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2018年1月26日金曜日

DAZZLEHAIKU18[山口昭男]渡邉美保



  今をゆく大きな雲や年酒酌む  山口昭男

新しい年が巡ってきたことを寿ぐお酒、年酒を酌む景はさまざまだ。親族一同集まっての賑やかな年酒もあれば、少人数でしみじみ酌み交わす酒もある。
掲句では、年酒を酌む様子は一切述べられていないけれど、新年のめでたさや華やかさとは別の、思索的で静かな雰囲気が感じられる。
「今をゆく大きな雲」とは何なのか。
新年を迎えたからといっても、本質的にはなにも変わらない現実。私たちは常に「今をゆく大きな雲」の下にいるのかもしれない。
大きな雲は、虹色を帯びた瑞祥の雲の場合もあるだろう。また、すでに逝ってしまったかけがえのない人の面影を大きな雲に見ている場合もあるだろう。その時々の個人的な事情や心のありよう、時代状況によって、変わっていく大きな雲。
掲句からは、自分にとっての「今をゆく大きな雲」とは何かを問われているような気がする。これから先、年酒を酌むたびに、その時その時の「今をゆく大きな雲」について考えることだろう。


〈句集『讀本』(ふらんす堂/2011年)所収〉

2017年10月5日木曜日

DAZZLEHAIKU12[山口昭男]渡邉美保



   鎌の刃に露草の花のつてゐる   山口昭男


鎌の刃と聞くとなんとなく心がざわめく。三日月のような湾曲した形と、刃はつねに自分に向かってくるという怖さがある。だが本来、鎌は、草を刈ったり、作物を収穫するために日常的に用いられる農具である。刈った草が刃の上に乗り、そのまま一緒に運ばれて手元まで寄って来るので、効率よく草刈をすることができるという。

一方、露草は道端や畑にはえる一年草。夏から秋にかけて藍色の清楚な花を咲かせる。その清く儚いイメージとは裏腹に、生命力旺盛で、畑にとっては、蔓延すると厄介な雑草である。
容赦なく刈り取られていく雑草、露草。ふと見ると鎌の刃に切られた露草の花が乗っている。農作業の後の(もしくは最中の)見過ごしてしまいそうな光景に目をとめた作者。よく切れそうな鎌の刃と、目の覚めるような瑠璃色の可憐な花。

「鎌の刃に露草の花のつてゐる」ただそれだけで、瑞々しい映像が浮かぶ。美しくも、シュールにも想像できる一句である。
こちらは、さらに残忍(?)な一句
〈露草の瑠璃をとばしぬ鎌試し・吉岡禪寺洞〉


〈句集『讀本』ふらんす堂2011年所収〉


2017年9月3日日曜日

DAZZLEHAIKU9[山口昭男]渡邉美保 



月を待つみんな同じ顔をして   山口昭男


 子どもの頃、私の住む町では、十五夜(中秋の名月)に町を挙げての綱引きが行われていた。まだ宵の口から、若者たちが綱引きの綱を担ぎ、何やら叫びながら町を練り歩く。月が上ったら、通りの真ん中で、隣接する地区同士で綱引きが始まる。綱引きの中心になるのは若者達だが、町中の老若男女、子供たちも参加する。手の届かない子供たちは、綱に細いロープを掛けてもらい、それを必死に引っ張るのだ。
 豊漁の神と豊作の神の対戦とかで、豊漁が勝つか、豊作が勝つか綱の引き合いとなる。やがて綱が二つに千切れることで引分けとなり、豊漁、豊作の両方がめでたく確定する。空には満月が煌々と輝いている。夢の中の出来事のような、遠い日の光景を思い出す。
 月の出を待つみんなは、同じ顔をしていた。

  つきの ひかりの なかで
  つきの ひかりに さわられています
  つきの ひかりに さわられながら


      (まどみちお詩集「つきのひかり」より抜粋)

〈句集『木簡』青磁社2017年所収〉 


2017年8月31日木曜日

DAZZLEHAIKU8[山口昭男]渡邉美保



  先生の言葉少なき茂かな  山口昭男


 夏の頃の樹木の盛んに茂っているさまはすさまじい。ことに夏山の茂りは日も差さず、枝葉にすっぽりとおおい隠されて、中がうかがい知れないような繁茂のしかたである。新緑の頃のような明るさもない。
 茂りの中を一緒に歩いている先生が言葉少なくなり、だんだん無口になる。先生は作者が敬愛し、師事する大切な先生なのだろう。「言葉少なき」先生とそれを諾う作者。師弟間の信頼の深さや、先生への傾倒ぶりがうかがえる。
 先生の言葉が少ないことで周囲の静けさは増し、茂りの質量もふえていく。鬱々と茂る草木の量感と熱気に圧倒されそうである。
 茂りの中に、先生の語られない言葉が満ちてくる。そして、それを享受する作者。そこには、言葉のいらない充足感のようなものが感じられる。微かなエロスの香りもまた。


〈句集『木簡』青磁社2017年所収〉