻」の外を志向すること。
そうした〈外〉への意識はこんな川柳にも見いだすことができる。
ことばにはならないものが茹で上がる 佐藤幸子
料理をしながら、料理に奉仕するのではなく、「ことばにはならないもの」としての不気味な外に抜けてゆくこと。わたしのイメージ、料理のイメージが問い直される。
それが2010年代の鯨井さんの短歌では「寸胴鍋」「ふかぶか」「くらげ」と、〈外〉への意識ではなく、〈外〉への意識が深められた〈下〉への意識としてあらわれてくる。鍋は「専業主婦」的女性像の外に抜けるための装置ではなく、自らのひととしての内面の深度をさぐる装置になっている。
ちょっとかなり長い遠回りになってしまったが、井上さんの掲出歌をみてみよう。
井上さんの〈鍋〉の歌で大事なのは、〈外〉や〈下〉への意識ではなく、世界の基盤=〈根〉への意識に傾いていることだ。料理をすることが、〈永遠の火〉という世界の生成に関わるものとリンクしていく。
「だいじょうぶ」という発話に注意したい。この歌は、〈常にだいじょうぶじゃない〉世界におかれており、「永遠の火」におびやかされている。もちろん、「永遠の火」におびやかされる〈常にだいじょうぶじゃない〉世界と言えば、わたしたちは2011年の福島第一原発水素爆発を思い出す。ただ井上さんの歌は、それより、もっと、根底の、根深い火のようにも、思える。
主体の前に用意された「鍋」は、「わが思ふこと」という個人の内面に降りてゆく装置から、だんだんと、世界の根っこの危機を測位する装置へと変わっていった。
つまり、女性/男性関わらず、わたしたちは「鍋」の「火」を通して、世界の危機にリンクしてしまうような状況が現在ある。2017年は、北朝鮮からの弾道ミサイル発射によりJアラートが鳴った年として記憶されるだろうが、「火」はわたしたちをもう〈外〉へ連れ出すのではなく、〈外〉からわたしたちを滅ぼすためのメタファーとして機能しはじめるのでははないか。
火が、外から、やってくる。
夏の鍋なべて煮くずれ 面影はいつだってこわいんだ夏の鍋 井上法子
(『桜前線開架宣言』左右社・2015年 所収)
2015年4月14日火曜日
人外句境 13 [川上弘美] / 佐藤りえ
人魚恋し夜の雷(いかづち)聞きをれば 川上弘美
「人魚」は季語ではないが、ところで人魚にふさわしい季節はいつだろうか、と考えると、やはり夏か…と思うところがある。
春先のぱやぱやとした海に人魚が浮かぶ情景にも趣がないでもない。
秋の海から枯葉にまみれた人魚が顔を出すのも、思い浮かべることはできる。
冬の凍てつく海に人魚はどうしているだろうか…などと考えるのもまた一興ではある。
しかしやはり、人魚には夏、ではなかろうか。
むっとした夜気にまぎれた生臭さ。夏の嵐のあと、海岸に打ち上げられた半人半魚を見つけたら…と、妄想は果てなく続く。
掲句では夜の雷を聞いて人魚を恋しがる、という景が詠まれている。
川上弘美には人魚を題材にした短編がある。文庫『神様』所収の「離さない」がそれで、登場人物エノモトさんが南方へ旅をした際に「まぐろよりは小さく、鯛よりは大きい」人魚を偶然見つけ、自宅へ持ち帰って(連れ帰って?)しまう話である。
この作品中では、人魚は人をひきつけ、自分の側から離れられなくさせる能力を有したものとして描かれている。浴室に人魚を飼ったエノモトさんは部屋から出られなくなり、危機感を抱いた彼から人魚を預かった「私」も同じように、会社を休み、人魚のいる自宅に引きこもるようになる。
ついに意を決した二人が人魚を海に帰すと、人魚ははじめて口を開き「離さない」と呟く…。
掲句を読んでまずはこの話を思い出した。異形の者のなかでも半身に人の形を持つ人魚は、それゆえに近しさと悩ましさを併せ持った存在である。
ローレライしかり、人魚姫しかり、共存のかなわぬ間柄だからこそ、惹かれてしまうという矛盾。あやうい距離感が、人魚の魅力の一面だと思う。
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